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日本の旅の記録です・・!!

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湘南地方の歴史と観光(2) 江ノ島・・Ⅰ「江ノ島弁才天」

2008年01月07日 14時44分02秒 | 湘南編
湘南地方の歴史と観光(2) 江ノ島・・Ⅰ「江ノ島弁才天」

相模の国・神奈川県には寺社の多い「古都鎌倉」、世界的にも知られ温泉場としての「箱根」、景色のいいことで有名な「三浦・金沢八景」、そして庶民の信仰を集めた大山や江ノ島などがあり、江戸から近いということもあり、多くの旅人が訪れれている。
そして「江ノ島」はいつの時代も、古都鎌倉と並んで湘南の象徴でもある・・。


 「弁財天」とは・・・?、
その江ノ島に象徴されるのがやはり「江ノ島神社」であろう・・、別名を「江ノ島弁財天」またの名を「江ノ島弁天様」として衆人の信仰、祈願の対象になり、江戸期には隆盛を極めたという・・。
その謂れは古く、奈良朝以前に役小角(うんのおずね)が開基したともいわれる。

弁財天は平安末期、源頼朝が奥州藤原氏を討つために山城(京)神護寺の僧侶・文覚に頼んで近江・琵琶湖の竹生島弁財天(宝厳寺・竹生島神社=元々一体であったが明治期の神仏分離令で分社寺された)を勧請させたのに始まる・・。 
従って当然社格は武門の神として崇められ、鎌倉期より戦国・江戸期を通じ武将の信仰を広く始め、多くの要人が参拝したと言われる。 
戦国時代は後北条氏(鎌倉期の北条とは異なる)によって庇護され、慶長5年(1600年)には徳川家康が徳川家開府を祈願している。 

当時は島全域が聖域としてあつかわれた・・が、江戸時代にはいると、観光としても江戸から多くの町民が訪れ賑わった。
特に弁財天は音曲をつかさどる神としても知られようになり、歌舞伎役者、芸人なども数多く参拝したという。 

また、農耕、富貴、名誉、福寿などを成就してくれる仏あるいは神としても信仰され、1190年、北条時政(頼朝の正室・政子の父、鎌倉幕府の初代執権)が参詣し、子孫と武門繁栄を祈願した際、龍の化身が現れて「貴家、子々孫々繁栄す・・」と告げて、三枚の龍のウロコを授け、これが元で北条家を「三鱗・みつうろこ」の家紋に定めたという。 
以降、鎌倉期の北条家は150年間、執権15代続くことになり、弁天は幸運を運ぶ福の神とされた。 
今でも江ノ島の各所に「三鱗」のマークが目立つ・・。

「弁財天」は、水辺、島、池など水に深い関係のある場所に祀られることが多いという。
「日本三大弁才天」と称される神奈川県江ノ島、滋賀県宝厳寺(竹生島・ちくぶじま)、広島県・厳島神社はいずれも穏やかな海や湖に面している。

元来、古代インドの「河神」であることから、河の流れる音を連想し音楽神ともされている。 
元祖である宝厳寺のある竹生島は能の演目にもなったり、近世邦楽の楽曲でも取り上げられている。 
平家琵琶で「竹生島」という演目もある。
元より、弁財天の像形には二通りあって、八本の手に弓、矢、矛(ほこ)、鉄輪などを持つ
「武の形」と一方、琵琶を奏する「音曲形」の像があるという。


ところで、琵琶湖は元々は万葉集で「淡海(あわみ)」と記され、後に現在の滋賀県が「近江国(おうみのくに)」と呼ばれる語源にもなっているとされる。 
琵琶湖という名称が定着したのは、江戸中期以降に形が琵琶に似ていることから付けられたというが、案外、竹生島の弁財天が琵琶を奏でていることから、その名が起こったのかも知れない・・?。
尤も、今の竹生島の弁財天は、当地の戦国武将・浅井久政(浅井長政の父)が寄贈奉納されたもので、当人が武将であるため八本の手の武形の弁財天であるというが・・。

又、弁才天の「才」の字が「財」に通じることから財宝神としての性格も持つようになり、「弁財天」と書かれることが多くなった。
鎌倉の銭洗弁天は好例・・、洞窟内の湧き水で持参した銭を洗うと、数倍になって返ってくるという信仰が今でもある・・。
 
弁才天(弁財天)といえば、「七福神」(恵比寿、大黒天、毘沙門天、弁才天、福禄寿、寿老人〈又は吉祥天:布袋)の中の紅一点として有名である。
出身はインドのガンジス川の神とされ、原語では「サラスヴァティ」といって「サラス」は水を意味し、「バティー」は富むの意味で、川、池、湖などの水を神格化したものだといわれている。 
水は邪気を清め、汚れを落すものでガンジス川そのものも聖なる川とみなされ、死者をその川岸で火葬に付し、灰をこの川に流すことは死者に対する最大の敬意とされている。 
また信仰によりこの川で沐浴するために巡礼してくる信者も数多い。 
サラスヴァティは、今でも、これら聖なる川の神なのである。
この神は人に対して弁財や福知与え、延寿及び財宝を与えるように図り、また天災地変を除滅し、かつ戦勝をもたらすという・・、ほぼ完璧な御利益のもち主(神)なのである。 元々、仏神に女神が少ないこともあってか、この江ノ島弁才天はかなりの人気があり、しかも、美人の神とされている。

