goo blog サービス終了のお知らせ 

one's works. my works!


one'sとは「その人の」と言う意味です。
僕らはone'sに「皆様の」と言う思いを込めました。

卒園式より帰宅    (田中)

2007年03月26日 12時41分45秒 | 家族
いや~、泣きました。
堪えたんです、奥歯をぎゅっと噛み締めて。
でも最後の歌でダメでした。
でまた一番最後、一人づつが花を一輪持ってきてくれるんです。
お父さんやお母さんにお礼の一言をそえて。

今回、嫁が父兄の席を僕に譲ってくれました。
保育園の行事にきちんと参加するのが始めてだからです、僕が。
娘はどっちが座るか判らない状態だった訳です。
で、一番最初の子が「いつもおいしいごはんを作ってくれてありがとう」と。
この辺りでまたどわ~っときた訳ですが・・・

ちょーっと待て…
これ、娘が食事系の言葉を考えてたらどうすんだ??
嫁に向けたメッセージを考えてたら・・・

ドキドキしつつ娘が眼の前に。
「いつも保育園に送ってくれてありがとう」

思わずほっぺをつんつんて突いてしまいました。
思い出す。
始めて保育園に連れて行ったあの日の事。
「後で迎えに来るから」って僕の言葉がまだ理解できない2歳にも満たない娘は「お父さん抱っこ~~~~~~~」って悲鳴をずっとあげてたな。
涙と鼻水でくちゃくちゃの顔になりながら。
保育士さんの「お父さん、今のうちに」の言葉に後押しされて漸く園を一人で出た。
門をくぐる時僕は泣いていました。

「いつも保育園に送ってくれてありがとう」
こんな言葉が聞ける日が来るなんて。

ずっとこのまま小さいままがいいって思ってた
けど。
もっともっと大きくなれ。

卒園おめでとう。

祖母の一周忌   (田中)

2007年03月20日 01時23分03秒 | 家族
もうあれから一年。
日が経つのは本当に早いものです。
尊敬する祖父が逝き、そしてぼくと僕以上に嫁と娘を可愛がってくれた祖母が逝き。
93歳は大往生ですよね。

一周忌は本当に身内関係しか集まらないのでそれほど気を使わなくてもすみます。
これがお通夜から七七日までは本当に大変なんです。
特に田舎ですから。
こないだからやってたドラマ「えらいところに嫁いでしまった」まではいかないですが似たような感じです。

都会育ちの方からすれば「煩わしい」と感じる部分もあるかもしれませんね。(特にあのドラマ)
でも決まりごとにはまたその良さもあるんです。

こんな時でもないと顔を会わす事の無い親戚などもいますしまた近所の方々の優しさも身に沁みる事も多々あります。

さて、その一周忌で聞いた話。
僕が子供の頃から行ってたお店が閉まるそうです。
そして津市に引っ越すみたいです。
色々な事情があるんでしょうね。
出た身ですから偉そうな事は全く以って言えた義理ではありませんが「寂しいな」と思いました。
その話をしてくれたおじさんも寂しそうでした。

だんだんと過疎化が進んできます。
暖め続けた僕の夢。
叶う日がやってくるのでしょうか。

子供マスク  (田中)

2007年03月02日 16時54分40秒 | 家族
現在カラーの放置タイム中なのですが。
花粉症の話にお客様となりまして今日は僕は随分とマシなのですが駒田が非常に大変そうなんですね。
で、マスクをしてる訳です、白い普通のやつ。
「もっとお洒落で可愛いのは?」って事で引っ張り出してきたのがこれです。

お洒落かどうかは別として可愛いかどうかはもっと別として。
コンビニには入れない事だけは確かです。

大人シャツ&大人ネクタイ  (田中)

2007年03月02日 15時37分15秒 | 家族
明日の1時~3時ぐらいまで友人と然るべき場所に赴く事になってるんですね。
然るべき場所へ然るべき人物達と会うべく。
有名な政治家さんとか来るって話なので慌てて大人シャツを買いに行ってきました、今。
4時までちょっと時間があったものですから。
その前に友人に電話をかけてるんですが繋がらず。

買った直後で℡あり。
「何やった?」
「あのさ、明日何着てったらええんかな?やっぱスーツ??」
「スーツはさ~、張り切りすぎやで普通の格好でいいと思うけど。」
「は?」
「俺なんか仕事着で行くつもりやけど」
「・・・・・・・・」
「どした?」
「普通の格好って持ってないんやけど・・・」
「店で着てるのでええと思うよ」
「蛇柄とかやけど・・・」
「え・・ま、まぁスーツはなぁ・・・」
「考えとくわ」

ってな感じ(?)でした。
あ―、蛇柄とか花柄とかしか持ってないんです㌔。
どうしましょうか。
ネクタイ、懐かしのJPS買ってきたんですけど。
いや、ほら、一応7に乗ってるし。
ダメ?

