人生をひらく東洋思想からの伝言

様々な東洋思想の言葉やその精神を通じて、ともに学びながら一緒に人生や経営をひらいていけたら嬉しいです。

第57回「旅を栖とす」(松尾芭蕉)

2022年10月15日 | 日記

【人生をひらく東洋思想からの伝言】 

第57回

「旅を栖(すみか)とす」(松尾芭蕉)


俳聖芭蕉は、37歳の時にすべてを捨てて旅に出たそうです。

51歳で亡くなったと言われて
いるので、人生の晩年になります。

それまで、やっていた水道工事の店を捨て、

つまり財
産も捨て、家族も捨て、浮世のしがらみを全て捨て、

身一つで、小屋、俗にいう芭蕉庵に
移り住んだそうです。

そして、やがて旅に出て、そこから人生が開花していったと言われ
ています。

まさに、「旅を栖(すみか)とす」という生き方になったのでしょう。

その瞬間、芭蕉にとっての家、住居はこの大宇宙となったのはないでしょうか。

自分がい
るすべてのいる場所が、すべての家であり、

すべて関わる人が家族のような感じになると
いうことでしょう。

そんな意識で自分の家を眺めると、自分がいるところすべてが家だと思うと、どこに行っても、

自分の家のような
意識でいられて、愛着が生まれてきます。

 

では、その背景や心情はどんな感じだったのでしょうか?そのあたりをもう少し詳しく見ていきましょう。

伊賀上野(現在の三重県伊賀市)に生まれた芭蕉は、俳諧師になろうと30歳くらいの時に

江戸に出てきました。ところが、江戸の俳諧師は当時、男芸者のようなものといわれていたようで、

大店(おおだな)の旦那衆の太鼓持みたいになって生きていて、失望してしまったそうです。

それで始めたのが、水道工事業。かなりの成功を収めたようですが、「本当は俳諧師として生きたかったのに、

ある程度成功をしたといっても水道工事をやっている」という自分自身をなかなか受け入れられずに、

心の中では満たされない日々を送っていたように感じます。

なんと、家業も、家族もすべてを捨てて、俳諧一筋に生きると決意をしたのでした。37歳のときに。

その後、51歳で亡くなるので、死を感じながらも、覚悟をして大きな決意だったと思います。

芭蕉は江戸一番の魚屋を営む弟子の杉風(さんぷう)から、生簀(いけす)の番小屋を貰い受け、

そこで暮らすようになりました。そこが、後に「芭蕉庵」と呼ばれるようになったところです。

芭蕉が、その番小屋に移り住んで師走の寒い日の夜に読んだのが、下記の句だそうです。

「櫓(ろ)の声 波をうって 腸(はらわた)氷(こお)る 夜(よ)やなみだ」

「すべては捨ててしまったけれど、これから俳諧師としてうまくいくだろうか。いや、生きていくことさえ

出来るのだろうか・・・・」

薄い夜具にくるまり、寒さに震えながら、不安で寝付けぬ夜を過ごしている芭蕉。

その暗闇の枕元に響いてくるのは、大川を往き交う船の艪(ろ)を漕(こ)ぐ音と波の音。

「ギィー、ギィー、ザブン、ザブン」

生命(いのち)を削る音のような、人間の断末魔の声のような。自分の人生が荒波に襲われることを暗示

しているようにも感じられ、寒さと恐怖、不安で、芭蕉は腸(はらわた)が凍る思いから、自然と涙がこぼれる。

凍える自分にとって、温かいものといえば、みずからの涙だけ。そんな心境をうたった句です。

ものすごく、人間臭いですし、わびさびを感じ、味わい深さを感じます。生きながらにして「無」に入るという

感じはこんな感じなんでしょうね。芭蕉そのものの生き方にもすごく共感ができました。

「無」はすべてを失って何もなくなることのようでいて、そうではなく、実はその「無」から広大無辺な世界が

広がり、その世界はこれ以上ないくらい豊かで、自由で、解放感があり、幸せな気持ちになれるような感覚があり、

そこに、東洋思想の魅力や醍醐味を私も感じています。

これからも東洋思想の深さを様々な角度から掘り下げながら、体感、実感していきたいと思います。

参考文献
『東洋思想に学ぶ人生の要点』 田口佳史著 致知出版社

『老子の無言』田口佳史著 光文社文庫

 

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