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平成日本紀行(166) 延岡 「延岡版・西南の役」 ,

写真:北川・表野の児玉熊四郎邸(西郷隆盛宿陣跡資料館)の西郷の最後の軍議の様子
可愛岳周辺は、「西南の役」における西郷軍の最後の激戦地であり、退却地でもあった・・、
現在、北川の「表野」辺りは実に長閑で雛びたところであり、時が止まっているような地である。
だが、明治初期の一時期、この辺りは一大騒乱の地であった。
可愛山稜の伝説の地から東側に沿っての表野集落の一角に旧邸らしい「岡田邸」があるが、元は児玉邸という邸宅であったらしい。
現在、この地は可愛岳への登山口になっており、、登山愛好者が集うところでもある。
併せて、ここには「桐野利秋宿営の地」と白の看板が立ち、更に、横に「可愛嶽突囲戦薩軍登山口」とある。
案内板の主文には『 明治18年8月15日、和田越の戦いに敗れた西郷軍は、ここ表野に集結した。17日の夜には官軍の包囲網は完成していて、翌朝は西郷本陣を総攻撃する手筈になっている 』 とある。
児玉熊四郎邸は、当時、西郷軍の本陣であり最後の軍儀が開かれた所で、最後の決戦か、降伏か、あるいは鹿児島への脱出か、三者択一を迫られた場所であった。
本営地の頭上は、岩峰鋭い天険の山・「可愛岳」が聳えていて行軍には最大の難所であるが、それでも西郷隆盛は栄光の脱出行を決断し、選択したのである。
そして遂に西郷は、薩軍解散の命を出し、陸軍大将の軍服を裏庭で焼いて捨てたと言われている。
現在この場所は「西郷隆盛宿陣跡資料館」となっていて、西郷軍が最後の軍議を開いたときの様子が、人形(ひとがた)を使って再現してある。
「西南戦役」については先に熊本の項・「田原坂」でも記したが、熊本では谷干城司令官(たに たてき:土佐藩士、軍人・坂本竜馬の同輩)率いる政府軍がたてこもる熊本城に総攻撃をかけたものの城を落とすことはできず、頼みの田原坂の防衛ラインも分断され、田原坂も政府軍の手に落ちてしまう。 この後、西郷軍の敗走が始まるのである。
政府軍に追われて右往左往する西郷軍は、矢部(現、上益城郡山都町)から「椎葉越え」をして人吉へ、更に、薩軍は人吉盆地での攻防戦を経て小林-野尻-高岡から宮崎と向かっている。(別働隊は人吉から米良村の横谷峠を越えて村所、一ノ瀬川沿いを宮崎方面へ)実に九州の脊梁山地といわれる急峻なる難所を踏破し、漸く(ようやく)にして現在の宮崎市広島1丁目近くの農家・黒木某宅に本陣を置き、約2ヶ月滞在している。
跡地には「西郷隆盛駐在の地」として「敬天愛人」の石碑と案内板が当時の様子を伝えている。
しかし、そこにもそう長く滞留することは出来ず、佐土原-美々津と日向各地を転戦し、さらに延岡まで退却することになる。
延岡が官軍の手におちる直前、延岡の山中から五ヶ瀬川を下り、東海港(延岡市東海)を経て北川を遡り、野峰の吉祥寺(国道10、326号の分岐点)に入る。
隊士たちも続々北川・長井村に集結し、西郷軍は最後の決戦となる「和田越戦」の軍議を開き、この席で、西郷は「明日の和田越戦の指揮は、直接自分が執る」と伝えたと言われている。
「和田越の戦い」は、西南の役、最後の激戦地としても有名で、西郷軍三千に対して、政府軍は山県有朋指揮いる五万の大兵力であり、朝から昼過ぎまで灼熱地獄の中での死闘5時間続いた戦闘であった。
しかし、善戦はしたものの多勢に無勢、所詮勝ち目はなく西郷軍は敗れて空しく敗走、再び北川の俵野に至る。
和田越は、現在、延岡市無鹿町の北側丘陵に当たり、北川西岸の国道10号線と日豊本線の和田越トンネルが抜けている。
和田越の案内板より・・、
『 8月15日晴天、南洲翁は開戦以来初めて戦場・和田越山上に立つ。薩軍3,500は長尾山、小梓山、和田越、無鹿山に布陣し、樫山山上に立った。この戦い南洲翁死処を求めし最後の決戦なり。』