※因みに明日の関係で(?)ヒゲを剃りました。
すこぶる評判が悪いです。
嫁にはゆで卵と言われます。
娘にも「お父さん、ヒゲがあった方が面白かった」と言われます。
期間限定です。
ヒゲの無い田中をご覧になりたい方はお急ぎ下さい。

それでは仕事してきます。

人生が、ラブストーリーでありますように。  (田中)

2007年02月14日 11時04分10秒 | 家族
今朝の朝刊「明治製菓」の広告。
最初「は?」って感じで読んでたんですよ。
こんな文章です。

「私は、「その人」との約束を破った。
生まれて初めて愛した男性。
生まれて初めてバレンタインデーに、チョコレートを送った相手。
完璧な人生の先輩。
愛妻の存在は知っていたけど、私は本気だった。
なのに、だんだん欠点が見え始めた。
大切な時に、仕事。
束縛。
年下の私をいつまでも子ども扱いすることにも我慢できなくなった。
会話が途切れた。
長い年月・・・。
そして大学を出た私には他に好きな人が。
どこか「その人」に似ていた。
結婚を決意。
「その人」は黙っているだけだった。
式は2月14日。
新しい恋人に私が愛を告白した日。
その朝、「その人」と二人きりで会い、お別れのチョコレートを贈った。
「約束を破ってごめんね」という言葉に、「その人」と私は数年ぶりの笑顔をかわした。
バージンロードへ向かう私は、守れなかった「約束」を心の中で繰り返していた。

「大きくなったらパパのお嫁さんになるの」




明治にやられました。
最初ね、「不倫のカップル?」なんて思った僕はまんまと。
ええ、もうすっかり泣きましたよ。
ステレオタイプと笑ってやって下さい。

世の麗しき女性達よ。
お父さんに愛の手を。



本命チョコ   (田中)

2007年02月14日 00時07分05秒 | 家族
「日付が変わったから」と嫁と娘からプレゼント。
結婚してから毎年・・・って事は10年間作ってくれるんです。
娘ができてからは二人で。
キッチンを「覗かないように」と。
鶴の恩返しか・・・
僕は2階に退避(?)。
下から何やら「キャーキャー」と。
ヤツらは何を作ってるのかと。
毎年危険な香りが致します。

で、出来上がったのがこれです。
ストロベリーケーキとチョコレート。
娘からの手紙付き。

明日、食べます。

リフォーム    (田中)

2007年02月05日 10時46分17秒 | 家族
以前にも書きましたがうちの夫婦には子供ができないと思ってたんです。
なので家を建てる時に敢えて「子供部屋」を作らなかったんです。
それがお店をオープンした日に妊娠してるのが発覚して。
そりゃあ嬉しかったです。
それから7年。

子供部屋は・・・・・?
去年ぐらいに気がつきました。
勉強机は?
子供用のタンスは?
何処に置く???

2階の15畳の部屋を二つに分ける事にしました。
ここを建てて頂いた業者さんに。
見積もりをしてもらったら意外に安い事に驚きました。
コンセントの増設などは除いてですが凡そ30万円弱です。
仕事も非常に丁寧な感じです。

これは今木枠の状態ですね。
楽しみです。


こんぺいとう   (田中)

2007年01月20日 23時23分15秒 | 家族
これ、娘が物凄く好きなんです。
えらい地味なお菓子です。
どうしてこれが好きなのか。
僕が子供の頃、既に「貰ってもあまり嬉しくないお菓子№1(自分内)」でした。

「なんで好きなの?」
「何でかわからないけど好きなの。でもあんまり食べると太っちゃうけどね」との事でした。

もう30年以上は食べてないな・・・
「一個頂戴」
「じゃあ目をつぶってて」
「口に入れてくれるのかと思いきや手の平に乗せてくれました。
口の中に放り込みました。

ガリガリと咬むとふわっと柔らかい甘い味が。
「こんな素朴なお菓子が好きな子がいてもいいな」と思いました。


阪神大震災から12年   (田中)

2007年01月17日 13時40分52秒 | 家族
もうあれから12年。
でも当事者の方々からすれば「まだ12年」でしょうね。
僕はその頃一身田で住んでました。
忘れもしません。
あの日。
ガタガタガタ!と激しく揺れる建物の中、咄嗟に何処に逃げて良いのかも判らず。
じっとするしか無かったです。
3階建てのアパートの一階部分。

老朽化した建物の一番下の階。
それがとても怖かった理由です。
「今ぐらいの揺れのままだと大丈夫だろうけどもうちょっと揺れるとヤバイかな・・・」って。
随分、長く感じましたが揺れは収まり幸い被害はありませんでした。

