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日本の旅の記録です・・!!

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新・日本紀行(110)唐津 「虹ノ松原・唐津城」

2016年05月07日 17時46分08秒 | 福岡、佐賀県


九州地方の皆さん、此の度の大震災に謹んでお見舞い申し上げます。
(この記事は震災以前のものです)





.『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真主体)
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九州紀行」; http://sky.geocities.jp/orimasa2010/




 新・日本紀行(110)唐津 「虹ノ松原・唐津城」  .





https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c9/Niji_no_Matsubara.jpg/300px-Niji_no_Matsubara.jpg









虹ノ松原と名城・「唐津城」





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「虹ノ松原一揆」の円満解決は、唐津藩主・水野氏の英断によるもの・・、

昨日というか、昨夜というか・・、
癒しの温泉、上質の食事に美酒、素敵な和室の泊まりで、尚且つ前の晩の寝不足も手伝って行動記録を執筆中に寝込んでしまったようだ。
従って今朝は、たっぷり睡眠を取ったせいで気持ちよく、スッキリと目覚めた。
時計の針は間もなく6時を指そうとしている。本日も連日と同様、好天気のようなので先ずは朝の散策ウオークと決める。


それにしても「虹ノ松原」は圧倒的な松林であり、殆どが黒松のようである。
太い幹は地面スレスレに変形、曲がりくねったものも有るし、それがかえって奇妙な雅趣と風情を演出している。

冬季に起きる強烈な海風の影響で樹枝は屈曲を成しているという。
樹齢数百年を越える老木から幼木にいたるまで約100万本を数え,松原内を通る国道202号は、さながら緑のトンネルの様相を呈し、特異な雰囲気をだしている。


この景勝の地は、1771年に「虹ノ松原一揆」の舞台ともなった所であり、松原のほぼ中央「海濱館」の片隅に平原村の大庄屋・冨田才治の顕彰碑が昨年(2004年)、子孫たちや関係者によって建てられたという。

事件は三河の岡崎から唐津藩へ転封してきた「水野氏」が発端となった。 
水野氏は財政改革として、税の増収対策を講じた。

しかし、領民は明和年間の凶作も重なって不満が一挙に高じ、一揆へと発展するのである。 虹ノ松原に2万5千人の農・漁民を集結させ、指導者・冨田才治数名が城内で直談判すること数回、農漁民と藩との静かな睨み合いが続いた。
一揆は府内への進軍はなく、虹ノ松原に座して動かず、抑制の効いた無抵抗運動であり、遂に唐津藩は税制改正の全面撤回という譲歩を行なったという。

通常の一揆は大方、流血の騒動になるのだが、一滴の血も流すことなく成功に導いたのは極めて稀有であり、又、農漁民の動員規模においても唐津一揆は、江戸期における最大規模の農漁民一揆の一つという。
しかし、一揆の首謀者が死罪になるという、幕藩体制下での掟は唐津藩でも例外ではなく、富田才治を指導者とする数名が自首し処刑せれたのであった。


虹の松原は、「三保」、「天橋立」と並んで日本三大松原の一つ、日本の特別指定名勝になっている。幅500m、長さ5Kmに及ぶ松林で、NHKが21世紀に残したい「日本の風景」で全国第5位にも選ばれている。


次回、唐津城と水野氏

  
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新・日本紀行(109)佐賀唐津 「虹ノ松原」

2016年05月06日 20時38分45秒 | 福岡、佐賀県




 新・日本紀行(109)佐賀唐津 「虹ノ松原」  






 



http://trvimg.r10s.jp/share/image_up/80547/LARGE/QCva0B.jpeg



https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5e/Nijinomatsubara_from_Hamasaki_beach.jpg/1024px-Nijinomatsubara_from_Hamasaki_beach.jpg
唐津の虹ノ松原(wiki)





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今宿辺りより「西九州道」、唐津街道を経て、「虹の松原」へ向かう、今日の泊まり地である。

糸島半島の付け根部を横断して、二丈町あたりから唐津湾の沿岸を行くようになる。 
低い山並みが海岸に迫り、過ぎ去ると再び唐津湾、否、松浦湾の紺碧の海原が光る、この地域は既に、筑前・佐賀に入っていた。

そして海岸線の渚には、鮮やかな緑の絨毯が弧を描いて延びている、「虹の松原」である。 
この湾の東端を走るR202(唐津街道)は海面からかなり高く、ここから遠望すると松の密林が如何に長大かがパノラマのように判る、もとは「二里の松原」と称していたらしい。

