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日本の旅の記録です・・!!

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湘南地方の歴史と観光(3) 茅ヶ崎・・Ⅲ「寒川神社(1)」

2008年01月14日 17時09分50秒 | 湘南編

湘南地方の歴史と観光(3) 茅ヶ崎・・Ⅲ「寒川神社(1)」

では、寒川神社の祭神である寒川比古・寒川比女とはいかなる神様なのであろうか・・?

ここで四国讃岐の大川郡寒川町が関連して登場してくるのである・・。
高松の南西地域に南北に細長い「寒川町」がある、ここでは(さんがわちょう)と読むらしい。
町域のほぼ中央に「大蓑彦神社」(おおみのひこじんじゃ)というのが鎮座している。
この神社の起縁由緒には「水霊の説いと由ありて聞ゆ、故考へるに延暦儀式帳に牟祢神社は大水上の児寒川比古命、寒川比女命と云う、又、那自売神社は大水上御祖命なり。 大水上神、大水上御祖命同神にて、此大蓑彦命も大水彦神の義ならん。 郡名は寒川比古命、寒川比女命に由ありと思うべし」・・と、
大蓑彦命も大水上神も「水の神」であり、その子達が寒川比古命、寒川比女命(牟祢神社)である・・と、どちらも水に関係する神様だと判る。
そして郡名は寒川・・と・・、現に寒川町周辺一帯の大川郡は以前は寒川郡であった・・。

地理的には讃阿山地の南に面し、中小河川の流域で鴨部川や津田川となって流出している。またこのあたりは門入池をはじめ無数の池が点在しているし、洪水時には水害の起きやすい地形と想像できる・・。
どうも大蓑彦神社も治水ために勧請された神様らしい・・。
治水工事というのは当時、最高水準の技術を必要とされ、その技術は呪術にまでも及んだという。 
川を鎮め、土地を太らせ、地域を安泰に導く・・、これこそ国家風水の技術であり、方位の吉凶を知る技術でもある。 合わせて、ここに水の神が勧請されたのも理解できる。
国家風水としての役目を終えた神社は、後は民衆を導く八方除けの神教となったのかもしれない。

では相模の国・寒川町と讃岐の国・寒川町はどのような関係、経緯があったのだろうか・・?

古代の讃岐地方(隣国・阿波も含む)は忌部一族(いんべぞく・大和朝廷成立に大きな役割を果たした讃岐忌部氏・農耕・航行の民)が支配していた。
古代・中世の交通機関は船が中心だった。
忌部一族は黒潮ルートにのって房総半島に、先ず渡来したと言われる。
房州は古くから関西との関係が強い・・、因みに、「勝浦」、「白浜」(紀州)や「安房」(阿波)など、関西の土地の名を付けたところも多い。
更には、忌部・阿波の民は、房州はおろか関東を開いた民とも言われる・・。
そして、上総の国(千葉市中央区)にも寒川町があり、「寒川神社」が鎮座し「寒川比古命、寒川比女命」を祀っているのである。(この辺りの詳細は小生の「東日本周遊記」の最終章に記載有り)

又、古代・平安初期には三浦半島から相模の国にかけては平氏・桓武天皇の一族である三浦氏が支配し、三浦は元々は相模、房州の海をも支配していた海族でもある。
これらの祖先が相容れあって、讃岐から相模へ「水の神」を勧請したのかも知れない・・・?

一方、相模と讃岐の香川とは深い繋がりがあった・・。
平安期より関東周辺、相模地区は桓武平氏に連なる豪族が地域の支配権を握っていた。
「鎌倉党」と称して大庭、梶原、長尾、そして香川氏らがそうであるが・・。 
その香川氏は、桓武平氏を名乗っていた時期、後三年の役(平安時代後期の奥州を舞台とした源義家らによる戦役)に活躍した鎌倉権五郎景政の後裔が相模国高座郡香川村(寒川のすぐ南)を領し香川氏と称していた。
権五郎景政の子孫は鎌倉に住して香川三郎経景と称し、承久の乱(鎌倉初期、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して倒幕の兵を挙げた兵乱)に際して幕府方として活躍、その功によって安芸・讃岐などに所領を賜り、景光の弟景則の系が讃岐に移住して子孫が広まったという。以降、官僚・細川家の下で讃岐の守護となり、香川家が滅んだ後もその名が残り、現在の「香川県」がその名の起こりという・・。