弟が愛知県で居たのですぐにテレビを点けました。
「もし震源地が愛知だったら弟は?」と思ったからです。
すると震源地は「兵庫県の方」だと。
その時点では怪我人が6名出たもようとの報道。
そんな大した事は無かったんだなー・・・・とそのまま遊びに出ました。
夕方家に帰ってきてからテレビを見ました。

神戸が燃えてました。
祖母の実家、神戸。
すぐに神戸の祖母の実家に電話をかけるも通じず。
僕の実家にとって反して電話。
実家でもかなり慌ててる様子でした。
「連絡がつかない」と。
家にすぐに帰りました。
祖母は心配のあまりテレビの前を行ったり来たり。
弟さんや甥夫婦など神戸には身内が多く住んでましたから。

眠れない夜を三晩過ごし漸く無事と判ったのが三日後でした。
僕が初めて神戸に遊びに行ったのが10歳の時。
鈍行列車に揺られ夏休みを神戸で過ごしました。
一駅で40分止まったり手を伸ばせば届きそうな葡萄がぶら下がってる葡萄畑を通り。
あの夏の思い出は今でも珠玉です。
それから幾度と無く遊びに行った神戸の街が燃えている。
もう言いようが無い程のショックでした。

幸い、親戚の家は屋根がずれたなどの被害はあったものの怪我人などは出なくて。
これも運と言うのでしょうか。
その1週間前に引っ越してたんです。
もと住んでた家は倒壊してたそうです。

日にちが過ぎるにつれ被害者の数は膨大な人数に。
悲しいお話も沢山聞きました。
とてもじゃないですがここに書けない様な…

次の年、僕はバレンタインにチョコレートを買い込み神戸の小学校や子供達が住む施設に送りました。
手紙を一通だけそえて。
その手紙を多分人数分コピーをして下さったんでしょうか。
その後、子供達からお礼のお手紙が沢山届けられました。
恐怖の中で生き残った体験、悲痛な叫び。
そこに綴られてたのは想像を絶する痛み、悲しみ、恐怖でした。

僕は返事を出せませんでした。
今でも大事に残してある子供達の手紙。
時折読み返しながらただ無事である事のありがたさを。
そしてもう成人したであろうこの子達(6歳の女の子からも貰った。この子はまだ18歳ですね)が今、幸せに過ごしてくれてる事を祈らずには居られません。



硫黄島からの手紙   (田中)

2007年01月14日 13時40分38秒 | 家族
現実は想像を遥かに超えます。
ここより先は嫌悪感を示す方もいらっしゃるかもしれませんので「ダメかも」と思ったらここで閉じちゃって下さい。


この映画の監督「クリント・イーストウッド」の言葉。
「前線で死と隣り合わせになって戦った兵士達は、いくら勲章を受けても戦場のこととなると、口をつぐんでしまう。遠方で操作している輩に限って見てきたような戦話をするのだと後になって知った」

本当にそうだと思います。
何に対しても。
偉そうな事を言ったり書いたりしてるのに実際は「憶測」だけだったり「眉唾モノのネタ」だったり。
僕も気を付けたいと思います。

硫黄島。
今もあの島に渡るには民間の船は(普通には)利用できません。
定期的に往復してるのは自衛隊関係の船だけです。
今でも人骨などが時折出てくるらしく色んなお話を各方面よりお伺いします。
中には霊的なお話も。


戦争を行うとはそう言う事ですよね。
誰かが必ず死ぬ。

僕の祖父はニューギニアに行ってました。
アメリカ軍の蛙飛び作戦で補給を寸断され食料、薬品などの重要物資が届かず。
飢えとマラリアで目の前で戦友さん達がバタバタと倒れていったそうです。
亡くなった戦友の小指を切り取り焼いて「せめて小指の骨だけでも」と日本で待つ遺族の方々のもとに届けたそうです。

この時、祖父もマラリアに罹り生死の境を彷徨います。
戦友さん達や先住民族の方々の手厚い看護(※)で奇跡的に生き残った祖父は終戦後日本に帰還しました。
16万人がニューギニアに行き、そして無事日本に帰れたのは1万4千人だったと聞きます。
いつも言ってました。
「俺が生きて帰ってこれたのはニューギニアにいた野生動物達のおかげ」「原住民(と言う言い方では無かったですが今では使えない言葉なのでこの場では修正させて頂きました))はええ人ばっかりやった。」と。
なので非常に犬、猫などの動物を可愛がってました。
「徒に殺生をしてはならぬ、生きる作法を身につけよ」

帰ってきてからも数年に一度マラリアの熱が祖父の体を襲いました。
真夏なのに「寒い、寒い」と毛布を幾重にも被りガタガタと震える祖父を見るのはとても恐ろしく悲しい事でした。

そんな祖父や戦友さん達から僕は「本当の話」を沢山聞きました。
それは辛くて悲しい話でした。
でも今はそれを知る事が出来て本当に良かったと思います。

何気ない平和の危うさ。
今、何も無いのは本当に幸運以外の何物でも無いんです。

10数年前。
土木工事現場で働く叔父がブルドーザーのキャタピラに足を巻き込まれました。
膝下から切断でした。

命に別状はありませんでしたが・・・・
祖父はバイクで病院に向かいました。
泣きながら帰ってきたその手には何かを入れたビニール袋が。
「○○の足や」と真っ赤に泣きはらした目でそう言いました。
「先に焼いて墓場に入れておいてやる」

その時の涙の意味を考えると今でも祖父の悲しみが僕には。
ただ「息子の嫁(僕の母)の兄が足を無くしてしまった」ってだけの涙では無かった気がします。
数十年前、異国の地で死ななければならなかった友の無念を思い出して泣いていたんだと。
今なら判ります。

気骨に満ち溢れた祖父も亡くなり8年です。
どんどん戦争の生き証人が居なくなっていく今、本当の戦場での事を伝える事の大切さが身に沁みます。
戦争ほど愚かな事は。

※ひょうきんで優しく強かった祖父は清助と言う名前でしたが現地では「コーキットン」と呼ばれ親しまれ慕われてた様です。
意味は教えてくれませんでしたが・・・

※2 この文章(まんまではありませんが)は以前のHPにも載せた事があります。
コピペで使われてたのを見てびっくりした事がありますがこれ、僕が(?…って言い方もアレですが)「本物」ですので。
「他人の褌」を僕もたまには使いますがそれはちゃんと「元ネタ」を明かします。
使って頂くのは結構なのですがさもご自分が書いたかの様にするのは如何なものかと。
連絡(?)は欲しいものです。

伝説のチャンピオン   (田中)

2007年01月13日 23時56分04秒 | 家族
え~と上戸彩 さん主演のCAを題材にしたドラマをやってたんですよね?
その中でファイアーダンスやフラのシーンがあったらしく娘に「お父さんもやった事があるんでしょう?お母さんが言ってたもん」って。
………確かにやった事アル………
まだ確か25歳ぐらいの時。
グアム行った時・・・・だったと思う。
ハワイじゃないよな、確かグアムの方だったはず。
あの時はen fleurも一緒だったっけかなぁ・・・嫁は一緒だったな。
だから知ってる訳で。

夕食時間にいや~な予感はしたんです。
コーディネーターの方が専務に「元気のいい人を前に座らせて下さい」って言われてた後で僕が最前列に座らされたんです。
ファイヤーダンスとか見て盛り上がったその後。
お姉さんズがステージから客席に降りてきて男性数人をステージ上へ。

ぬかったわ!
と思う暇も無く半ば強引に晒し者の様にステージ上に上げられました。
で、一人ずつ面白おかしく踊り方をレクチャーしてくれてそれぞれ眼前のお姉さんと一緒に踊るんです。
こんな時。
躊躇してたら余計にかっこ悪いと思うんです。
で、盛り上げなきゃって元バンドマンである古傷も疼きだしちゃって。
パートナーの女の子があんまりにも可愛かったので待ち時間に名前とか年齢とか片言の英語で聞いて・・・・なんて事をやってたのは僕だけです、すみません。

で、いざ順番が来て。
激しく踊り狂いました。
天よどうか照覧あれ。
一生に一度、異国の地で激しく踊り狂う二輪侍の勇姿を。

やっとこれでステージから降りられると思ったのも束の間。
「では本日のチャンピオンを決定したいと思います。一番だと思った人に拍手を~!」
一番から順に。

ダントツ№1でしたよ、もう。
前のヤツら(同僚ね)ゲラゲラ笑ってやがる。
「チャンピオンの方は全ての女の子と踊って頂きま~す!」の場内アナウンスにどれほどみなさん(主に最前列のヤツら)盛り上がった事でしょうか。

綺麗な女の子達に囲まれて・・・・・んのに・・・嬉しくな~いT_T
僕の周りをクルクル踊りながら僕の後ろに周った子とかが髪を引っ張ってきたり腰をぶつけてきたり。
ええ、もうヘロヘロでぐったりでした、ステージが終わる頃。

最後、「パートナーの女の子にキスを」って事になり前のヤツらの期待に満ち満ちた目を裏切れる僕ではないので。
思いっきり狙っていきましたがかわされ頬にキスでした。
この写真がその瞬間(?)の写真ですね。

世の中、甘くないです。
なかなかに手強いです。

このあとバスに乗っても小さい子供さんからは「チャンピオン!」と言われるしバスの運転手さんからも「ヘイ!チャ~ンプ!!」とか言われるし。
もう二度と踊らんと誓った25の夏。