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日本の旅の記録です・・!!

国内旅行をはじめハワイや沖縄、世界遺産など国内各地の旅の記録です。

日本周遊紀行(90)東通村 「居候の役場」

2010年05月11日 09時46分25秒 | 青森県、岩手県
【東北・太平洋道】 青森(大間)⇒⇒⇒⇒福島(いわき) 




 日本周遊紀行(90)東通村 「居候の役場」 


北海道一周を終えて、再び「東北」へ戻ってきた。
本州・最北部、下北半島の大間へ再び上陸して、次に東北地方東部から関東地区沿岸を巡ります。
尚、下北地方の内部地域である恐山や薬研温泉、そして下風呂温泉などは後頁の「温泉・観光」の項で記載します。



「むつ」の市街地を抜けて、国道279から県道7の小高い丘のような「冷水峠」を越えると「東通村」(ひがしどおりむら)へ入る。 
即ち、下北半島の頭の先端部分が東通村である。 

本州北東端に位置して、津軽海峡と太平洋に面しており、海岸線だけでも約60kmに及び、面積も約300km2と大きな村である。
この雄大な自然から、当然ながら豊富な海・山・里の幸に恵まれている。

しかし、この村のチョットユニークなところは、村は既に100年以上もの歴史をもつが、最近、流行(はやり)の合併の話も無いようで独自の村経営を行っている様なのである。 
更に、面白いのは村が誕生して100年もの間、隣の町(田名部=むつ市)に役場・庁舎を置いてあった事で、いわば、居候の役所であったのである。 
村が発祥して100周年を記念し、やっと庁舎を地元村内に設けたという。


歴史といえば、青森県全域にいえる事だが、この地も、超古代人(縄文人)が生活してた痕跡・遺跡が多数発見されているという。 
特に尻屋地区等北部に集中しているといい、これは北海道との関連も覗えるが・・、南へ下って青森の三内円山の縄文文化にも影響を及ぼしているのかも知れない。 しかも、この地に北海道特有の文化と言われる「擦文文化」の跡も発見されているという。

「擦文文化」とは北海道の道中において何度も記載したが、8~13世紀、北海道全域と東北地方北端に見られる文化で、北海道特有の続縄文文化に当時の本州の文化が刺激を与え、成立したものとされている。(本州の平安から鎌倉初期の時代) 
即ち、石器、土器は消滅し鉄器が普及しはじめ、農耕(稲作は含まず)も行われたが、生活基盤はあくまで狩猟・漁労にを置いたもので、近世アイヌ文化の先駆となる文化である。


それらの文化が今に継承されているのだろうか・・?、現在に至って先人から受け継いだ能舞、もちつき踊、神楽・獅子舞等の歴史的伝統文化、民俗文化が今も華開いているという。 
車で走っていても、何の変哲も無さそうな人口8000人足らずの寒村に、長大な人類の足跡が残されていたのは驚きであった。 



尻屋崎灯台と自然放牧の「寒立馬」

北東端には「尻屋崎」がある。
この周辺で目を引くのが周年、放牧されている津軽馬といわれる「寒立馬」は有名である。 粗食に耐え、寒風吹きすさぶ厳寒の季節、力強く立ちつくす姿は、命の尊さと、たくましさを感じさせる。 
野生の馬と思っていたが、実は飼い主がいるらしく農用馬(肉用馬)として自然放牧されているという。
寒立馬及び尻屋地区の生息地は青森県の天然記念物に指定されている。


歴史的伝統文化と自然の豊かな東通村だが、この村に既に原始力発電所の誘致が決定しているという。
東通村は歴史ある村であるが、未来志向の村でもあった。


次回は六ヶ所村・「原子力発電」




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日本周遊紀行(36)大間 「本州最北端」

2009年12月09日 13時44分22秒 | 青森県、岩手県

本州最北端「大間崎」


日本周遊紀行(36)大間 「本州最北端」


「大間」に到った・・!、本州最北端の地である

町並みには、『祝、泉 浩君 アテネオリンピック柔道・銀メダル』と横断幕が目に入った。先般、日本勢が大活躍した、そのオリンピックが終わったばかりであり、因みに日本勢の獲得したメダルは金・16、銀・9、銅・12の成績で、世界ランク第5位、メダル数は史上最高だとか。 