一般に、源平合戦以降幕府側は「承久の乱」を含めて朝廷との立場が一変し、西国での平氏領、反幕府側の公家、武家が領した多くの没収地を得た。
これらを戦功があった坂東の御家人に大量に給付したため、多くの御家人が西国に移り住むこととなり、幕府の支配が畿内にも強く及ぶようになった。


ここで、上総の国の「寒川神社」についても触れておこう・・。
千葉市のほぼ中心地に寒川町(さむかわちょう:千葉市中央区寒川町)という地名があって、こじんまりではあるが「寒川神社」が鎮座している。
相模の寒川神社が元宮であろうといわれているが実際には不明だとか・・、元は明神社と云われて寒川地区の総鎮守であり、天照大神を主神に寒川比古命、寒川比女命を相神にまつり、天正19年(1591)徳川家康も社領十石を寄進していて、明治元年(1868)に社号を「寒川神社」に改めている。

この神も水の神、海の神として崇められ、昔は海上往来の船が同社沖前にさしかかると礼帆といい帆を半ば下げて航行し、また社前を馬上で通行する者は下馬して敬意を表したと伝えられる格式ある社宮であったという。
神社近くを、今では都川という河川が流れているが、克っては「ねずみ川」という妙な名前の川もあったという。

この辺り、昔は寒川村といい新田造りや堰用水があったことは史書でも知られ・・、やはり低地の暴れ川であったことが伺えるのである・・。 
当地における寒川神社勧請も、それらの地勢的要因があったことは否定できないであろう・・。
この神社の祭礼には、やはり寒川の象徴である神輿の「御浜下り」(浜降祭)というのがある。
この祭事は古来より行はれていたが、戦中と都市化の波で暫く途絶えていたが、近年、復活して再び実施されているようである・・。 
千葉港・千葉ポートタワー下の海浜で、寒川神社・宮神輿の海上渡御が勇壮に行はれているという。

以上、相模の国、讃岐の国、安房の国の祭神、祭事について、その共通した勧請目的を述べてきたが、更に「寒川神社」の祭神である「」について掘り下げてみたいとと思う・・。

次回は、 「寒川神社」の更に由緒、縁起について



湘南地方の歴史と観光(4) 茅ヶ崎・・Ⅱ「浜降祭と寒川神社」

2008年01月14日 16時19分20秒 | 湘南編

湘南地方の歴史と観光(4) 茅ヶ崎・・Ⅱ「浜降祭と寒川神社」

茅ヶ崎と平塚の市境である相模川のやや上流の、つまり茅ヶ崎市の北隣り、小生の住む神奈川県厚木市の南隣接に小さな地域で「高座郡寒川町」が在る、“さむかわちょう”と称するが・・、この小さな町の中央に「寒川神社」が鎮座している。
小生、家族一同は正月の初詣や何かの祈願が有るときは必ずと言っていいほど参拝をする神社である。

寒川神社は「相州・一の宮」に定められ、相模国を中心に広く関東地方にまで知られ、相模国、関八州総鎮護の神として古くからの信仰が殊に厚い。
歴史的にも1500年以上もの昔に、天皇勅願として創建された由緒正しき神社であると言われる。
祭神は寒川比古命(さむかわひこのみこと)、寒川比女命(さむかわひめのみこと)と兄妹神で、いずれも「水の縁」のある神様である。
神社の古い縁起書によると、明治4年国幣中社(平安期に定められた神社の格式)に列せられたが、明治7年には『特選神名牒』の選があり、その際の記事に「皇太神宮儀式帳(伊勢神宮)に所載される末社・牟彌乃神社(むみのじんじゃ)の御祭神が寒川比古命・寒川比女命であることにより、新たに御祭神にこの一説が加えられ、明治9年『官社祭神考證』により当社の御祭神は寒川比古命・寒川比女命の二座とせられました」・・とある。   