秀吉の時代に、唐津城主となった寺沢氏が防風林として築いたものであり、その当時は二里の松原と呼んでいたらしい。 
この松原は夕刻になると海面に映る夕景色の赤味を帯びた色合いと、松原の緑が相俟って、これが適度に弧を描いたいるので、まるで、虹のように映った。
これが何時しか、語呂合いも良い「虹の松原」になったのだろう。


この「虹の松原」の、ど真ん中に今夜の宿・国民宿舎「虹の松原ホテル」が在った。
寛ぐ前に宿の主人が「近くに、いい温泉が有りますよ・・!、通常600円のところ、当館と提携しているので僅か100円で入れます」と案内してくれた。

願ったり、叶ったりとはこの事で早速出向く。筑肥線の「虹の松原駅」前の踏み切りを渡り、国道202号線沿いに温泉は在った。
鏡山温泉茶屋 美人の湯」といい、開業して間もないらしくピカピカの温泉場である、これが100円とは嬉しい限りである・・ビバ・・!。

広々とした室内浴槽の他に、和風の半屋根に大石を設え、石灯籠を配した風流な露天風呂、樽風呂や打たせ湯もありで、何とも極楽である。やや茶色味をおびた人肌湯の温泉で、泉質は天然ラジウム温泉、 糖尿病、リューマチ、痛風、動脈硬化などにきき目があるという。 

戻った後のお待たせ料理も七色、虹色で配色され、いやはや・・、夕刻以降は虹一色であった。  
実に満足、満足・・!!。


次回は、唐津・「唐津城

  
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日本周遊紀行(109)能古島 「元寇」

2016年05月06日 18時15分26秒 | 福岡、佐賀県




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 新・日本紀行(109)能古島 「元寇」   。





https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/4/43/Map_Fukuoka-City_isles.png




https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3f/Mooko-SamuraiShips.jpg
日本国船団の絵図(島津軍  Wik)




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日元決戦の「文永の役」と「弘安の役」、結果は・・?、

太宰府を後にして、福岡の外環道である高速2号線・立花寺JCTより5号線に乗り移り、一旦下りて国道202号線から再び、高速福岡前原道に乗り上げ佐賀・唐津方面へ向かう。 

遠くに博多湾の今津浜と市街が望め、福岡湾の湾口に位置するところ、洋上にやや霞んだ「能古島」が浮かんでいた。 
能古島は、人口800人ほどの島で、周りは海水浴場やリゾート施設などがある行楽地の島である。

往時は、島の北面は玄界灘、「那の津」(博多の湊)から大陸に向かう船舶交通の要衝であった。言い換えれば、逆に外敵の侵攻に晒されやすい。
刀伊(とい:平安時代の後期頃、対馬・壱岐・筑前を襲った朝鮮族で、大宰府の官人に撃退された。
日本でこれを「刀伊の賊」と呼んだ)の侵攻や元寇などでしばしば島は蹂躙され、7世紀には白村江(はくすきのえ:朝鮮半島南西部を流れる錦江の河口にあった地名。

現在の群山付近とされる)において、日本軍が唐・新羅の連合軍に敗れると、海防の必要に迫られ、対馬や壱岐とともに防人が置かれたところである。
又、今宿から北へ延びる糸島半島の東岸、今津、長浜海岸そして名勝・生の松原あたりは「元寇」のあった地点で著名ある。
この辺りの松原は、海に向かって上り勾配になっているという。


元寇の頃、この松原の線いっぱいに、鎌倉武士達が築いた防塁が有ったところである、否、有ったのではなく、今でも有る。 
防塁は、石で築かれ、高さが2m位であったが、その後、土砂に埋まり4, 5mの丘状をなしているという。そのため石塁は風化されずに、今でも当時のままの真新しい状態で発掘され、掘れば松原のどこにでも有るという。



さて、時は鎌倉期、執権・北条時宗の時代である。
そのころ、(げん・中国)のフビライは、日本を征服する意図でたびたび使者をよこしたが、時宗は強い態度でこれを拒絶した。 
広大な領土を支配した元のフビライ-ハンは、高麗を征服したのち、日本を従属しようとして使者を送ったが、執権・時宗はこれを拒否し九州の防備を固めた。

