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『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

■自由の哲学15章2段落_3

2016年09月06日 | 『自由の哲学』
考えることは、一人ひとりバラバラな覚えを ひとつの同じものに近づけ、導いていく。 考えの世はひとつ。だけど、 覚える人ごとに違う覚えを、いろいろなあり方で与える。 人は、自分だけの覚えに執着している限り、 自分を一人きりの人にしか見えない。 だけど人は、自分の中にうっすら感づいている 一人ひとり違うみんなに共通する世に注目すると、 自分の中に丸ごとの世界が 生き生きと見えてくるのを感じる。 . . . 本文を読む

■自由の哲学15章2段落_2

2016年08月30日 | 『自由の哲学』
代わりに一元論は、人が現実に生きることは、 人が覚えられない神や精神世界などを設定しなくても、 確かにそこに意味がある、と告げる。 一元論は、現実の意味を、 人が経験できないものに求めない。 なぜなら、 経験の中身そのものが現実だと知っているからだ。 そして、一元論は、その現実だけで完結している。 なぜなら、考えるという働きそのものに、 現実を現実として立証する力があることを 知っているからだ . . . 本文を読む

■自由の哲学15章2段落_1

2016年08月27日 | 『自由の哲学』
私たちが現実に、この世で生きていることは、 いかにピュアな主観想念論者でも否定しないだろう。 ただ、私たちが「考えることに意味がある」と言った時、 それには反対するだろう。 それに対して、一元論では、 「考える」のは、主観の働きでも客観の働きでもなく、 現実のふたつの面に及ぶ原理だ、と言う。 私たちが、考えつつ見る働きそのものだって、 現実に存在するもののひとつだ。 私たちは考えることで、経 . . . 本文を読む

■自由の哲学15章1段落_5

2016年06月07日 | 『自由の哲学』
覚えは、客観的に与えられる現実の半分で、 考えは、主観的に与えられる現実の半分だ。 私たちの精神の作りは、その二つの現実を半分に引き裂く。 ひとつは、覚える。もうひとつは、悟る。 その二つを両方合わせて、 現実の法則に、考えを重ね合わせることで、 まるごとひとつの現実に至る。 私たちは、ただの覚えをそれだけ見て(考えないで)、 意味のないカオスに向き合い、 覚えについての法則(誰かの考え)だけ . . . 本文を読む

■自由の哲学15章1段落_4

2016年06月03日 | 『自由の哲学』
(考えなんて主観的なものでしょ、という人は、) しかし、考えることは主観にも客観にもまたがることも、 覚えと考えを合わせてまるごとの現実に至ることも、 知らなかった。 覚えから見て取れる法則を、 単に、自分の頭の中だけで理解するなら、 なるほど、それは主観的だ。 だけど、自分の覚えと絡めて考えること、つまり 覚えたことについて、考えに助けてもらって得る内容は、 主観的ではない。 その内容は、 . . . 本文を読む

■自由の哲学15章1段落_3

2016年05月31日 | 『自由の哲学』
私たちが自分で考えることで、 現実の本当の姿を、まとまりのある全体像として 私たちに見せる。 一方、覚えが一人ひとりバラバラなのは、 私たちが一人ひとり違うから、 それに左右される見かけにすぎない。 覚えが一見カオスなのを越えて本当のことを知ることは、 いつの時代にも考えることの目標だった。 科学は客観的な覚えだけを現実だと決め、 その覚えに法則を見いだした。 しかし、人が考えて結びつける . . . 本文を読む

■自由の哲学15章1段落_2

2016年05月28日 | 『自由の哲学』
人の存在は、ただの一人も世から孤立していない。 一人ひとりの人は、まるごと世の一部であり、 宇宙全体のまるごとと実際につながって存在している。 ただ、そのつながりが、 私たちの覚えにとって、別々に見えるだけだ。 私たちは最初、自分が宇宙の中で一人きりで、 誰ともつながっていないように見る。 なぜなら、自分の人生を動かす歯車に、 宇宙の基の力を伝えるベルトや綱を見ないからだ。 そのつながりを見よ . . . 本文を読む