「泉 浩」氏はこの大間の出身である。 
父親は大間では有名な、あのマグロの1本釣りの猟師であることはニュース等で報じられたが、今年の大間のマグロ漁(1本釣り)は大漁だという。 
聞くところによると、マグロ漁は1月半ば頃までで、この猟期が終わる。
その後は、20t足らずの船で遥か西南の地、長崎の五島列島まで三日三晩かけてイカ漁に出かけるらしい。



御存知、大間は本州最北端に地・岬である・・!!

大間町」は、本州最北端に位置し、人口 7000人の漁業を主産業とする町である。
だが明治以前は、良港にも恵まれていた南の隣村「奥戸」の方が大間より繁栄していたともいう。 

もともと、大間と奥戸は別々の二つの村であり、両村が合併し大奥村となった時代には、奥戸に役場が置かれた時期もあった。 
しかし、大間は水産業で徐々に発展し、明治維新前後の斗南藩士(旧会津藩士)の定住などで大間が活況を呈し、農業中心の奥戸は相対的に地盤沈下することになる。 
役場も大間に移り、昭和17年11月3日の町制施行で大間町が誕生し、時勢は大間中心となった。

大間の赤猫、奥戸の《でんで》・・、」という言葉があるらしい。

これは両地区の気質をよく現しているという。 
つまり、大間は奥戸から見て、「赤猫」のように気性の激しい漁師気質であり、一方、奥戸は農耕型であり、土とともに生きる農民気質で、人々はおっとり、のんびり型が多く、それは自然への依存の影響だろうと。

「でんで」というのは「代々」のことであり、伝統と格式を重んじたのが奥戸だったといわれる。 
やはり、これも時代の流れであり、歴史の相違かもしれない。



大間から津軽海峡を挟んで北海道・亀田半島の汐首岬までわずか17kmしか離れておらず、晴れた日には、間近に北海道を見渡すことができる。 
三方を海に囲まれているこの地沖合いは、日本海の対馬海流と太平洋の黒潮が出会う絶好の漁場でもある。 
そして、明治時代から引き継がれてきた伝統漁法の「マグロの一本釣り」は余りにも有名である。 
漁師が腕一本で数百キロのマグロに挑む昔ながらの漁法は、昨今、TVなどでも紹介されてるが、先刻も某TV局で、一年に何と60本ものマグロを水揚げする漁師が放映されていた。


大間で獲れた近海もののマグロは鮮度が高く、味が良いことから市場では超一級品の名を受け、高値で取引されるほどの活況を見せていた。
だが、昭和50年前後を境に魚影が薄くなり、つい近年まで大間沖からの水揚げは殆どなかったという。 

その原因については、海流や水温の変化など諸説がいわれているが、 漁師の一部には青函トンネル工事が原因ではないのかと指摘する者もいた。
だが、県の調査では「影響はない」とされた。
最近になっての好漁になってきたらしいが、併せて、マグロの生態系については、まだまだ不明な点も多いという。


魚影が消えてから凡そ10年ぶりに、「マグロが来た・・!」と浜が活気づいたのが平成5年(1993)のことであった。
平成6年には440キログラムの超大物が捕れた記録もある。
以来、毎年100~300キログラムクラスのマグロが水揚げされるようになり、平成7年は、100キロを超える大物が200本も水揚げされたこともあり、以降順調に水揚げされているという。


大間のマグロは、大間崎沖1~3キロメートルで釣れる近海物だけに、東京築地市場でも値が高く、外国産の冷凍マグロが1キロ当たり7000円前後なのに対し、軽く数万円の値がつき、高値のため大物はほとんど東京方面の大市場(築地ほか)へ直送され、「地元でおいしいマグロが捕れるのに、なかなか口に入らない」と地元民の嘆く声もあるという。