1274年、元・高麗の連合軍が対馬・壱岐を襲った後、博多湾の沿岸に上陸した。元軍は火薬を使い、戦闘具や戦闘力は彼らが圧倒的に優れていて、しかも、集団戦法で日本軍を苦しめた。 
浜辺は、たちまちにして元軍による鎌倉武士たちの死者塁々とした惨状を呈した。
死者の数は元軍2万人、九州の武士団はせいぜい1万足らずとも云われるが、日本軍の敗戦は明らかで、遂には後方の大宰府の水城近くまで退却した。
幸い、日没前後に元軍は艦船に引揚げ、その夜半、一大暴風によって艦船の殆どが転覆、元軍は大打撃をうけ、侵攻は頓挫したのである。
これを「文永の役」という。

この経験をもとに主要な沿岸各地に武士はもとより、老若男女総動員で2m足らずの石塁を延々と築いた。 
この今津の浜は主に南九州の大隈、薩摩の武士が受けもったという。
そして予想通り7年後に、再び彼らはやって来た。


1281年、元軍は新たに江南軍(中国の南宋の軍)も加え、朝鮮と中国本土の二方面から北九州へ攻め寄せた。 
元は14万の大軍を二手に分けて、再び対馬・壱岐・博多湾を襲った。
一っ飛びすれば飛び越せそうな2m足らずの石塁で、世界最強の帝国・侵略軍を防ごうというのであった・・が、この防塁は実によく役立ったのである。 
元の上陸軍は悉くこれに引っかかり、内陸侵攻を阻まれたのである。 

その日の戦闘が終わると、船に戻らざるをえなかったし、夜は日本軍の小船によるゲリラ戦に悩まされた。 
2度、3度と上陸侵攻を試みたが、日本軍は先の経験を生かし、善戦し、又々、防塁に阻まれた。 
遂には、再び大暴風雨の神風が襲い、自然の猛威によって蒙古軍を殲滅するのである。
これを「弘安の役」と称した。


次回、佐賀唐津城へ

  
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新・日本紀行(108)太宰府 「天満宮と菅原道真」

2016年05月05日 17時32分04秒 | 福岡、佐賀県

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新・日本紀行(108)太宰府 「天満宮と菅原道真」




https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/86/Dazaifu_Tenmangusandou.JPG/800px-Dazaifu_Tenmangusandou.JPG



https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/97/DazaifuTenmangu.jpg/1024px-DazaifuTenmangu.jpg



https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/8b/20100719_Dazaifu_Tenmangu_Shrine_3328.jpg/1024px-20100719_Dazaifu_Tenmangu_Shrine_3328.jpg



 
道真公祭神の大宰府・天満宮  本殿と飛梅






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「心字池」に架かる三つの赤い橋は、一つ目が過去で、二つ目が今、 そして三つ目の橋は・・、

さだ まさし」の「飛梅」という歌は、太宰府天満宮を唄った詩である。 飛梅というのも実際に存在し、天満宮本殿の正面右側に木の柵に囲まれ、小枝を大きく広げて価値充分の「御神木」である。 
大宰府に左遷された「菅原道真」のことを想って、「京の都の梅が一夜にして大宰府まで飛んできたと・・」、という逸話のある年期の入った梅の大木である。


飛梅』 詞・曲・歌・さだ まさし
心字池にかかる 三つの赤い橋は
一つ目が過去で 二つ目が現在
三つ目の橋で君が 転びそうになった時
初めて君の手に触れた 僕の指
手を合わせた後で 君は神籤を引いて
大吉が出る迄と も一度引き直したね
登り詰めたらあとは 下るしかないと
下るしかないと 気づかなかった
天神様の細道



『 東風吹か ば匂い遺せよ 梅の花 
           主なしとて 春な忘れそ
 』  菅原道真
(春になり東風が吹いたら、その風に乗せて、花の春を私が流されてゆく西の太宰府まで 送ってほしい。梅の花よ、主がいないからと言って春を忘れてはならぬぞ)

道真が九州の大宰府に流され、その悲しみを庭の梅に寄せて詠んだ歌である。


菅原道真、道真といえば天神様、天神様といえば「梅の木」である。 
江戸・東京、「湯島の白梅」で知られる「湯島天神」は太田道灌が、ここ大宰府より勧進し、天正18年(1595)徳川家康公が江戸城に入るに及んで、特に当社を崇敬すること厚かったという。 

