『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

哲学とお近づきになれる方法

2020年01月27日 | 『自由の哲学』
哲学って、難しい。
高校生の頃、世の真理とかが書いてありそうで、
憧れて哲学書を手に取ってみたけど、
日本語で書いてあるのに
何一つ意味がわからなくて、ビックリした。

それからン十年。
ちょっとずつわかってきた。
哲学が難しいのは、抽象的だからだ。
万人に共通する考えの結晶だから、
抽象的にならざるを得ないのだ。

だから、テツガクする時には、
一人ずつが自分の現場に照らし合わせて
具体的なことを思い浮かべながら読むと、
どの人にも「ああ、あのことか、なるほど」
と当てはまる…はず。

まぁ、例えて言うなれば、
コンソメのキューブがテツガクで、
それを自分でお湯に溶かして飲んだ時点で、
「ああ、おいしいスープだなぁ」って初めてわかる。
そんな感じかな。

抽象と具体を行き来しながら、
身体を動かして、自分に取り入れて味わってみる作業が不可欠。
哲学の言葉と自分の日常を行き来しながら、
自分の日常を支配する法則を、言葉として掴む。

それが言語化できたら、
そこから自由になっていく可能性が出てくる。

「それって、例えば何のこと?」って
自分の日常と結び付ければつけるほど、
その結晶がホカホカのおいしいスープになって
自分の栄養になります。

じゃあ例題。
下記に書いてあることを
自分にあてはめて味わってみましょう。
3人の訳でお届けしますので、好きな人の訳でどうぞ。

▽高橋巌訳
すべての学問は、もしそれが
人格の存在価値を高めるために努力するのでなければ、
無用な好奇心の満足に役立つものでしかないであろう。

▽鈴木一博訳
およそ知識は、
なまくらな好奇心を満ちたらせるだけであろう、
もしも人のパーソナリティのあるの値を高めることが
目指されていなかったならばである。

▽森章吾訳
人間人格の存在意義を高貴化を志向しないいかなる学問も、
無意味な好奇心の満足にすぎない。


どうどう?

たとえば私にあてはめたら、そうだなぁ…、
「ブラームスって、師匠の奥さんの
クララ・シューマンが大好きだったらしいよ」。
という知識があったとして、
それで盛り上がるだけなら、好奇心でしかない。

だけど、ブラームスの曲を弾く時に、
そのせつなさを実感しながらどう表現しようと考えたり、
友人が悩ましい恋をしてる時に、その気持ちに深く寄り添ったり、
一緒に暮らす夫への感謝を新たにして伝えてみたり、
…自分の現場に生かした時点で、意味がある知識に変わる。

「ニュースで台風の被害大きかったって言うてたね」
って人にしゃべるだけなら、
ナマクラな「同情するやさしい自分」が満足するだけだけど、
実際に何かを送ったり、自分の町の防災計画を確認したり…。

知識を自分の現場に落とし込んで確かめつつ、
その知識によって、自分が前より成長するなら、
その知識は自分にとって意味がある。

って、ハードル高っ!!

今、すでに持ってる知識を生かそうとするだけで、
一生じゃ足りないわ。
頭に入れただけの知識がどれだけいっぱいあるか。

新たに知識なんか入れてる場合じゃないのに、
情報として、毎日アホほど入ってくあるアレらを
一時期、ずいぶんシャットアウトしていたから、
世の中の動きにうとくなった。

とは言え、別に問題ないとこで生きてる(^^)。

今ある知識を深めていくことは、
新たに情報を入れることより、
私の成長にとって、意味がある課題です。


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