こうした命懸けにも近い大間のマグロ漁に生きる漁師を題材にして書かれた、作家・吉村昭氏の小説「魚影の群れ」が映画化された。
昭和58年、主演の故夏目雅子やマグロ漁師に扮した緒形拳ら全スタッフが当町に泊り込んで話題となった。

又、2007年の正月TVに放送された新春スペシャルドラマ『マグロ』(テレビ朝日系)があった。 
ドラマは、マグロの一本釣りに人生を懸けた漁師・竜男(渡哲也)が主人公で、撮影中、渡らが大間の津軽海峡で約220キロもある大物マグロを実際に釣り上げ、成功したというのは有名な話である。


数年前、お上さんと車で北海道旅行の途中、函館へ渡る前、大間港の岸壁の民宿に宿を取ったことがある。
折しも、偶々(たまたま)マグロの水揚げに遭遇し見物する事ができた。 
接岸された漁船は、岸からクレーンでマグロを吊り上げるところであったが、聞くところ体長2.5mくらいで200kg以上はらくに有ったいう。 
これからトラック便で東京・築地まで直行するとのこと・・。
大間から八戸へ出て高速道を一気に走るらしい。
因みに、「値段は数百万は付くだろう」と、地元猟師が自慢げに話していた。


ところで、大間から真近に見える北海道からは、TVやラジオの放送が地元青森の放送より良く受信出来る。 大間の人々は買い物等をするにも青森に行くより函館に行く方が普通だという。 
青森までは車でも3時間以上は掛かるし、大間町民にとっては「函館」は海を隔ててはいるが、隣町のような身近な都市なのである。



大間の岬、「大間崎」は、コンクリートやレンガ積みされサッパリ綺麗に整備された岬である。 
岬の先端部には「本州最北端の地」と掘られた銘碑や、巨大なマグロを模ったモニュメントが威容を誇っている。
青海の向こうには「弁天島」と、そう遠くない距離に、これから訪れる大地、蝦夷地・北海道が鮮明に見えている。



北の猟場』 唄・北島三朗
いのち温めて 酔いながら
酒をまわし飲む
明日の稼ぎを 夢にみて
腹にさらし巻く
海の男にゃヨ 凍る波しぶき
北の漁場はヨ 男の仕事場サ


次回から、今まで巡ってきたコースのうち、主要観光地を特に『温泉と観光』として紹介します。


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日本周遊紀行(35)脇野沢、佐井 「本州天辺の村」

2009年12月08日 10時49分38秒 | 青森県、岩手県

日本周遊紀行(35)脇野沢、佐井 「本州天辺の村」


川内」あたりで大粒の雨が風をともなってやってきた。
これから「脇野沢」から仏ヶ浦へ向かうつもりだが、この間は激しいヘヤーピンカーブの山岳道路だ。 
風雨がやや強くなっているこの悪天候でどうか・・チョット思案したが、相手は四輪駆動車だ・・ママヨ!。

脇野沢へ向かう。
海から吹き付ける風雨が強くて見通し悪く、走り難い。


下北半島の形は、どうしても「斧・まさかり」に形容される。 
その突き出た下北半島の「まさかり」の刃の下(南方)の部分に当たるのが「脇野沢」であり、上の部分(北方)がこれから向かう「大間」である。 


手付かずの自然が数多く残り、霊場・恐山や点在する鄙びた温泉、夜の海峡にきらめく漁火。海も、山も、大地も、まさしく「最果て、地の果て」に来たことを強く感じるところである。


脇野沢村の村落は、この地、脇野沢地域と西側の九艘泊(くそうどまり)の港の二箇所に分かれる。
九艘泊の港は、源頼朝に追われた義経一行の船が九艘、嵐を避けるために停泊したのが地名の由来と言われているが・・?。 
九艘泊は、脇野沢より地方道で結ばれてはいるが、ここより先は道は無い。
又、吹雪の場合は通行止めにもなり、正に地の果て、「クソ止まり」になってしまうという。


自然一杯の地・・?、自然のみの地は海の幸も豊富であろうが、当地は、天然記念物の北限のニホンサルやニホンカモシカの生息地で有名である。 
その北限のニホンサルが、今、脇野沢村民にとって大きな問題を抱えるようになっているとか・・?。


