『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

色づく葉っぱがセンセイ

2019年12月08日 | 『自由の哲学』


自由の哲学に一元論と二元論についての話があります。
たしか、
「二元論でとらえてる限り、いつまでも自由になられへんで~」
というようなことが。
ずっと前に読んだことを、今日、散歩中にふと思い出しました。

昔から、おしゃれすぎる人は苦手でした。
なんとなく、気後れするというか、
興味の対象があの人と私じゃ違うだろうな、
って決めつけて。

でもそれは二元論的に見ていたから。

オシャレに無頓着な人、
例えば学者さんなどで外見に気が回らない人も多いのは、
専門的なことに集中した結果、だと思います。

それと同じように、
オシャレな人は、オシャレに集中した結果、
他のことはどーでもいいと思っているに違いない
と、私の方が偏見に満ちていたから。

ファッションに興味のある人は
ファッションにしか興味がないのだと決めつけていたのです。
社会的な興味のあるきれいな人も、
とても仕事能力の高い、おしゃれな人が、
周りにいっぱいいるのに。

おまえの目はフシ穴か!
ああ、ごめんなさい。

だけど散歩していて思った。
山がきれいなのだ!
葉っぱが色づいているのだ!
黄色が鮮やかで赤が輝いて光が差し込んで
緑のコントラストが素晴らしいのだ!

「美しい」ってなんて素晴らしいことなんだぁぁぁ!!!!

おしゃれな人はおしゃれだけをしているのではなく、
おしゃれもして暮らしも楽しんでいる人もいるし、
おしゃれもして仕事もがんばっている人もいるし、
おしゃれもして地域をリードしている人もいるし…。
なんて偏狭なワシ…。反省。

二元論だと「オシャレな人」VS「私」だけど、
一元論的に見ると「私たち」。

私たちは誰でも、
自分の関心のある所を深めていけばいいんだ、
オシャレであろうがなかろうが、
その人であれば、その姿自体が美しいんだ、
ってことかな。

山の木々たちが、秋の深まりにつれ、日々、
「あんた偏見持ちすぎやで。ワシらもキレイやろ?
別にエゴでキレイにしてるんちゃうで。
ワシらはワシらのすることしてるだけやで?」と教えてくれたことで、
人の美しさも違って見えるようになってきたのかもしれません。

「我々は自然を通してのみ神を認識する」
と、ゲーテ大先生もおっしゃっているようですし。
偏見を脱ぐっていうことは、一歩自由になることです。

ともあれ自然のみなさん。
今後とも、いろいろ教えてくださいませ~。

いや、いつでも教えてくれてるのに、
私が見てないだけなんだよね。

ゴメン!


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