水の縁といえば、寒川神社のすぐ横を相模の大河「相模川」が流れる。
厚木、海老名の以南東の地域では沖積平野となり、自然堤防や砂州・砂丘地帯となっていいて平坦に見える平野の地形も若干の地形の凹凸がわかる。
ところで昔の相模川はよく氾濫したらしく、江戸時代の絵図でも大きく蛇行していたことが判り、洪水が発生しやすい流れだった様子がわかる。
そのため寒川神社に近い相模川で禊を行っていたという説もある。
昔はこの相模川は、かなり大きな川幅で流れていたか、或いはもっと東の方角で流れていたかのいずれであろうと・・。
現在の相模川に架かる馬入橋(国道1号線)より東へ凡そ1kmのところ、神社より南へ4kmほどのところに鎌倉期に建造されたとされる「旧相模川架橋脚」の遺跡が発掘されている(国指定史跡)。

余談だが、鎌倉期創世の頃この辺りは鎌倉と京都を結ぶ街道の道筋であり、交通の要衝でもあった。
この地区に源頼朝の家臣・稲毛重成が建造した相模川架橋の完成祝賀に主君・頼朝が招かれ、その帰り道、馬入川(ばにゅうがわ:当時は馬入川といい、現在も平塚地区では馬入川の愛称がある)のたもとで落馬し、これが元で頼朝は死去したと伝えられる・・。
尚この時、頼朝の乗ってた馬が驚いて川へ突入したため、川の名前が「馬入川」と自然発生的に付いたというが・・?。

丹沢山系を水源とする急流・相模川は大昔は相当の暴れ河で、周辺地域に度々大水害をもたらしたということは良く知られている。
そのため寒川神社は相模川の治水ために勧請された神様らしいというのが一般的な見方である・・。

次回は、 更に「寒川神社」について、その「縁起」を掘り下げてみます・・、




湘南地方の歴史と観光(4) 茅ヶ崎・・Ⅰ「茅ヶ崎海岸」

2008年01月14日 12時04分53秒 | 湘南編

湘南地方の歴史と観光(4) 茅ヶ崎・・Ⅰ「茅ヶ崎海岸」

辻堂海浜公園を右手に見ながら、間もなく、ちょっと賑やかな茅ヶ崎海岸へ出る・・、通称「サザンビーチ」と言われる・・。
この海岸に立つと、茅ヶ崎シンボルである烏帽子岩(えぼしいわ)のトンガリ岩が海面にボンヤリと見えている。 昔、公家や武士などが用いた帽子である烏帽子に似ていることから、この名が付けられたと言われている。 
戦時下、この辺りの地域には旧日本海軍の演習場があったが、戦後アメリカ軍がここを接収して演習場「チガサキ・ビーチ」とし上陸、砲撃、爆破などの演習が行われたという。
もともと終戦真近、アメリカ軍はここから上陸して関東に侵攻する作戦をたてていたらしいが、日本の無条件降伏により実行はされなかった。
その烏帽子岩は、演習の砲撃の的にされたため形がすっかり変わってしまったという。

この茅ヶ崎市出身者で「野口惣一」宇宙飛行士がいる・・。
彼が搭乗するスペースシャトル・ディスカバリーが間もなくケネディ宇宙センターから打ち上げられる。(平成17年5月現在)
それにともなって、茅ヶ崎市及び後援会で一つのイベントを計画しているらしい・・、野口聡一氏が搭乗するスペースシャトルが茅ケ崎上空の軌道を飛行する時に、茅ケ崎地区内の多くの家庭・事業体が一斉に灯りを消し、茅ケ崎海岸サザンビーチ沖の「烏帽子岩」に向かって、砂浜からレーザー光線を島に当て、合わせて「烏帽子岩」から上空のスペースシャトルに向かってレーザー光線を当てるという。
搭乗している野口聡一氏に、茅ケ崎市民が「光を合言葉にして」励ましメッセージを伝える企画だそうで、シャトルの打ち上げと云い、今回のイベントといい、無事成功を祈りたい・・。

【追筆】・・、
野口惣一氏他7名のクルーを乗せたスペースシャトル「ディスカバリー号」は、日本時間7月26日午後11時39分、フロリダ州NASAケネディ宇宙センター(KSC)から無事、打上げられた!・・。
野口氏とそして茅ヶ崎市市民の念願だった、宇宙へのレーザーショウは悪天候のため残念ながら中止されたようだが、宇宙ステーションでの活動や種々問題を解決し、大成功をおさめたらしい・・。 
そして凡そ2週間の宇宙飛行を終えて、日本時間8月9日午後9時11分、「ディスカバリー号」はカリフォルニア州のエドワーズ空軍基地に帰還した!--- 