それは、行政、地域で保護に努めてきたお陰で相当数に増えているといい、その為に最近では農作物の被害が拡大し、尚且つ、村民を威嚇し人的被害も出ているという。
これらのサルを有害サルと特定し、認定されれば捕獲に乗り出すらしい、当然、動物を愛護する人々からは、「可愛そうだ・・!」という反対苦情が村には寄せられているらしいが。 
村としては過去に、いろんな施策を講じてもきたらしいが、果たして、村当局はどんな結論を出すのか、他人事ながら、興味が尽きない。




海峡ラインと佐井・・、

その通称「海峡ライン」と呼ばれているのが国道338号線である。
脇野沢村を過ぎると深い原生林の中へ突き進むといった感じである。 
見ると津軽半島の平館あたりが、とりわけ近くに眺望でき、そのためか此処を挟む海峡を「平館海峡」と命名している。
その海峡の向こう平館あたりからこちら側を見た風景は、断崖絶壁の壁であった所である。 
国道338のこの区間は、海沿いの山岳路とも言うべきもので、尾根を越え谷を渡って進んで行く。 
「海峡ライン」は、とにかく上下動の激しい急カーブ、急坂の連続であった。



下北半島を「斧・マサカリ」に喩えた話であるが・・、


改めて下北半島の地図を平面的に見てみると、まさしく「斧」に見える形状である。 
注目したいのは刃の部分である、現在走っている、所謂、海峡ロードである山域は海岸より水平で見るとホンノ僅かの距離である。 
つまり、海岸線より僅かの地点を5~600mの標高の山稜が、南北に走っているのであり、そこから流れ出る河川、下北半島最深部の川は西側海岸に向っては急流の短い谷となって駆け下りているのである。 
これら、斧の「刃・マサカリ」の部分にあたる地域は、実は立体的・三次元的に見ても斧の刃そのものなのである。




しばらくして、まだ海面よりかなり高目を走っているのに、「仏ヶ浦入り口駐車場」とオンボロ看板があった。
仏ヶ浦」は、霊が宿るという「恐山」の冥土の入口に当たるとも言われる。 
この名所・仏ヶ浦の詳細については後述するので、お楽しみに・・!!。

さて、海峡ラインも北部に到って、ようやく海岸に出る。

本州てっぺんの村と言われる「佐井村」である。
マサカリ状の下北半島の刃の部分の海岸線が凡そ40kmにもなるが、その内、秘境・仏ヶ浦を含めた28kmを占める南北に細長い村である。 
山が海岸線まで迫り、村面積の多くを恐山山地を構成する山岳が占めていて、海岸線沿いの細い平地部分にのみ集落が存在し、古くは蝦夷の定住集落も存在していたと見られている。
現在は海岸線利用した、ウニ・鮭・ワカメなどの沿岸漁業中心の村であるが、江戸時代には南部藩領で「南部ヒバ」の特産地及び積出し港、北前船の中継港として、また、蝦夷地への渡船港として栄えたという。


ヒバの木」は針葉樹・ヒノキ科の一種で、北海道南部から四国、九州にかけて分布するが、天然林は「青森ヒバ」が全国的に有名である。 
東京方面で手に入るのは青森ヒバが多く、関西では能登ヒバ(能登アテとも云うらしい)が多いという。 ヒバの特長は、第一に虫や木材腐食菌に強いこと。 


昔から「ヒバ普請の家には蚊が3年は寄り付かない」といわれ、特に白蟻に対する強さは他の樹種には見られないほどであるという。
これは防蟻に有効な成分を含んでいるためで、シロアリが青森ヒバを食べた場合死滅するともいう。 
ヒバは殺菌性のあるヒノキチオールの含有量が多く、腐りにくく、耐水性があって湿気にも強い。
ヒバの薬効製は、皮膚病の薬(アトピー性皮膚炎)、水虫の治療薬、養毛剤などの医薬品、化粧品など各種抗菌剤があるとされ、ヒバ油は芳香剤として、部屋、浴室の壁板、 浴槽アロマテラピーなどに利用されるという。