祭祀によって泰平永き世が続き、文教大いに賑わい、学者・文人の参拝も絶えることなく「菅公」の遺風を仰ぎ奉ったという。 
」は、その生命力の強さから昔より霊性を持って人を守る花として、大宮人(宮中に仕える都人)に好まれた花であり、中国から伝えられた頃は「白梅」で、奈良期にあっては花と言えば梅を指したようである。


菅原道真は天神様と呼ばれて学問、受験合格の神さまとして親しまれている神であることは周知であり、受験シーズンにもなると天神様は大忙しになる。
若い世代にまで深く浸透している神さまといったらこの神を於いて他にはない。


道真は、代々学者の家系に生まれ、長じて学者、文人、それに政治家として卓越した能力を発揮した人物であった。 
幼少の頃から文才に優れていたといい、18歳で律令制度の国家公務員試験の科目のひとつ「進士」の試験に合格、23歳でさらに上級の「秀才」に合格して文書(モンジョ)博士となる。 

以後、その才を遺憾なく発揮して順調に出世し、醍醐天皇の時に55歳で、最高官位である「右大臣」にまで上り詰めた。 
ところが、そこで政治的な暗闘、学閥の抗争の黒い渦に巻き込まれてしまったのである。

道真の異例の出世が、権力者・藤原氏の鼻につき、延喜元年(901)藤原時平の讒言(ざんげん:人をおとしいれるため、事実をまげ、目上の人に、その人を悪く言うこと)によって失脚し、北九州の太宰府へと転勤(左遷)されてしまったのである。 
都を去るとき、道真が詠ったのが、「東風吹かば・・」である。
道真の愛した梅と一緒に、門弟によってその墓所として建てられたのが「太宰府天満宮」なのである。


学者、文人という平和的なイメージを持つ菅原道真であるが、一方、政治家でもあったことから死後の魂が怨念に支配されることになる。 
知られているように“神としてのデビュー”してからは、日本でも最強レベルの恐ろしいパワーを発揮する怨霊神でもあった。 
道真が太宰府で死んだ頃から、都では天変地異が続くようになり、まず道真を讒言した張本人の藤原時平が39歳で急死。 
京の周辺は疫病や日照りが続き、数年後には醍醐天皇の皇太子が死亡、次の皇太子もすぐに亡くなり、人々はすべて「菅公」の怨霊の祟りとして恐れた。
極めつけは、延長8年(930)に宮廷の紫宸殿に落雷があり、死傷者が多数出たことであった。

これにより、道真の怨霊は雷神と結びつけられることになる。
元々京都の北野の地には、農作物に雨の恵みをもたらす火雷天神という地主神(じしゅじん)が祀られていたことから、それが道真の怨霊と合体したものと云われる。 
そこで怨霊の怒りを鎮めるため天暦元年(947)、京の地に「北野天満宮」が創祀されたのであった。

元より日本の農耕信仰では、古くから北野の火雷天神のような天から降ってきた神を祀る天神社(古くから農耕民族にみられた天神信仰)が各地にあったという。 
道真の御霊が火雷天神と合体したことによって、やがて各地の天神社の祭神も道真=天神様とされるように成ったといわれる。

海の神とか山の神などとは違って天神様には何となく親しみがある。 
やはり人が神になったという事実が一番の要因であろうが、特定の人間が神になった例は、たとえば豊臣秀吉や徳川家康(東照権現)などの政治的実力者をはじめ数多いが、ドラマ性や霊的パワーにおいて道真が代表格でこれに勝るものは無い。
道真の怨霊は、生前の業績がプラスされて更に強力な霊的パワーを発揮し、都の人々が認めたことによって神、天神となったのであった。


社殿、境内は一見豪華といえる楼門と本殿と、それを繋ぐ回廊のみで極めてシンプルである。
楼門の手前に「心字池」があり、この池に三つの赤い橋が架かり、それぞれ過去、現在、未来を表しているという。己の心を三つの橋で確かめ、心字池の鏡に映し、清真なる気持ちで御参りすれば天神様の霊力を多いに授かることが出来るかもしれない。

参拝前、個人宅の駐車場に車を預けたが、帰路、運転席の窓ガラスにガムが2個貼り付け置かれてあり、「気を付けて、お帰りを・・」とメモがシタタメてあった。

清々しい気持ちで、天満宮を後にした


次回は、「元寇

  
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新・日本紀行(108)太宰府 「大宰府政庁」

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 新・日本紀行(108)太宰府 「大宰府政庁」   、




 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e3/Dazaifu_%28government%29_minami-mon.JPG/1024px-Dazaifu_%28government%29_minami-mon.JPG
大宰府政庁跡(太宰府市)



