人生をひらく東洋思想からの伝言

様々な東洋思想の言葉やその精神を通じて、ともに学びながら一緒に人生や経営をひらいていけたら嬉しいです。

第63回 「人間万事塞翁が馬」(淮南子)

2022年11月27日 | 日記

【人生をひらく東洋思想からの伝言】

第63回 

「人間万事塞翁が馬」(淮南子)


この言葉は、どこかで聞いたことがある言葉かと思います。

「人間万事塞翁が馬(にんげんばんじさいおうがうま)」

この言葉を座右の銘にする方も多いようで、元プロ野球選手の松井秀喜さんもそうだと、

あるインタビューで仰っていました。


先日、ワールドカップ2022の初戦で日本がドイツに勝利した後、

森保監督はじめ、選手の方々が口をそろえて、

「嬉しいですが、これに一喜一憂(いっきいちゆう)せずに、次の試合に向けて頑張りたいとい思います!」

と話されていたのを聞いて、それに近い東洋思想の言葉は何かを思い出して、

今回ご紹介することにしました。

それでは、この言葉の出典やその時代背景を少し見ていきましょう。


古代中国、紀元前2世紀頃、前漢の時代の思想書で

「淮南子(えなんじ)」の第18巻人間(じんかん)訓からの引用です。

ですので、正式の読み方は、「にんげん」ではなく、

「じんかん」だという説もあるようですが、一般的には「にんげん」と読むことが多いので、

ここでは、“にんげん”ばんじ と読まさせていただきます。


当時の時代背景としては、春秋戦国時代を終え、中華を統一した秦が滅んだ後、

中国で複数の派閥が生まれ始めた混乱を極める時代です。

淮南子は、道家の思想を組んだ、人生訓などが多いのが特徴かと思います。

一般的に知られている話の内容としては、このような話になります。


その昔、中国の北辺に占いに長けた塞(さい)さんという老人(翁)が住んでいたそうです。

ある日、そこで飼っていた馬が逃げ出してしまいます。

同情した村人に対して、塞さんは、「この出来事が福を招くかもしれない」と言いました。

すると、そのうち、逃げ出した馬が駿馬(しゅんめ:足の速い馬の事)を連れて戻ってきたのです。

沢山の駿馬がやってきたことに村人は喜びますが、

老人は、今度は「これは、禍(わざわい)となるかもしれない」と発言したのでした。

すると、後日、駿馬に乗っていた老人の息子が落馬して、

足の骨を折ってしまう事件が発生しました。これも、村人は憐(あわれ)みましたが、

老人は今度も「これが幸福を呼ぶかもしれない」と言いました。

それから、1年後、戦争のため頑健な男子はすべて兵役につくことになりましが、

骨折していた老人の息子は徴兵を免(まぬが)れ、親子ともども命拾いしたという話です。

この話の教訓から、「人生は何が「福」となるか「禍」となるかはわからず、

予測がつかないことである」といような意味合いとしてこの教訓が紹介されるようになりました。

一般的には、この教訓は「人生何があるかわからないから、最期まで諦めるな、

一喜一憂するな」という意味合いやとして使われることが多いように思います。

ちなみに、『淮南子』の「人間訓」の章の冒頭部分においては、

「禍が来るというのも福が来るというのも、すべて人間が自ら作り出すことである。

禍と福とは同じ門から入り、利と害とは隣同士にあるのであるから、

聖人でなければこれを区別することはできない」と書かれています。

そもそも、この書物では、こうした禍と福、といった概念自体が、

常に表裏一体になっているので、一つ一つの出来事の表面的な禍福に

と囚(とら)われないことが大事だという教訓として伝えられています。


最後に、本質的な事を日頃ご指導して頂いている前田知則さんから教わった話が、

私としては一番しっくりくるので、そのお話をご紹介にさせていただきます。

前田さんは、このように解説しています。『人間万事塞翁が馬』の話は、

「おおそうか」と事実だけを観ている塞さんと、「幸福だ」「不幸だ」と解釈して、

プラスとマイナスを行ったり来たりしている村人の物語だと。

塞さんは、「馬が逃げただけだ」「別の馬を連れてきただけだ」と事実だけを観ていました。

そして、「塞さんの馬が良い馬を連れてきて良かったね。幸せだね」という村人に対して、

心の中で「それは本当の事?本当は馬が馬を連れてきただけだよ」と言っていたのです。

連れてきた馬を調教しようとした息子が落馬して怪我したときも、

「不幸だね」という村人をよそに、塞さんは、

「それは本当の事?息子が馬から落ちてけがをしただけだよ」と

事実だけを観ていたのです。その物事の本質的な視点がすごく大事かと思われます。

目の前の出来事に振り回されずに、事実だけに目を向けて余計な解釈をしないということが、

我々にはとても大切かと思われます。


参考文献
『運命を開く』安岡正篤著 プレジデント社
小冊子『心のデトックス~楽に楽しく生きるコツ~14』前田知則監修 
らくらくライブネット編集部

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第62回「失意泰然(しついたいぜん)」(六然訓)

2022年11月20日 | 日記

【人生をひらく東洋思想からの伝言】

第62回 

「失意泰然(しついたいぜん)」(六然訓)


