『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

「私はキュウリ以外のナニモノでもない」とまで思ったわ

2021年08月19日 | 神戸シュタイナーハウス
「植物を観察する」と言う時、
ふつうは外見を観察することを差す。
葉っぱの形とか、花の付き方とか、
被子植物とか裸子植物とか。

んでもって、
見た目だけよりも、もっと深く、
本質的なところまで観察する
ゲーテの植物観察の方法がある。

その方法が自分にどのくらいできるのか。
毎月1回集まり、
素晴らしいリードをしてくださる方と、
ステキな仲間たちと一緒に、
何度かトライしてみている。

各自、好きな植物を観察しているのだが、
私は、暑いからわざわざ外に出かけたくなくて、
窓から見える緑のカーテンのキュウリを観察してみた。

昨日のブログで、唐突に
「私がキュウリだということは、
今の私にとっては妥当だ」とか書いてたのは、
この影響です(^^)。

今回、私が試してみた方法は、
主語を変えてみる方法。

「ソレは」で普通の観察(外から見えるところ)。
「あなたは」という主語で、
キュウリさんと個人的に仲良くなる。
最後に「私は」とキュウリの中に入ってみて、
どう感じるのかを試してみる、という方法。


「それ」は
水が枯れるととたんに元気がなくなる。
水さえやっていたら、夏の間、1~2日に1本ずつ実る。
実り終わると一気に葉っぱから枯れていく。
蔓はいつまでも残る。

「あなたは」3週間もの間、私たちに
瑞々しいのにカリリとした歯ごたえの恵みをくれた後で、
硬い蔓だけ残して
バリバリでトゲトゲの葉は
嘘みたいにヒラヒラと枯れていった。

雨に濡れて揺れている黄土色でシワシワの葉っぱ。
いつまでもそこにくっついているよりは、
強い風にヒラヒラと飛ばされることを望んでいたわね。
きっと、もう会えないけど、
ひと夏を生き切ったあなたには、心残りはないはず。
ありがとう。

「私は」、
若い頃には大きくて濃い葉っぱだった。
太陽の光に自分をさらし、無敵な未来を描いていた。
大きな葉は、トゲトゲしていたが、
「傷つく方が弱いのだ」くらいに思っていた。

大人になり、自分の小ささに気付くにつれて、
まわりの無限の大きさを
もっともっと知りたくなった。

それを知って行くためには、
トゲをまるめる必要があった。
トゲをまるめたくなったものの、
性格や姿勢が変わるのに10年かかった。

少しは謙虚になったが、同時に
自分に対する自信も減った気がする。
ダメじゃん!
でも、まわりから教えてもらえることは増えた。

蔓の部分は、
強制的に引きちぎられない限りちぎれない。
枯れても風が吹いても失われない。
どんなに謙虚になっても、硬い骨のように残る。

私の蔓って、何?

人間が自由になっていくことへの信頼。
人は、世界は、宇宙は、どうなっているのか、
人間とは何か、幸せとは何か、
という問いの答えに近づきたいという思い。

そして今朝、ちょっと嬉しかったこと。
キュウリはもはや花も実もなく、
葉っぱも枯れて、蔓にすぎない。

なのに。



いつの間にか朝顔がキュウリの蔓に巻き付いて、
それを支柱変わりにぐんぐん伸びて行って、
花を咲かせていたこと。

大木じゃなくても、蔓でも、
それより弱い者には役立つんだ。
大木に朝顔の蔓は巻き付けないもの。

「キュウリ」なんていう
自立もできないものに自分を重ねるなんて、
若い頃は冗談でもしなかったと思うけど、
今回は、びっくりするほどシンパシーを感じた。

もはや、
キュウリ以外の何ものにも
自分を重ねることは難しいんじゃないか
と思うくらい。

でも、次は対極に違うものに
自分を重ねてみよう。

だって、何の植物を見ても、
そこに、自分の中にある要素と、
その植物との共通点が響き合うのを感じるから。

しかも、一度ちゃんと向き合って見たものは、
自分の中で特別な存在になって、仲良くなれるし。
ワクワク。



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