特に、北方型の青森ヒバ(「ヒノキアスナロ」とも云うらしい)の美しい木肌、高貴な香り、そして世界中探しても 青森ヒバのような強い抗菌力を持つ木は他には無いと言われる。 
東北北部、特に、下北半島・恐山一体は全山南部ヒバ(ヒノキアスナロ)の原生林で、木曾ひのき、秋田杉とならんで古くから日本三大美林の名で知られている。

下北の民族誌には、 『ヒバの花盛りは、雪のしんしんと降り積もる一、ニ月の頃でございます。雪とともに空中高く舞い上がって実を結び、地上の雪に根づいて、百年、それは生命の極限を越えてやっと成木するという、北国特有の銘木でございます。』 と記されている。


ヒバの木は年々減少し、近年、保護育成のため伐採は計画的に行われているといい、難しいとされる青森ヒバの植林も其々の工夫とアイディアで順調だというが、成木になるには、2~300年もかかるという。



その佐井港は、江戸時代には東北・北海道と京・大阪、江戸を結ぶ北前船の中継地として大いに繁栄した。
その交流を通じて文化や芸能が伝わり、中でも歌舞伎は、この地の人々の心身に染み込んだ故郷文化として残されているという。 
上方の地回り役者が伝え、漁師によって伝承されてきた漁村歌舞伎で知られる「福浦歌舞伎」は、全国でも珍しいもので県の無形民俗文化財に指定されているという。



次は、 いよいよ本州最北端「大間」です


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日本周遊紀行(34)むつ 「旧会津・斗南藩」</

2009年12月07日 14時17分38秒 | 青森県、岩手県
日本周遊紀行(34)むつ 「旧会津・斗南藩」


野辺地から国道4号線と分かれ、国道279に入る。 
海岸沿いの小さな市街地を抜け、一路、下北半島へ向かう。R4の混雑が嘘のように、静かな良道である。 野辺地から「むつ」の大湊まで、JR大湊線が平行している。
 
しばらく走ると「横浜」と言う、懐かしい地名に出会った。
小生の住んでいるのが神奈川県、日本一の高さを誇る「ランドマーク・タワー」のある大都市・「横浜」はすぐ近くであるが・・、 

こちらは、東は陸、四季折々の色彩を織りなす、なだらかな丘陵地。
西は海、陸奥湾に面した長く美しい海岸線。 
海の青、菜の花の黄色、山の緑と、そのコントラストが美しい春の横浜町。
菜の花の作付け面積日本一を誇る北の町 、「横浜」(よこはままち)は下北半島の首位部に位置する臨海山村の地域である。
あちらは日本一のノッポビル、こちらは日本一の菜の花畑、さて貴方のお好みはどちら・・・?? 

無人(・・?)の大湊線・横浜駅を記念に撮り、道の駅・「よこはま」で小用をして、さらに北上する。
むつ市の市街地に入る少し前に、102円/Lの看板を出してるG・スタンドが目に付いた。
通常より15円以上も安く、はじめ半信半疑で通り過ぎてしまったが、・・ママヨ!と思ってUターンして、再度確かめたら、やはり間違いはないようだ。
 
車を寄せて店員に「ぜーぶん安いね、混ぜてんと違うんか・・、」半ば冗談で・・、
「冗談なして・・」あちらも、半ば怒顔で言う。
おまけにスタンドに’本日更に1円引き’とあった。 丁度頃合なので満タンにする。
通常このあたりは110~112/円、神奈川では116以上しているのである。
何か得した気分で先を急いだ。



むつ」の市街に入った。
この「むつ市」は小生、少々の想い入れが有る。 

昨年(2003)から今年にかけて「早乙女 貢」の大河歴史小説『会津士魂』を読破した。 そして小生の出身地は会津同郷の「福島・いわき」であることから。 

この本は、全二十一巻の大長編物語で、殆どが史実にもとずいて書かれている。特に「下北」を舞台にした続編は、万感胸に迫るものがあった。



時代が変換してゆく中には必ずと云っていいほど、それなりの戦役を体験している。
中でも「関が原の戦い」、「明治維新」、そして「太平洋戦争」が日本の歴史上の大転換点であり、更に現代がそれに次ぐ時代とも言われている。
特に近代への入り口である明治維新を知ることは、現代に通じるものも多いと思われるのである。