これは、元々は中国明国末期の学者で、崔後渠(さいこうきょ)の箴言(しんげん)、

わゆる戒めの言葉からで、昭和の政財界の精神的支柱として

多くのリーダーに影響を与え
た 安岡正篤氏が多くの方々にこの言葉を引用して、

直筆の書を多く送ったとされる、六然
訓(りくぜんくん)という言葉からの抜粋です。


自処超然(じしょちょうぜん) 自(みずか)ら処すること超然

【事に臨んで自分に関する問題には、物事に囚(とら)われない姿勢を持つこと】



処人藹然(しょじんあいぜん) 人に処すること藹然

【人と接する時には、相手を和やかにさせる】



有事斬然(ゆうじざんぜん)   有事の時には斬然

【何か問題がある時には、きびきびと勇断をもって対処すること】



無事澄然(ぶじちょうぜん)  無事の時には澄然

【何も問題がないときには、水のように澄んだ気持ちでいること】



得意澹然(とくいたんぜん)  得意の時には澹然

【得意の時には、あっさりと淡々としていること】



失意泰然(しついたいぜん)  失意の時には泰然

【失意の時には、逆にゆったりと構えて落ち着いていること】



このような在り方を日々意識していきたいものですね。

特に、今は世の中全体が、大転換期で、混沌とした時期なので、

これらすべてが同時に求められるかもし
れません。

特に これから数年は、何があってもおかしくないくらい、

今までの価値観や
常識に囚われない感覚がとても大事かと感じています。

だから、そんな時こそ ゆっ
たりと構えながら落ち着いていることも大事でしょうし、

同時に有事でもあるので、きび
きびした対応をもって勇断していかないといけない場面も

必要になってくるかと思います。

そんな時だからこそ、お互いに支え合いながら、それぞれで創意工夫をして、

一緒に この難局を乗り越えていき
ましょう。



参考文献
『百朝集』安岡正篤著 致知出版社
『安岡正篤 人生を拓(ひら)く』神渡良平著 講談社+α新書

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第61回「温故知新(おんこちしん)」(論語)

2022年11月13日 | 日記

【人生をひらく東洋思想からの伝言】

第61回

 「温故知新(おんこちしん)」(論語)


この言葉は、論語の一節で、

「子曰(いわ)く、故(ふる)きを温(たず)ねて、而(しか)して新(あたら)しきを知る。」

という有名な四字熟語でもあります。


明治から大正、昭和にかけて、我が国の政・財界・さらに社会公共事業に

偉大な業績を遺
し、日本近代化の父と言われる渋沢栄一氏も、

幼少期に「論語」をはじめ漢学に触れ、人
間性の基礎を確立していきました。

その渋沢氏も 原点である人生や事業の軸は、論語とい
うものに置きながらも、

当時の明治維新の新たな文明開化においては、

西洋から様々な技
術や知識を吸収し、近代化に貢献していきました。

もし、渋沢氏にとって論語というもの
がなければ、

時代や西洋諸国に翻弄されて、様々な偉業はなしえなかったのかと想像いた
します。


渋沢氏は、このようにも言っております。

「正直・倹約・勤勉・質素の四つの徳を守って、算盤(そろばん)をはじけば、

必ず社会
が指示してくれる。がむしゃらに利ばかり追っても、

最期は必ず破れる。倹約した資金を
新しい企業にどんどん投資をして

社会をゆたかにしていくことが、実業家の使命なのであ
る。」

これも、しっかり論語を通じた人間性の軸である「徳」という基準をしっかり持ちながら

行動された証ではないかと僭越ながら感じております。

渋沢栄一氏のお墓は 日暮里にある谷中霊園にあります。

実は、私の母方の先祖のお
墓も同霊園にある関係で、先祖のお墓参りもかねて、

渋沢栄一氏のご命日である11月
11日前後にも 伺うようにしています。

渋沢氏が設立に関わった会社の関係者が、毎年 霊
園に訪れて献花に溢れていらっしゃいます。

今年は、渋沢氏のご命日の翌日に伺いました
が、沢山の花に囲まれていました。

何か大切なものを継承されている気持ちを感じ、清々
しい気持ちになりました。

まさに、温故知新ということかもしれませんね。

参考文献
『論語と算盤』渋沢栄一著 国書刊行会
『不易の人生法則』赤根祥道 PHP文庫

 


日暮里 谷中霊園にある渋沢栄一氏のお墓
11/11は御命日なので 
清水建設、帝国ホテル、みずほ銀行など ・・・
渋沢氏が設立に関与した多くの企業や団体からの献花がありました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第60回「無事」(仏教)

2022年11月05日 | 日記

【人生をひらく東洋思想からの伝言】 

第60回

「無事」(仏教)


無事(ぶじ)という言葉、実はこれも仏教の言葉になります。

一般的には、挨拶の中で「ご無事ですか」などと日常会話で使われています。

この時の意味としては、何事もなく、災いもなく、

お元気ですかという意味合いとして使われています。

お身体は大丈夫ですか、仕事が順調ですかというニュアンスになります。

一方で、仏教語としては、身体的というよりも、精神的な一面の事を現しています。

わずらいがないことで、すべてのもとに こだわりを持たずに、

ひっかかりがない心の状態を現しています。この心の状態にあり、

人間本来の姿に徹して生きている人、悟りに達していて

何もなすことがない人のことを「無事(ぶじ)の人」というそうです。

また、「無学(むがく)の人」とも言われるそうです。

一般的には、無学とは文字が読めない、教育がなく、

教養がないという意味合いとして言われますが、

仏教でいる無学とは、もう学ぶことがなく、

なすべきことを すべて終えたということだそうです。

これを知ったときには、言葉の本質とは本当に深いなと感じました。


無事とは、求めるべきものもなくなり、行うべきこともなくなった境地の

まさに悟りを得た達人の域の事をいうということになります。

まだまだ、私自身は無学の人という域には程遠いので、じっくり学びを深め、

実践を重ねながら、この過程を楽しみながら少しでも近づいていけるよう

精進していきたいと思います。


参考文献
『ブッタの教えがわかる本』服部祖承 大法輪閣

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする