『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

外も内も一緒なんだ!(12/100)

2021年08月18日 | フォルメン
ここにアップしてない日も、
3週間、毎朝ぐるぐるしてます。

この日はまだまだ結びのバリエーション。
縦横描いてみたり、1~2か所とがらせてみたり。
白い画面を見ていたら、
「円もあるじゃん!」と思いつき、動いてみた。
ハートで地球を満たすイメージ。

やさしいイメージのわりには
動くのがとっても難しい。
動くだけならいいけど、整わない。
大小・天地・左右がバラバラだ~~。

同じことをしていても、
正の時もあれば負の時もある。
それは時代や場所や立場や経験によって、
変わって行く。
もちろん、人によっても。

今日、植物観察の会で読んでた文章に出て来て、
わからないなりに、みんなで一緒に考えてみた、
「思考内容の妥当性」と「各人の主体変容」
って言う言葉ともリンクしている気がする。

私が仮に「キュウリって私だわー」と言ったとして、
それが正しいかどうかは、何で決まるのか。
誰もが同じ答えになることだけが正しいのか。
それが自然科学の立場なんだけど、
私にとってだけ正しいこともあるんじゃないのか。

「キュウリって私だ」「私は絶対キュウリだ」
(書いてたらマヌケだけど)と思ったそのことは、
「いや、あんたトマトだし」と言われても、
その時の私には、妥当だったという確信がある。

でも、私がいつまでもキュウリかというと、
私だって変化していくんだから、
そのうち「私ってトマトだわ」って言い出すかもしれない。
それも、その時の私なりの正解。妥当な答だ。

今日参加してたメンバーは、
「自分なりの妥当性」についてはみんな実感してるから、
「それをどう使っていけるのか」みたいな話にもなってたな。

私だって、こんなこと書きながら、
「フォルメンって、こんなこと起想させてすごい!」
っていうのを、
伝えようとしてまるで伝わらなくても、
それでも、私にとっては妥当だもの。

誰かにこの感覚を認めて欲しい、
とは思わない。
そもそも、
やってみないとわからないだろう、とも思う。

だけど、
「やってみたら、いろんなことが
つながって感じられて、おもしろいかもよ~」
とオススメしたいとは思うし、自分ももっと、
これをツールとして使う事で、
自己認識や世の法則に近づきたいと思う。

「そんなあいまいなこと、認められません」
っていうのが自然科学だとしたら、
人間は、自然科学以上のものだ。

だって、その瞬間だけを
レントゲンみたいに切り取ったとしても、
それが「自分」じゃないもの。
変化していく全部を含んで「自分」だもの。


その時々でバラバラなことをやってても、
自分を中心に置いていたら
右に向かって動き始めても、
下に向かって動き始めても、
当然、同じところに戻ってくる。

あ、左から右へ、上から下へっていう
一方向の動きは、なんとなく西洋的で、
すべての調和、円環運動は東洋的、
という気がしてきた。

西洋の一神教(一方向)と、
日本の多神教(八百万の神)の違いとか、
早く効率的に行く正義と、
自分や、「自分でもある他の人」が
またいつか通る道だから、
なるべく美しくしておきたい、という意識とか。
いろんな違いも感じる。



そんなことを感じながら、
浮き沈みしつつ、結んだりほどいたりしながら、
尖ったり包み込んだりしながら、円を動いていたら、
真ん中にもう一周描きたくなった。

地表と地下みたい。
「歯」にも見えてきた(^^)。

そっか~。そういえば、
口腔や胃や腸も、皮膚や頭髪も、
どっちも空間に接してるな。

てか、人間の身体自体、
ストローやマカロニの裏表の形してるじゃん!
痩せた人はマカロニで、太った人はドーナツ。

よくこんな物質の塊が、
複雑に生命として機能してるな。
そこに、さらに複雑な
魂や精神、自我なんてものが宿ってるな!!!

細かいことで、
あれこれ喜んだり落ち込んだりしている自分や、
今日学んだ出来事や、気づいた内容。
隣で生きている人、遠くでつながっている人。
何もかも、奇跡すぎる。



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