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大宰府政庁南門後(Wik)





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大宰府は、「天下之一都会也」と称された・・、

福岡高速2号線をそのまま南下すると、間もなく九州道に合流する。
ここは既に「大宰府市」である。

市の西側に大野城市があり、南側には筑紫野市がある。 
市内には、また水城や国分といった地名が残っていて、いずれも古代に名を連ねた地域名称である。 
昨今、由緒ある史的名称が無くなりつつあって、さみしい気になっていただけに嬉しくなる思いである。

大宰府市と云うと、すぐ「大宰府天満宮」を思い起こすが、どっこい、「大宰府」そのものが大いなる歴史の拠点であったことは先にも記した。  

九州を縦断する主要国道3号線が走っているが、すぐ横の旧道を行くと「大宰府政庁跡」が左側に現れた。
今は草生した土面が広く空き地の様になっていて、天気の良い日曜日なんかは家族で野球したり、お昼寝したり、犬を遊ばせたりしている広々とした空間である。 
所々に建物の礎石、基礎石らしいものがぽつぽつと並んでいる。
入口正面には三柱の石碑が建ち、中央には「都督府古址」と記されて往時の面影を示している。 地元の人達は「都府楼跡」(とふろうあと)の呼び名で親しんでいるそうで、無論、一帯は最重要の保存地区である。


古代の大宰府は政庁を中心に、その周辺には官衙域(官庁)、そして東側に学校院、観世音寺を配し、約2km四方にわたって方形のプランを呈する条坊制を敷いていたと考えられている。条坊制とは、中国(唐)・朝鮮半島の王城都市に見られる都市形態で、南北中央に朱雀大路を配し、そして南北の大路を「条」と東西の大路を「坊」とし、碁盤の目状に組み合わせて左右対称による四方形に都市のプランを形成するものをいう。

大宰府は、八世紀の「続日本紀」にも「天下之一都会也」と称されるほどの大都市であったと考えられ、古くより南北22条、東西24坊の規模が推定されている。 実際の発掘調査においても、条坊制を証明するような道路の遺構が太宰府市と筑紫野市にまたがって約20箇所以上で検出されているという。

それらの発掘調査の結果、推定朱雀大路(政庁中軸線上に伸びる南北2kmのメインストリート)は、路面幅約35~36m、それ以外の道路は路面幅約3mで、朱雀大路をはじめとする右方に位置するいくつかの南北の道路は八世紀頃に成立しているという。 
大宰府の条坊制については未だ全容が確認されていないが、かなり大規模な遺跡であることには確かな様である。

大宰府政庁としては、既に、七世紀後半頃から置かれたと想像されていて、奈良期から平安期の凡そ500年に亘って御殿が建っていたらしい。 
詳細な全容については、今後の調査に委ねられている。(大宰府展示館や歴史資料館に復元模型あり)


当時の時代背景としては、漸く奈良に平城京を置き、国主が決まり、日本という国の形が出来上がりつつある時期であった。
北部九州の地は日本と大陸の接点に位置し、国内はもとより東アジア全体の動向を敏感に反映し、歴史上重要な役割を担ってきた。
又、中国の後漢の皇帝・光武帝より、「漢委奴(かんのわのな)国王」の金印が与えられた倭国の時代より、大和朝廷統一後も変りなく、中国、朝鮮半島の情勢を色濃く影響され、その重要さも増してきていた。

その頃の大陸中国は、南北朝時代(5~6世紀の宋、斉、梁など)、から隋、唐へと移り、朝鮮半島では百済、新羅、高句麗の時代であった。 
建国された唐は、国内を統一すると更に領土拡大、覇権のために他民族の諸国を侵略し出した。朝鮮半島にも進出しようとし、唐は新羅と同盟し、その連合軍の攻撃によって「百済」は攻め滅ぼされた。

七世紀の663年、百済は当時親交のあった倭国へ救済を求め、倭国・日本はこれに同意して朝鮮へ出兵上陸し、連合して戦ったが(日本では白村江・はくそんこうの戦いといい、慣行的に「はくすきのえ」と訓読みされることも多い。)、百済・日本連合軍は水上決戦で唐・新羅軍に大敗を喫し、半島からの完全な撤退を余儀なくされた。