幕末の動乱期、「会津藩」は京都で京都守護職という役職につき、「新選組」を擁して京都を浪士達から守っていた。 
ここでの浪士・不穏分子とされていたのは薩摩、長州をはじめとする尊皇攘夷派たちの所謂、急進派であった。 
特に過激な浪士が民家を襲い、市中を混乱させていた異分子である攘夷浪士達を、新撰組が取り締りに当たっていた。 

この様な世相の中、会津藩藩主・松平容保(かたもり)は将軍・家茂、孝明天皇から絶対の信頼を得て任務にあたっていた。
この時期、京を騒がしていたその最たる事件が世に言う「池田屋事件」であろう。 
その後、「八・十八の政変」(1863年8月18日、長州が京から追われ、同時に七卿も落ちる)や「禁門の変」で、薩摩藩とともに長州藩を追放するが、この長州追い落としの際、中心となったのも会津藩であり、この事が後に長州が会津に対する恨みの要因となったといわれる。

同じ時期、将軍・家茂(いえもち)が亡くなり、孝明天皇の崩御で時態(事態)が急変する。十五代将軍に徳川慶喜(よしのぶ)が就任、 そして坂本竜馬らの仲介のもと、「薩長同盟」が結ばれてる。
政局難に陥った慶喜は、大政奉還(政権を天皇に返す)を行い、更に「王政復古」を行い、朝廷からは慶喜に謹慎、領地の没収などの命が下る。



1868年正月3日より始まった「鳥羽・伏見の戦い」では、圧倒的に会津藩をはじめとする幕軍有利のだったはずだが、新政府軍は朝廷を抱き込み「錦の御旗」を掲げたことによって、多くの藩が新政府軍に流れる中、まさかの敗退を喫してしまう。 

慶喜は嘆願して謹慎、容保の登城も差し止められたため会津へ戻り、謹慎の意を表すことになる。 
しかし、幕府の不満分子は江戸城に集結して、さらに一戦交えんとするが、勝海舟の仲立ちで江戸城は「無血開城」する。 
だが収まらないのが京の「池田屋事件」等で散々な目にあい、会津に恨みのある長州であり、あの手この手で、どうしても会津を攻めようとする。 
そして「奥羽諸藩」に会津追討の命が下るが、奥羽諸藩は逆に、会津は恭順姿勢を明確にしているため討つ必要無しと拒否し、更に奥羽越列藩同盟が結ばれる。 遂に新政府軍は会津を攻めるべく戊辰戦争・会津戦争が勃発するのである。


戦線の火蓋を切った新政府軍の勢いはすさまじく、奥羽白河、二本松を攻め、会津への進攻は急をつげる。
近代兵器と物量に勝る官軍(会津の人は似非官軍と言う)に、母成峠、戸の口と攻められ城下まで戦火は及ぶ。 
この時期、会津白虎隊自刃の悲劇がおきている。


藩士家族は城内へ、又は自宅で自刃し、家老の西郷頼母(さいごう たのも)一族も自刃して果ててる。 
藩士は1ヶ月篭城するが、無念なり会津は降伏するのである。

藩主・容保親子は会津謹慎後、東京へ移され、後、松平家家名再興が許されるが、 勝っても尚、会津に恨みを持つ長州は会津全藩を遠国島流しの刑に処する(実質的に会津藩の滅亡)。

その地は「北の果て」といわれる陸奥の国、「南部藩領」(現、むつ市)であった。
数え三歳の容大(かたはる)を藩主とし、新領地「斗南」(現在の青森下北・むつ市)へ移ることになる。



本州と北海道の間に斧のような形に突き出した下北半島。 

陸奥湾と太平洋を隔てる斧の柄の部分は、それほど高い山もなく、JR大湊線の車窓からは荒涼とした淋し気な景色が続く。この地、今は「むつ市」となっているが、福島県・会津若松市とは以上のような関係が有ったのである。