サザンの曲で一躍有名になったサザンビーチ、茅ヶ崎の海岸はこう呼ばれているようである。
湘南海岸のサーフィンのメッカで冬でもサーフィンを楽しむ人が絶えない。ビーチからは江ノ島が見え、海岸沿いに遊歩道が整備され、ジョンギング、散歩を楽しむひとの格好のルートとなっている。
正面に「えぼし岩」、東に「江の島」、西に「富士山」を見る湘南の雰囲気満点の海水浴場で、7・8月の海水浴シーズンには大勢の海水浴客で賑わう。
ビーチの東の一角にあるサザンビーチモニュメント「茅ヶ崎サザンC」は、茅ヶ崎の頭文字のCを象ったビーチのシンボルともなっている。

この湘南のビーチに年に一度の大祭が開かれる・・、 「浜降り祭」である・・。
毎年7月の海の日、早朝 茅ヶ崎海岸柳島側の漁港付近、サザンビーチの西隣りで行われる。
この祭事は寒川神社(寒川町)の露払いで、近郷各神社を宮立ちした40基あまりのお御輿が茅ケ崎の南湖海岸に集まり始め、御輿は老若男女の担ぎ手にもまれ、海に分け入り、禊ぎ(みそぎ)を行なうため海の中へ、そして輿をもみあう。
元々、寒川神社の御神体が海に打ち上げられた事から始まるといわれ、昔から海に輿を入れて行う祭事であり、浜降祭は「関東三大奇祭」の一つでもある。

続いて、 茅ヶ崎・・Ⅱとして、浜降祭と寒川神社について・・、








湘南地方の歴史と観光(3) 藤沢・「義経と一遍上人」

2008年01月09日 11時17分01秒 | 湘南編

湘南地方の歴史と観光(3) 藤沢・「義経と一遍上人」

江ノ島駅前より藤沢駅へ向かってさらに行くと白旗の信号があり、この辺りは「白旗」という町名でもある・・。
公園の一角に「白旗神社」があり、ここは源義経の霊廟である。

先の鎌倉の「満福寺」の項で記したが「義経」の事である・・、
平泉の藤原秀衡は、頼朝の追討を阻止すべく義経を将軍に立てて鎌倉に対抗しようとしたが、間もなく死去してしまう。
頼朝は、秀衡の死を受けて後を継いだ藤原泰衡に圧力をかけ、泰衡はこれに屈して父の遺言を破り、1189年、500騎の兵をもって10数騎の義経主従を衣川館に襲った。
館を平泉の兵に囲まれた義経は、一切戦うことをせず持仏堂に篭り、自害して果てたとされる。 数え年で31であった。
義経の首と胴は分離され、首は43日かけて鎌倉に送られ、和田義盛と梶原景時によって、腰越の満福寺で首実検に処せられた。
その後、首は藤沢の白旗神社付近に葬られたという。
その際、首を洗うのに使われたという首洗い井戸が現在も白旗神社側に残っている。

1180年、義経22歳の時、源平・富士川の戦いで、黄瀬川にて兄頼朝と対面し、初めて鎌倉入りするが、その後の戦乱での出陣以来、鎌倉入りすることは無かった・・。
後になって生身の身体は腰越に止められ、首になっても腰越の満福寺に置かれ、そして霊になっても鎌倉には縁がなく、隣町の藤沢の地に眠る・・。
義経は哀れであった・・・。


白旗の近くに「遊行寺」がある・・。
藤沢駅から藤沢橋交差点を目標に徒歩15分のところで、遊行寺の山門は「日本三黒門」の一つで、その荘厳な山門を抜けると、いろは坂とよばれる48段のなだらかな石段の坂を登りつめると、幹の周囲が6.6mもある、樹齢700年の大イチョウが迎えてくれる。
また、広い境内には、昭和52年、時宗開宗700年を記念して、建立された宝物館があり、国指定文化財の後醍醐天皇御像や、一遍上人像の絵画など貴重な一万点もの史料が収められている。
正式には藤沢山 無量光院 清浄光寺(とうたくさん むりょうこういん しょうじょうこうじ)が寺号で「遊行寺・ゆぎょうじ」は通称である。
当山は、昨今では珍しい「時宗」の修行道場の総本山という・・。
鎌倉時代末期におこった浄土宗の一宗派で、開祖は「一遍上人」。
一般に浄土宗では信心の表われとして念仏を唱える努力を重視し、念仏を唱えれば唱えるほど極楽浄土への往生も可能になると説いている。
時宗の場合は更に一歩進んで・・? 踊りながら一刻一刻を臨終(臨命終時・りんみょうしゅうじ)の時と思って「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えると往生できると説いた・・。
阿弥陀仏に対する信仰の念仏踊りは声を出し、鐘や太鼓をたたいておどる一種の宗教的パフォーマンスであろう。