昔は美人のことを「弁天娘」とか言ったそうであるが・・、この神は、嫉妬深いとも言われる。 
それは同僚の七福神は、老人とオヤジばかりで、目ぼしいのがいないからとか・・?、この俗信は「江ノ島の弁財天」からきたといわれている。 
江戸時代に江ノ島の弁天様詣りは非常に盛んであったが・・、片や若夫婦や恋人同志、同伴で江ノ島を訪れると弁才天が嫉妬するから一緒に渡島するのを嫌ったという・・。 
ただ、これには裏話があったようで・・、江ノ島の弁天様詣りが非常に盛んであったために、それを狙った遊郭、遊女が多かったため、そこで、男の方も女遊びがしたいために、夫婦で或いは恋人同士で行くのを敬遠したためというが・・?。
男の性癖は、古今東西変わることはない・・??。


次回は、 「江ノ島」・・Part Ⅱへ続きます・・。


湘南地方の歴史と観光(1) 「はじめに」

2008年01月07日 12時18分14秒 | 湘南編

湘南地方の歴史と観光(1) 「はじめに」

『古都鎌倉』で、鎌倉の寺社を巡りながら鎌倉時代を中心とした主に源頼朝や北条氏について述べてきたが、その母体となった「相模の国」(神奈川県)は、この時代の創生に少なからず影響を与え又、影響を受けてきた。
特に、沿岸地方は古来より東西の政治や文化、歴史が往来した地方としても顕著である。 
これらの地域は現在、愛称で「湘南地方」とも称しているが・・。

ところで、その「湘南」という名称について・・、
普通に湘南(しょうなん)といえば、神奈川県の相模湾沿いの地方のことを言い、厳密な定義はないようであるが・・?、概ね大磯~葉山のあたりを指すともいう。
それとは別に大磯以西を西湘(せいしょう)と呼び、三浦半島そのものは湘南に含めないこともあるようだ・・。

その大磯が「湘南」の発祥地ともいわれるが・・、
大磯の地に、京都・嵯峨野の『落柿舎』、滋賀・近江の『無名庵』と並ぶ日本三大俳諧道場の一つとして『鴫立庵(しぎたつあん)』というのがある。これは、寛文4年(1664年)に、小田原の俳人「崇雪」が西行法師の詠んだ歌に因んで立てたものという。 
その庭先の標石の裏面に「著盡湘南清絶地」と刻まれてて、これを要約すると『なんて、湘南はすがすがしい所なんだ』という事になる。 
これが根拠に大磯が「湘南発祥の地」であるといわれる由縁である。
因みに、相模に関する詩文の中では『湘東(鎌倉付近)』、『湘水(相州の浜辺)』、『湘岳・湘峡(大山一帯を指す)』、そして『湘川(相模川)』、『湘江(相模湾一帯の浜辺)』といった表現を使っている。

ところで、その「湘南」という言葉の元々は・・、
中国湖南省の「瀟水、湘江」(しょうす、しょうこう)を含む洞庭湖一帯の景勝地を「瀟湘湖南」(しょうしょうこなん)と呼ぶところから来ていると言われている。 
何でも、その風景が相模湾一帯とよく似ているそうで、江戸期頃盛んに中国へ渡来していた禅僧たちが「湘南」という言葉を日本に持ち込んだという説が有力だとか・・。

昭和の中期、石原慎太郎(現東京都知事、石原裕次郎の実兄)の著作『太陽の季節』から太陽族やその映画の主役・石原裕次郎や若大将シリーズの加山雄三の出現などで「湘南」と言う言葉が一般化し、彼らが湘南のシンボルになった。
それらの顕著な時代である昭和期の1950年代頃には、ヨットやクルーザーなどのマリーナがある地域(葉山から江ノ島)が湘南と考えられていたようでもある・・。

なお現在、神奈川県の行政区域名としては、平塚市、藤沢市、茅ヶ崎市、秦野市、伊勢原市、寒川町、大磯町、二宮町を「湘南」と規定しているようである。
国土交通省陸運局の自動車ナンバープレイトに、近年「湘南」という呼称が新たに導入されたが・・、 しかし、秦野、伊勢原、寒川の内陸地が何で湘南なんだ・・ヨ、という異論もあるようである。

この先、小生の住む相模の国(神奈川県)の表地域、云わば小生の地元とも云える(在住はやや内陸地の「厚木」)「湘南」について・・、ただ、実際はその名称から少々外れるかもしれないが「江ノ島から小田原辺り」までを、「古都鎌倉」に続いて歴史と観光を主題に述べたいと思う・・。
巡る先は主に、江ノ島、藤沢、茅ヶ崎、平塚、大磯、二宮、小田原の各地で・・、

其の筆頭は、やはり「江ノ島」からであろう・・。


小生、若年よりの『旅』の記録です。
宜しかったらどうぞ・・。
http://www.geocities.jp/orimasa2001/