むつ市海岸の「斗南藩士上陸之地」の碑(碑は会津若松市の方向を向いて建てられている)


市街地から大湊駅を左に国道338を行くと、「斗南藩士上陸之地」と古ぼけた案内板が有った。 
普通の人なら目にも留めないで、通り過ぎてしまうような地味な所である、やや細まった道を海岸に出ると、奥の方にその碑はあった。その碑は会津若松市の方向を向いて建てられているとのこと。 
明治3年6月10日、新潟から乗船した1800人の旧会津藩士とその家族が、 ヨウヨウにして到着、上陸した場所であった。


現地の碑文より・・、br>
『 明治維新に際し、明治元年(1868)の戊辰の役に敗れ、廃藩の憂目にあった会津藩は、翌明治2年、斗南藩としての再興が許され、旧盛岡藩領の北部へ移封されました。現在の青森県下北郡・上北郡を中心に会津から移住してきた藩士とその家族は2,600戸、17,300余人と記録されています。この内、新しい藩庁が置かれた田名部(現むつ市)を目指して新潟港から新政府借上げのアメリカの蒸気船ヤンシー号に乗船し日本海廻りの海路をとって移住してきた一団1,800名がこの沖の大平橋に到着したのが明治3年6月10日のことでありました。 』



会津藩は領地を没収されたが、明治2年11月、下北地方、それに三戸郡と二戸郡(当時)が与えられ、家名再興が許され、移住者は2600戸、1万7千名以上に達した。 
この地を「斗南藩」(となみはん)と命名した。
「斗南藩」は、「北斗以南皆帝州」、つまり、北斗七星 の南は等しく帝(天皇)の国である、という中国の詩文に由来するという。 
新藩・「斗南藩」の町並みを造り、領内の開拓の拠点となることを夢見て、この地は藩名をとって「斗南ヶ丘」と名づけられた。 しかし、そこは火山灰土の風雪厳しい不毛の土地であった。



むつ市大字新町にある曹洞宗寺院「円通寺」(恐山・本坊)は、戊辰戦争で敗れた会津藩が斗南藩三万石として転封された際に藩庁が置かれた寺院である。 
境内には明治33年に建てられた斗南藩主松平容大の筆になる「招魂碑」が残る。 

斗南ヶ丘は、斗南藩・藩士の居住地として開墾に従事させた地であるが、開墾は困難を極めて殆どが失敗に終わったという。
むつ市内から東通村尻屋崎に向かう主要地方道、むつ・尻屋崎線沿いにも「斗南ヶ丘居住地跡」が残り、現在は公園として整備されているという。

斗南藩士(旧会津藩士)の尽力が、今の「むつ市」の発展の礎になったことは言を待たない。


次回は、「脇野沢」




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日本周遊紀行(33)野辺地 「或る旧会津藩士」</

2009年12月06日 13時38分20秒 | 青森県、岩手県


夏泊半島と下北半島の狭間の町、野辺地の江戸期の「常夜灯」



日本周遊紀行(33)野辺地 「或る旧会津藩士」


「野辺地」(のへじ)は、俗に「斧形」の下北半島と夏泊半島の付け根に位置している。

北を陸奥湾に面し、南東部には緑豊かな丘陵をいただき、かつては南部盛岡藩唯一の商港で江戸期には北前船で賑わい栄えた歴史ある町である。
このため、古くから交通の要衛として物資、物流の重要な役割を果たし、商港として千石船が多く出入りしていた。 

港の岸壁にはこれら出入船の安全のため、夜は灯をともし、現在の灯台の役割をつとめた「常夜灯」が常時灯されていた。 
当時、地元の豪商・野村治三郎が船の出入りの安全を願って建造したもので、野辺地湊の尖端に常夜燈が灯ったには、江戸末期(1827年)の頃であった。

青森特産のヒバや南部の大豆や鰯など、京・大坂や外国向けへ積み出され、往路には大阪で生活用品や上方の文物に荷を代えた船が、この灯火を目指して港へ帰ってきたものである。
この常夜灯(灯台)は、現存する日本最古のものといわれている。