現代において各地に盆踊りがある・・。
盆の時期に合わせて夜間に集団で行なわれる踊りで、広場の中央にやぐらを立て、やぐらの上で音頭とりが鐘や太鼓、鳴り物で音頭を歌い、参加者はその周囲を回りながら音頭にあわせて踊る。  
現代における、この「盆踊り」は大抵の場合「時宗」の流れを汲むといわれる・・。

我が故郷(いなか・福島県いわき市)でも磐城盆踊りという、独特の節回しで踊る盆踊りがある。
更に磐城地方独特の「じゃんがら(自安我楽)念仏踊り」というのがある・・。
福島県のいわき地方に伝わる伝統芸能で、太鼓と鐘のリズムに合わせて若者が念仏を唱えながら踊るのである。
八月の旧暦のお盆のとき、この1年間に亡くなった方の所謂、新盆の家庭を廻り鐘や太鼓でにぎやかに仏さんを供養し家族を慰めるものとして、いわき地方のお盆の風物詩となっている・・、いわき市の無形民俗文化財・・。
この念仏踊りの史実としての歴史・起源は、鎌倉~室町時代頃といわれるが確証されていない、ただ、様子が余りに酷似しているので時宗の所作と一脈は通じ、流れを汲むものと思われるのである。

「時宗」の僧は諸国を遊行し(遊行僧)、賦算(ふさん・聖札を配る事)と念仏踊りを行ないながら布教活動をしたといい、これを「遊行上人」といった。
遊行上人を引退すると清浄光院(藤沢道場・遊行寺)に入って「藤沢上人」と称した。
一遍上人死後一時衰退するが、室町時代中頃には弟子たちによって再び全盛期を迎え、江戸期には幕府の後ろ盾とした官製の遊行が行われ、時宗寺院のない地域も含む全国津々浦々に遊行上人が回国したという。
時宗が直接的に衰落したのは明治初頭の「廃仏毀釈」であるといわれるれるが、江戸期の名残が現在の盆踊りや念仏踊りとなって留めているようである・・。


次回は、 茅ヶ崎・茅ヶ崎海岸や「浜降祭と寒川神社の縁起と由緒」を述べます。


湘南地方の歴史と観光(2) 江ノ島・・Ⅱ「江ノ島名所」

2008年01月08日 10時55分54秒 | 湘南編


 湘南地方の歴史と観光(2) 江ノ島・・Ⅱ「江ノ島名所」

江ノ島は、「絵の島」と言われる程、北斎や広重に代表される多くの画人や文人に描かれてきた・・。
島は、昔は引き潮の時のみ洲が現れて、対岸の湘南海岸と地続きとなって歩いて渡ることもできたが、近年、関東大震災で島全体が隆起して以降は常に陸地と地続きとなそった。尤も、高潮や台風の大波の時などは潮に洗われたが・・。
江の島に初めて橋が架けられたのは凡そ110年前の明治後期であったが・・、今では歩行者用の「江ノ島弁天橋」と自動車用の「江ノ島大橋」と二本並行して架かっている・・。

小生の中学生(福島県いわき市=当時の福島県石城郡湯本町)の時の「鎌倉、江ノ島」の修学旅行で、泊まった宿は江ノ島の橋を渡りきった直ぐ右手の海上ホテルで(岩本楼・・?)部屋が海面すぐ上ということで、大ハシャギしたのを今でも覚えている・・。
既に、もう50年以上も前の話で懐かしい・・。