■自由の哲学15章1段落_1

2016年05月22日 | 『自由の哲学』
ついに、講座が終わってしまいましたが、 こっちもついに第3部。 と言っても、第3部は1章だけですが、読んでいきます。 残りページの少ないのが惜しいこと! 最終章のテーマは「つまりの問い」。 …問い? 最後まで、答えを教えてくれないらしい(^^)。 でも、読んでいくこと自体が、自由を教えてくれる。 自分が自由を考えること自体で、自由になっていけるという、 何とも謎の本です。 「どうやったら自由に . . . 本文を読む

■自由の哲学14章8段落

2016年05月19日 | 『自由の哲学』
類的なものから自由になれない時、 つまり、不自由な時、人は、 自然界や、精神界のひとかけらになる。 そこにいて、その中の一員でいる時は、 誰かの真似をするか 他人が命令する通りに生きることになる。 本当の意味で、その人の倫理が値打ちを持つのは、 その人が自分の内側からの悟りでしたいことを決め、 損得を越えて「その行為を愛してする」時だ。 また、所属するグループの伝統や、価値観が 構成員一人ひ . . . 本文を読む

■自由の哲学14章7段落

2016年05月16日 | 『自由の哲学』
人は「類」的なもの(女・会社員・日本人などのくくり)から 自由になりゆくほどに、 社会の中でも、自分らしさを失わず、 自由な精神で生きていけるようになる。 誰ひとり、まるっきり類そのままではないし、 誰ひとり、まるっきり類の影響がない人もない。 誰もが、自分なりの所を 多かれ少なかれ、生物としての類らしさから、また 権威のある人に命令されて縛られるところから、 少しずつ自由にしていく。 ※ . . . 本文を読む

■自由の哲学14章06段落_2

2016年04月20日 | 『自由の哲学』
前半は、認識の自由。 今度は、実行の自由についてのいくつかの文です。 一人の人が、具体的に何をしたいと思うのか。 そのことも、「類」の見方からは導けない。 一人の人をわかろうとするなら、 類ではなく、その人自身に迫らなければならない。 セオリー通りの見方では見えない。 そういう意味では、一人ひとりが、ひとつの謎だ。 そして、抽象的な考えや、類という考えに関わるすべての学問は、 1,一人が世をど . . . 本文を読む

■自由の哲学14章06段落_1

2016年04月13日 | 『自由の哲学』
■自由の哲学14章06段落_1 人を「類」で見ようとする人は、すぐ限界に突き当たる。 人は「類」の限界を越えて、 自由に自分のことを決める者にもなる。 「類」で判断するなら、科学的に見ることもできる。 人種、種族、民族、性別は、科学になり得る。 「私は」ではなく「私たちは」と言う時は、 「類」として科学的に判断される対象でしかなく、 何かのステレオタイプにピタリと当てはまるだろう。 しかし、 . . . 本文を読む

■自由の哲学14章05段落

2016年04月10日 | 『自由の哲学』
一人の人をわかろうとする時、 類型的な見方をしていては、その人がわかるはずがない。 特に、やりがちな間違いは、性別を巡っての理解だ。 男と女は互いに「男らしさ」「女らしさ」を見て、 相手の人を一人として見ていない。 その弊害は、女の方がより多く被っている。 男は一人ひとりの力に沿って社会での地位が決まるのに、 女は、女らしくありさえすればいい、とされる。 女がこういう仕事もできる、というよう . . . 本文を読む

■自由の哲学14章04段落

2016年04月04日 | 『自由の哲学』
人はしかし、その「類」らしさから自由になる。 そもそも、人の「類」らしさは、 むしろ「類」としてしっかり生きることで、 人の自由を妨げるものではなくなる。 それが、意図的に強制したりしなくても、だ。 人は自分の中からの求めによってのみ、 自分の性質と働きを作り出す。 そこにあって、「類」らしさは、 人が自分の個性を表す土台としてあるだけだ。 人は自然から与えられる性質を元として、 その上で自 . . . 本文を読む

■自由の哲学14章03段落

2016年04月01日 | 『自由の哲学』
何かに帰属する人の一人ひとりは、 性質や働き方は母集団によって決まる。 民族はひとつの「類」であり、 その民族に帰属する人は、みんな その民族の性質を帯びる。 そのうちの一人の性質も働き方も、 民族の質で決まる。 だから、一人の立ち居振る舞いも、 どことなく、その民族らしさを帯びる。 その中の一人を取り上げて、 なぜこの人はこうなんだろう、と考え、 その元を探れば、答えは、 その人一人じ . . . 本文を読む