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『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

バカを引き受けたら理想に近づいた件

2020年02月02日 | 『自由の哲学』
自分がしゃべる勉強会と、 自分はそんなにしゃべらない勉強会がある。 たとえば、自分がリーダー的な立場の時、 以前は、自分が完璧に理解して話をしなきゃ、 って感じで、一人で背負って、緊張してた。 背伸びしてでも、無理してでも、 ちゃんとこの場を進めていかなきゃ、って。 でも、苦手なんだよね。人前で理路整然と話をするの。 前もってわかってることを話すのは、あんまりおもしろくない。 自分の心の中を見 . . . 本文を読む

哲学とお近づきになれる方法

2020年01月27日 | 『自由の哲学』
哲学って、難しい。 高校生の頃、世の真理とかが書いてありそうで、 憧れて哲学書を手に取ってみたけど、 日本語で書いてあるのに 何一つ意味がわからなくて、ビックリした。 それからン十年。 ちょっとずつわかってきた。 哲学が難しいのは、抽象的だからだ。 万人に共通する考えの結晶だから、 抽象的にならざるを得ないのだ。 だから、テツガクする時には、 一人ずつが自分の現場に照らし合わせて 具体的なこと . . . 本文を読む

ゆっくり読む、早く読む、その違いは?

2020年01月24日 | 『自由の哲学』
読み終わるまでに7年もかかった シュタイナーの『自由の哲学』。 最後の文を読み終えてから3年が経ちました。 その本を仲間と一緒に読む機会をいただき、 最近、また最初から読み直しています。 10年前には文字通り一文ずつ、 どの一文のおいしさも逃すまいと思って スルメを噛むみたいにしつこく格闘したんだけど(^^;)、 (このコメントの応酬を見よ!41件だって!!) 今回は、ちょっと読み方を変えて、 . . . 本文を読む

自由を求める生き方を、柔道の型みたいに

2019年12月23日 | 『自由の哲学』
最近、というか、ここ10年あまり、 「自由」について改めて考え、それなりに挑戦していますが、 今日は「自由」って何に役立つの? について考えます。 言葉としての「自由」の定義じゃなくて、 「自由」は、生きるのにどう使えるか、です。 自由とは、柔道の型 パソコンのOS(基本ソフト)のように 計算する時の公式のように、 ピアノを弾く時の鍵盤のように、 柔道をする時の型のように、 自分が生きる . . . 本文を読む

何でも売ってる!! 横尾忠則 自我自損展より

2019年12月10日 | 『自由の哲学』
神戸横尾忠則現代美術館で開かれている 「横尾忠則 自我自損展」に行ってきました。 この展覧会は、 「自画自賛」じゃなくて 自我自「損」というところがミソで、 「エゴに執着すると損をする」がテーマだそうです。 自分の前作や過去のポスターに思い切り手を加えて、 全然違う絵になってたりするものが、 あれこれあったのですが、 中でも「おおっ」と思ったのが、この絵。 小さくて見えないでしょうが、 . . . 本文を読む

色づく葉っぱがセンセイ

2019年12月08日 | 『自由の哲学』
自由の哲学に一元論と二元論についての話があります。 たしか、 「二元論でとらえてる限り、いつまでも自由になられへんで~」 というようなことが。 ずっと前に読んだことを、今日、散歩中にふと思い出しました。 昔から、おしゃれすぎる人は苦手でした。 なんとなく、気後れするというか、 興味の対象があの人と私じゃ違うだろうな、 って決めつけて。 でもそれは二元論的に見ていたから。 オシャレに無頓着 . . . 本文を読む

「ワガママな人」と「自由な人」の違いって?

2019年12月07日 | 『自由の哲学』
10年ほど前に、スーパーマイペースな困ったちゃんと 自由な人の違いについて考えてたことがありました。 ココ 最近、自由とワガママの違いについて、 当時よりシンプルな言葉にできた気がします。 「ワガママな人」と、「自由な人」は違います。 「人」っていうと、固定してしまいますが、 誰でも成長していくし、その時々の状態で変わるので、 「わがままな時」と「自由な時」にしておきましょうか。 「自由 . . . 本文を読む