トンネルの入口には「西南の役・和田越戦跡」の標柱と、反対側の出口には野口雨情が、
『 逢いはせなんだか あの和田越で 薩摩なまりの 落人に 』
と歌い、その歌碑や案内板が建っている。
西郷隆盛最後の本陣となった俵野の児玉熊四郎宅で最後の合議がなされたのは、時に明治10年8月15日であった。そして、8月16日、最終的に西郷が解軍を決意し令を出した。
『 我軍の窮迫、此に至る。今日の策は、唯、一死を奮つて決戦するにあるのみ。此際、諸隊にして、降らんと欲するるものは降り、死せんと欲する者は死し、士の卒となり、卒の士となる、唯、其の欲する所に任ぜよ 』
これより降伏するもの相次ぎ、精鋭のみ 1,000名程が残ったという。 そして、8月17日の夜、可愛岳突破を敢行するのである。
先頭に2人の猟夫と数人の樵夫(きこり)を道案内に立て、険しい岩場や鬱蒼とした樹木の間をくぐり、傷だらけになっての山越えであったという。
実際に、この山を越えたのはわずか200名足らずだったそうで、あとはこの地で、官軍に投降したという。
その後、薩軍は、上祝子(かみほうり)、鹿川(ししがわ)、三田井(みたい)、七ツ山(ななつやま)、松平、御門と九州山地を南下するが、道なき道の山岳逃避行は故郷・鹿児島まで半月近く続いたという。
そして、9月1日には懐かしの鹿児島に到着し、城山・岩崎谷において最後の籠城するも、同24日、西郷らは自刃し、ここに半年間に亘る西南戦争は終結するのである。
次回は、「九州山地」
『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真主体)
「九州紀行」; http://orimasa2009.web.fc2.com/kyusyu.htm
「九州紀行」; http://sky.geocities.jp/orimasa2010/
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平成日本紀行(166) 延岡 「延岡版・西南の役」 ,

写真:北川・表野の児玉熊四郎邸(西郷隆盛宿陣跡資料館)の西郷の最後の軍議の様子
可愛岳周辺は、「西南の役」における西郷軍の最後の激戦地であり、退却地でもあった・・、
現在、北川の「表野」辺りは実に長閑で雛びたところであり、時が止まっているような地である。
だが、明治初期の一時期、この辺りは一大騒乱の地であった。
可愛山稜の伝説の地から東側に沿っての表野集落の一角に旧邸らしい「岡田邸」があるが、元は児玉邸という邸宅であったらしい。
現在、この地は可愛岳への登山口になっており、、登山愛好者が集うところでもある。
併せて、ここには「桐野利秋宿営の地」と白の看板が立ち、更に、横に「可愛嶽突囲戦薩軍登山口」とある。
案内板の主文には『 明治18年8月15日、和田越の戦いに敗れた西郷軍は、ここ表野に集結した。17日の夜には官軍の包囲網は完成していて、翌朝は西郷本陣を総攻撃する手筈になっている 』 とある。
児玉熊四郎邸は、当時、西郷軍の本陣であり最後の軍儀が開かれた所で、最後の決戦か、降伏か、あるいは鹿児島への脱出か、三者択一を迫られた場所であった。
本営地の頭上は、岩峰鋭い天険の山・「可愛岳」が聳えていて行軍には最大の難所であるが、それでも西郷隆盛は栄光の脱出行を決断し、選択したのである。
そして遂に西郷は、薩軍解散の命を出し、陸軍大将の軍服を裏庭で焼いて捨てたと言われている。
現在この場所は「西郷隆盛宿陣跡資料館」となっていて、西郷軍が最後の軍議を開いたときの様子が、人形(ひとがた)を使って再現してある。
「西南戦役」については先に熊本の項・「田原坂」でも記したが、熊本では谷干城司令官(たに たてき:土佐藩士、軍人・坂本竜馬の同輩)率いる政府軍がたてこもる熊本城に総攻撃をかけたものの城を落とすことはできず、頼みの田原坂の防衛ラインも分断され、田原坂も政府軍の手に落ちてしまう。 この後、西郷軍の敗走が始まるのである。