そして唐・新羅の本土侵攻に脅威を感じた日本は、対馬・壱岐及び筑紫に防人(さきもり:古代、筑紫・壱岐・対馬など北九州の防備に当たった兵士、初め諸国の兵士の中から三年交代で選ばれ、のちには東国の兵士が最も強いということで、東国出身者に限られるようになった)と烽(とぶひ・狼煙:古代、外敵襲来などの異変を知らせるために、火を燃やし、煙を立てた施設)を置き、筑紫には大堤を築いた「水城」を造る。 

又、百済の亡命貴族と防衛の為、大野城、椽城(きじょう)などを築くのである。
このような防衛施設の大土木工事が次々と着手される中、これらに守られた地、北部の沿岸より内陸に入ったこの地に「大宰府」が設置されたのであった。 
大宰府は、九州総督府のようなものである。

「大野城」(おおのき)は、白村江の戦いで日本が大敗した後、665年(天智4年)、天智天皇の命令により、現在の市域内にあたる大野山(現在の四王寺山)に百済人の設計による朝鮮式山城を築城し、大宰府防衛を図った。 
因みに、市制施行前は「大野」という地名であったが、1972年の市制施行にあたり、すでに福井県に大野市存在していたため「大野市」とすることができず、この城の名にちなんだ「大野城市」という市名にしたという。

「水城」も、現在の大野城市から太宰府市にかけて、大野城と同様の目的で古代の防御施設として造られた。
博多湾から大宰府に攻め込まれるのを防ぐために築いたとされ、同様に朝鮮式山城が築かれたとされる。 
用途について単なる城壁ではなく、名前の如く「いざという時に御笠川をせき止めて、外側に掘ってある空堀に敵兵が入ってきた所へ急激にせき止めておいた水を放流して、一気に敵兵を押し流すものであった」とする説がある。 
国指定特別史跡で、いずれも実際に戦いの場となることはなかったが、現在どちらも地名として残っている。

やがて戦禍が収まり、緊迫した中で置かれた大宰府も、日本が律令国家へと体制を整えるに従い、官の組織っも整備され、当初の対外防衛的色彩の濃いものから、外交そして九州全体を治める律令制下の最大の地方官衙(かんが・地方の主要政庁、役所)へと変っていく。
大宰府は、平城京に倣い中心の建物は礎石を使い、瓦を葺いた大陸風の立派なものに変わる。
そこに働く官人は、令に規定されている者だけでも50名に及び、その他雑務に携わる者などを入れるとその数は1000名を超えたといわれる。 
歴史的には、七世紀初めの日本書記に「筑紫大宰府」の名で登場している。

尚、百済と親交のあった時期は、仏教をはじめ様々な文化が百済を経由して日本に流入した。このような良好な関係から百済と古代日本(倭)は元々同種民族であったとする見方もある。いずれにしても、百済滅亡によって百済王と王族、貴族を含む数万の「百済人」が倭国に亡命し、王族、貴族をはじめ技能を持った民達が大勢上陸し、それらの人々は多方面に登用され、朝廷にも仕えたという。


日本は、後に仏教様式の文化が大きく華開くが、渡来人・百済の民の影響力が大きかったことは確かで、九州はその着地点であり発信地でもあった。
政庁の南側には「榎社」(えのきしゃ)というのが在って、かの菅原道真(右大臣)が大宰権帥(だざいごんのそち・府政を総監する役で、納言以上の者が多く任ぜられる)として、大宰府へ任地されて(一種の左遷とされる)から亡くなるまでの期間(901年~903年)を過ごした「府の南館」跡である。


ところで、“だざいふ”は「大宰府」と「太宰府」の両用の書き方がある、何故異なるのか・・?、
この地には奈良時代の昔、「大宰ノ府」(おおいみこともち の つかさ)というのが置かれ、大宰とは、官職名として「大宰(おおみこともち)」、つまり天皇大君の命(みこと)を受けて任地に下り、地方の政務を司った官人のことをいう。府は役所のことで、朝廷の出先機関が置かれ、天皇の詔(みことのり:天皇の命令を直接伝える文書、詔書)で動く役所の意味であった。

現在、太宰府市では史跡や当時の役所を意味する歴史的なものには「大宰府」、現在の地名など太宰府天満宮や固有名詞の時には、「太宰府」を使用しているようである。 
ワープロで文字検索をすると、二文字が出てくる。


次回は、「太宰府天満宮」

  
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