江ノ島弁才天を祀っている「江の島神社」には、岩屋本宮(奥津宮)・上之宮(中津宮)・下之宮(辺津宮)の三宮がある。 その筆頭に本宮・岩本坊(岩本院)が当たり、江の島での宿泊、みやげ物、御開帳の采配権を持ち、将軍・大名の宿泊所としても繁栄した。
現在は、岩本楼旅館として、その由緒を引き継いでいるという・・

江ノ島の行楽の中心は頂上にある植物園と展望塔だろう・・、
息せきって階段(エスカレーターもある)を登り詰めた見晴らしの良い高台にこれらはある・・。
植物園の歴史も古く、明治15年(1882年)アイルランド人の貿易商サムエル・コッキング氏がこの場所に私財を投げ打って大庭園を造ったことに由来しているという。
現在のは江ノ島電鉄(株)の創業100周年記念事業として江の島展望台が建て替えられるにともない、植物園の整備も藤沢市によって行なわれた。園名は創始者にちなんでサムエル・コッキング苑と称している。 園内はユッタリとした洋式の苑で、数種の市の天然記念物の植物もある。
植物園入口正面に、新装なった展望台がある。
江の島の頂上という点で、他には無い完全360度、海抜120mからの景色を見渡せる展望塔は鎌倉から逗子、葉山、三浦半島、城ヶ島、伊豆半島、真鶴、箱根、富士山、藤沢と一望に見渡せる圧倒的な景観で来訪者を魅了する。

植物園よりさらに行くと、中村屋羊羹をはじめ、土産屋が軒を連ねる。
参道正面が江ノ島神社の本宮・奥津宮である。 昭和50年代に建てられた拝殿が神々しい。その横から島の荒磯へ通ずる急な階段でを下ると、稚児ケ淵や有名な岩屋がある・・。
このあたりは片瀬の砂浜に寄せる波と違って、太平洋の怒涛が岩肌に激突し、波しぶきを巻き上げ、迫力のあるところだ・・。

稚児ケ淵の波打ち際の先に岩屋がある・・。 
江の島岩屋は波の浸食によって出来た自然の洞窟で、そこにも弁才天が祀ってあり古くから信仰の対象として親しまれている。
昭和40年代に落石の危険ありとされ一時閉鎖されたが、平成5年藤沢市によって完全に補修され、入窟出来るようになった。
この岩屋洞窟は金窟、龍窟、蓬莱洞、神窟、本宮岩屋、龍穴、神洞等の各名称があり、この岩屋に最初に人が入った記録は寿永元年(1182)、源頼朝を先頭にして鎌倉武士47名が文覚上人を招いて岩屋にて戦勝祈願を行ったとある。
江ノ島弁才天を祀っている「江の島神社」は、この岩屋弁才天が元祖なのかもしれない・・?。


余談だが・・、
小生の若かりし時代の40数年前の昭和中期の頃は、東京湾をはじめ湘南海岸といえども、かなり汚染され汚れきっていた・・。 河川の汚濁が主な原因で、隅田川の鉄橋を渡るときなど車窓から微かにヘドロの臭いを感じたもんである・・。 
こんな汚れた海が嫌で、わざわざ「江ノ島の裏海岸」・稚児ケ淵へ海水浴に来たもんである。  今では環境問題が大きく取り沙汰されて、きれいな川や海に戻りつつあるようだが・・。

稚児ヶ淵へ下りる階段のところに数軒の御茶屋がある。
一番下にある見晴亭、その上にある富士見亭、頂上にある魚見亭・・などが在ったと記憶している。 
江ノ島へ来ての楽しみは、海水浴の帰り、こちらの絶景の見晴茶屋で冷たいビールや食事を戴くことでもあった・・。

再び、海岸通りR134へ戻る・・、
新装成った「新江ノ島水族館」の堂々とした、建物があった。
平日とはいえ人が群れている・・、入場料が2000円はちと高いが、年間パスポートが4000円というのは面白い・・。
時間の関係で入館しなかったが、相模湾の環境を再現した「相模湾大水槽」で銀色に輝きながら、うねり泳ぐ約8,000匹のマイワシの大群等は一見の価値はあるようだ・・。

この辺りは湘南海岸公園と云って、海岸ゾーンは緑の公園、地下帯を含めた駐車場等も良く整備されている・・。
更に茅ヶ崎方面へ向かうと、両側が松の砂防林が目にやさしい・・。