政府軍に追われて右往左往する西郷軍は、矢部(現、上益城郡山都町)から「椎葉越え」をして人吉へ、更に、薩軍は人吉盆地での攻防戦を経て小林-野尻-高岡から宮崎と向かっている。(別働隊は人吉から米良村の横谷峠を越えて村所、一ノ瀬川沿いを宮崎方面へ)実に九州の脊梁山地といわれる急峻なる難所を踏破し、漸く(ようやく)にして現在の宮崎市広島1丁目近くの農家・黒木某宅に本陣を置き、約2ヶ月滞在している。
跡地には「西郷隆盛駐在の地」として「敬天愛人」の石碑と案内板が当時の様子を伝えている。
しかし、そこにもそう長く滞留することは出来ず、佐土原-美々津と日向各地を転戦し、さらに延岡まで退却することになる。
延岡が官軍の手におちる直前、延岡の山中から五ヶ瀬川を下り、東海港(延岡市東海)を経て北川を遡り、野峰の吉祥寺(国道10、326号の分岐点)に入る。
隊士たちも続々北川・長井村に集結し、西郷軍は最後の決戦となる「和田越戦」の軍議を開き、この席で、西郷は「明日の和田越戦の指揮は、直接自分が執る」と伝えたと言われている。
「和田越の戦い」は、西南の役、最後の激戦地としても有名で、西郷軍三千に対して、政府軍は山県有朋指揮いる五万の大兵力であり、朝から昼過ぎまで灼熱地獄の中での死闘5時間続いた戦闘であった。
しかし、善戦はしたものの多勢に無勢、所詮勝ち目はなく西郷軍は敗れて空しく敗走、再び北川の俵野に至る。
和田越は、現在、延岡市無鹿町の北側丘陵に当たり、北川西岸の国道10号線と日豊本線の和田越トンネルが抜けている。
和田越の案内板より・・、
『 8月15日晴天、南洲翁は開戦以来初めて戦場・和田越山上に立つ。薩軍3,500は長尾山、小梓山、和田越、無鹿山に布陣し、樫山山上に立った。この戦い南洲翁死処を求めし最後の決戦なり。』
トンネルの入口には「西南の役・和田越戦跡」の標柱と、反対側の出口には野口雨情が、
『 逢いはせなんだか あの和田越で 薩摩なまりの 落人に 』
と歌い、その歌碑や案内板が建っている。
西郷隆盛最後の本陣となった俵野の児玉熊四郎宅で最後の合議がなされたのは、時に明治10年8月15日であった。そして、8月16日、最終的に西郷が解軍を決意し令を出した。
『 我軍の窮迫、此に至る。今日の策は、唯、一死を奮つて決戦するにあるのみ。此際、諸隊にして、降らんと欲するるものは降り、死せんと欲する者は死し、士の卒となり、卒の士となる、唯、其の欲する所に任ぜよ 』
これより降伏するもの相次ぎ、精鋭のみ 1,000名程が残ったという。 そして、8月17日の夜、可愛岳突破を敢行するのである。
先頭に2人の猟夫と数人の樵夫(きこり)を道案内に立て、険しい岩場や鬱蒼とした樹木の間をくぐり、傷だらけになっての山越えであったという。
実際に、この山を越えたのはわずか200名足らずだったそうで、あとはこの地で、官軍に投降したという。
その後、薩軍は、上祝子(かみほうり)、鹿川(ししがわ)、三田井(みたい)、七ツ山(ななつやま)、松平、御門と九州山地を南下するが、道なき道の山岳逃避行は故郷・鹿児島まで半月近く続いたという。
そして、9月1日には懐かしの鹿児島に到着し、城山・岩崎谷において最後の籠城するも、同24日、西郷らは自刃し、ここに半年間に亘る西南戦争は終結するのである。
次回は、「九州山地」
『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真主体)
「九州紀行」; http://orimasa2009.web.fc2.com/kyusyu.htm
「九州紀行」; http://sky.geocities.jp/orimasa2010/
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