野辺地と旧会津藩士・・、
幕末から明治にかけて、大きく世の中が変革を遂げようとする時期、この野辺地の港に明治3年、旧会津藩の船が入港してきた。 
その中に、会津藩士280石取の柴佐多蔵の五男として会津若松城下に生まれた「柴五郎」が含まれていた。 

品川沖からアメリカの外輪蒸気船に乗った五郎らは、まず野辺地港に入り、島谷清五郎の呉服屋を経て「海中寺」という寺に止宿していたようである。 
このときの様子を柴五郎は、「野辺地日記」に記している。

その後、田名部(現、むつ市)の「落の沢」に移り、柴家永住の地との決意を持って移住した。 
旧会津藩士(斗南藩士:明治期、廃藩置県で藩はなくなるが)柴五郎は、後の会津若松初の陸軍大将に栄達する。

斗南藩・落の沢について五郎は、後にこう述懐している・・、
『 落の沢には新田初五郎の家一軒と、それより五十間ほど隔たりたる低き川辺に分家の一軒あるのみなり。 これよりさらに十丁ほど離れて干泥田村の十四軒が最も低く、隣村の大平村には二十余丁、金谷村には一里ばかりあり。 霊媒にて有名なる恐山の裾野は起伏し、松林、雑木林入り交じり、低地に数畝の田あるのみ。 まことに荒涼たる北辺の地にて、猟夫、樵夫さえ来ることもまれなり。 犬の声まったく聞くことなく、聞こゆるは狐の声、小鳥の声のほか、松林を吹き渡る風、藪を乱す雨の音のみ。 』と。



戊辰戦争で苦杯をなめた会津藩は戦後、新政府により会津松平家の再興を許された。
領地として旧領内の少区域の猪苗代湖畔、もしくは北奥の旧陸奥南部藩領のいずれか三万石を提示された。

その際「農業により領地の財政基盤を築くこと」との条件があったため、衆議の結果、農業に有利である思われる領地の広い北奥への移住が決定した。 
新しい藩名は「斗南」(となみ)と命名され、旧藩士と家族1万7千人余りが移住した。
その中に柴五郎らの家族もいたのであったが、そこは火山灰土の風雪厳しい、農業には全く不向きな不毛の土地であった。

柴五郎は、旧会津藩士柴佐多蔵の五男として若松城下に生まれてる。
会津・日新館に学ぶが、戊辰の戦乱のため日ならずして休校。 
新政府軍の若松城下侵入に先立ち、郭外の沢集落にあった柴家の山荘へ難を逃れたが、家に残った母と妹は自刃して果てた。

八歳の時、斗南藩への転封が下され、その後は北奥でのどん底の開拓生活が待ち受け、一家は辛酸をなめた。
彼は後に、斗南藩時代を書いた「野辺地日記」や不屈の生涯を書いた「ある明治人の記録」などの著を残した。
彼は廃藩後、上京して陸軍幼年学校・士官学校へと進み、日清、日露戦争での活躍により大正2年(1913)には陸軍中将に、大正8年(1919)には陸軍大将なる。 その後に12年の予備役となっている。
昭和20年(1945)、太平洋戦争敗戦の報に接して参内、12月13日に東京上野毛の自宅で亡くなっている。
なお、実兄の柴四朗は文人・政治家として名を為した。


薩摩・長州の藩閥(はんばつ)によって要職を独占されていた明治政府であるが、陸軍大将にまで進んだ人物・柴五郎は、武士の謙虚さと温情を持ち、常に敗者の尊厳に配慮するなど、多くの人々に慕われた「会津人」であったという。
新天地斗南藩(青森県)へ移住した後、北の冷涼の痩せた大地で、藩士たちは飢餓のため、生死の境をさまよった。 

挙藩流罪」とも言える敗者へのこの仕打ちに対し父は・・、
『 薩・長の下種下郎武士どもに笑わるるぞ、生き抜け・・!!、ここは戦場なるぞ・・! 』と、常に叱責していたという。

次回、「むつ」



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