松下啓一 自治・政策・まちづくり

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☆多数決というゲームルールのアンビバレンス(三浦半島)

2015-12-29 | 地方自治法と地方自治のはざまで

 今年も年の暮れになったが、すっきりしないことがいくつか残った。その一つが、多数決というゲームルールである。これを中心に、思いつくことを書いていこう。家の仕事や原稿の合間をぬっての論稿なので、おそらく断続的なメモになるだろう。

 今年の日本にとって、大きなターニングポイントになったのは、安保法制だろう。安保法制をめぐってはいくつか論点があるが、一方には立憲主義の遵守という大原則と、他方では、憲法秩序が及ばない(力が支配する)国際政治との現実とがぶつかり合った。日本にとって、どっちが得なのかという冷徹な判断と国民一人ひとりの覚悟が求められたが、レッテル張りと一方的非難がぶつかり合ってしまった。ここで冷徹な判断と覚悟ができる国民であること示せば、それが他国の脅威に対する強いメッセージになったと思うが、残念なことをしたと思う。

 地方自治のことでも、多くを考えたが、とりわけ気になったのが、ある町の住民投票である。罵声や怒号、その後のレッテル張りと一方的非難が続いたが、その構造は安保法制と同じである。ここでも冷静な議論と妥協ができたら、その町の評価を高めることになったが、残念なことをしたと思う。

 両方の議論にあるのは、合意することの放棄とその代わりとしての多数決への過度の依拠である。しばしば民主主義は多数決と誤解されるが、これは違う。言うまでもなく、民主主義とは価値の相対性である。互いの主張がぶつかり合うとき、相手の主張にも一理あると考え、冷静の相手の主張の良さをよさを取り入れるのが民主主義である。私たちは、こうした民主主義の社会に暮らしている。今後も暮らしていかねばならない。

 多数決は、冷静な議論や妥協ができず、思考停止に陥った時に使われる。もういくら考えても、いい案が出ないから、仕方なしに数で決めようというのである。そこまでは、大いに知恵を出す。知恵を出すから人は人なのだと思う。ところが、実際には、知恵を出す前に、多数決が使われてしまっている。それだけ、私たちは忍耐力を失ってしまったのだろうか。

 多数決というゲームルールが民主主義の本質ではないことは、そのご都合主義を見るとよくわかる。多数決をめぐっては、同じ人が、ある時は「多数に従え」と言ったかと思うと、別のテーマでは、「多数の横暴=少数意見を大切にしろ」という。傍から見ると可笑しいが、ご本人たちにとっては、別に矛盾していないのである。

 この場合、基準になっているのは、「自分が正しく、相手が間違っている」という揺るぎなき自己正当性である。「自分が正しく、相手が間違っている」という考え方は、もちろん価値の相対性を基本原理とする民主主義の対極にある。

 「自分が正しく、相手が間違っている」という基準によれば、多数が自分に意見に合致していれば、多数を尊重しろと言うことになり、多数が自分の意見に合致していなければ、少数を尊重しろということになる。多数決が悪いのではないが、私たちは、知らないうちに、多数決をうまく使いこなせなくなってしまった。

 ちなみに一般の暮らしの中で、「自分が正しく、相手が間違っている」という言動をすると、周りから馬鹿にされ、相手にされないが、こと政治問題になると、それが許されることになる。一般社会の常識がなぜ、政治問題では通用しないのだろう(おそらく、責任=リスクを負うかどうかの違いだろう)。

 私の両親は平凡な親であったが、「人に迷惑をかけるな」と「人は一人では生きていけない」が口癖だった。いずれも民主主義を体現する言葉である。大正の時代に生まれ、民主主義教育を受けた世代ではないが、市民として当たり前に暮らすことがすなわち民主主義だということなのだろう。民主主義教育を受けた私たち以下の世代が、そうした教育を受けない親の世代よりも、民主主義を実践できないのは何故なのだろう。

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