■自由の哲学15章4段落_3

2016年11月11日 | 『自由の哲学』
言い換えるなら、きっと人は 自分を起こさずに世に流されて生きるか、 自分で自由に自分を動かすか、 他人に従うか、の3つのどれかで動いている。 人はカラダが求めるものを満たして生きるだけとか、 他人の言うことに従うだけじゃイヤだ、と思う時、 その人自身によって、その人が決まる。 他の何からも、その人を決められはしない、 自分の中から来る以外のどんなものも、 その人を左右したりはしない。 ※ まる . . . 本文を読む

■自由の哲学15章4段落_2

2016年11月08日 | 『自由の哲学』
人が「私は何をすべきか」と、 自分にわからないあちらの神などの世界に求めても無駄だ。 人は、自分が何をすべきかを、 その人自身が描く理想のうちに探し、見つける。 それは、生物としての欲求を、 その人自身が自分で越え出て、 かつ、他の人が描く理想に乗っかる というイージーさを求めない、 という条件の時に、見つける。 ※ 前半、わかります。 自分が何をすべきなのか、 カウンセラーやシンクタンクの . . . 本文を読む

■自由の哲学15章4段落_1

2016年10月03日 | 『自由の哲学』
同じく、一元論の主張するところからして、 私たちの行為の無期先も、 人をどこかよそに置いた世界を指針にする ようなことはできない。 私たちの行為の目的は、考えられた目的である限り、 きっと悟りからkている。 人は自分では見通せない神や造物主の目的を 自分の目的にすることではんく、 自分の目的であり、自分の理想から来る目的を 追い求める。 人は行為することで自分のものになる考えを、 その人 . . . 本文を読む

■自由の哲学15章3段落_4

2016年09月30日 | 『自由の哲学』
だから、一元論には、 私たちの経験できないような世界を指すような考えも、 ただの仮説でしかない形而上の内容を示す考えも、 共に、考える必要がない。 多くの人が考え出してきた、 神や死語の世界やカルマや何やかやの考えのすべてが、 一元論にとっては不具象だ。 その不具象な考えを生み出した人は、 もともとは経験できること(=具象)から その考えを借りてきた。 それを、忘れているだけだ。 ※ もとも . . . 本文を読む

■自由の哲学15章3段落_3

2016年09月27日 | 『自由の哲学』
一元論の見るところ、科学でも 覚えを記録して説明するだけが客観的で 正しい現実なんだ、と制限し、 感和えでそれを補わないのは、中途半端だ。 しかし、また考えだけでそれに見合う覚えを探さず、 覚えることができる世と考えをつなげる あらゆる網の目のどこにも当てはまらないもの、 それも中途半端だ。 ※ 前の文では、考えはただの思い設けじゃなく、 リアルな物理の世と精神の世をつなぐものだ という話で . . . 本文を読む

■自由の哲学15章3段落_2

2016年09月24日 | 『自由の哲学』
私たちにわからない世界によって満たされる考えが、 「不具象」の考えだ。 その場合、私たちにわかる世界の現実は伴わない。 私たちがしみじみ思うことができるのは、 現実を伴う考えのみだ。 そして、現実を伴う考えの中から 現実そのものを見つけ出すには、 「覚える」力が必要だ。 世の誰であれ、何であれ、 「考え出されただけの存在」というのは、 本当に「考える」ということをわかっている人にとっては、 あ . . . 本文を読む

■自由の哲学15章3段落_1

2016年09月21日 | 『自由の哲学』
ほんとに、人の精神は私たちが生きている現実の中にある。 また、現実を抜け出して高いところに探しに行く意味もない。 そもそも、この世を解き明かすのに必要なすべてが、 この世にあるからだ。 哲学者が「きっとあっちにあるはず」と言って、 それでヨシとするものがあるなら、 それをあっちじゃなくてこっちに置いても、 同じようにヨシとすることができるはずだ。 そのあっちやこっちに置く内容は、 私たちの生き . . . 本文を読む

■自由の哲学15章2段落_4

2016年09月15日 | 『自由の哲学』
人は誰でも、それぞれで考える。 その考えは、まるごと全体の考えの世の一部だ。 考えの世、全体を見通して考えることはできないから、 そういう意味では、一人ひとりの考えは別々で、 異なったものにしか見えない。 しかし、その一人ひとりの考えの内容は、 まるごと一つの考えの世の中の一部なのだ。 だから、一人ひとりが考えることで、 すべての人の中にいる神のような高い存在を 一人一人、自分の中に認めること . . . 本文を読む