『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

■自由の哲学15章4段落_1

2016年10月03日 | 『自由の哲学』


同じく、一元論の主張するところからして、
私たちの行為の無期先も、
人をどこかよそに置いた世界を指針にする
ようなことはできない。

私たちの行為の目的は、考えられた目的である限り、
きっと悟りからkている。

人は自分では見通せない神や造物主の目的を
自分の目的にすることではんく、
自分の目的であり、自分の理想から来る目的を
追い求める。

人は行為することで自分のものになる考えを、
その人自身が考えた中から取り出し、
その人の目的にする。

人の行為において生きるのは、
すなわち、誰かがあちこちに作った掟ではなくて、
この世の中で生きている一人ひとりの人の中にある悟りだ。

一元論は、私たちの行為に、
私たちの外からの目標を示すような導師を設定しない。
人は行為の方向を決めるのに、
「私はどうしたらいいでしょうか」とお伺いを立てるような、
あちらの世界の神を必要としない。

人は、その人自身が頼りだ。
人の行為に内容を与えるのは、その人自身だ。
人はその人の目標を、あちらの世界に求めても、
探り当てられないだろう。


3段落までは、覚えとかなえるを重ねることで知る
という認識の問題についての論。
4段落からは、どう行為したらいいのか、という
行為についての論です。

この辺り、わりとわかりやすく、
くどいほど繰り返して書いてあるので、説明は要らないかな。

人が苦しんでいるのは、
目的を外から押しつけられるからだ、というのは、
すごく皮膚感覚で納得できます。

会社の目標とか、勉強の目標とか、
いろいろと押しつけられる中で、いかに自分の目標に向かうか。
そういう問題がいっぱいあります。

目標は、すでに自分の中にあるのだけれど、
日々の中で、そういうものがあることすら
見ないようになってしまいます。
だって、見たら矛盾に苦しむもの。

人の立てた目標は、いくら達成しても、
どこか他人事です。
達成しようがどうしようが、知ったこっちゃないです。
だから、給料とか、処遇とかがエサになります。

一方、自分の中にある目標を見て、それに向かっている時は、
誰が見てくれていても、見てくれていなくても、
どんなに人がばかばかしいと思っても、思わなくても、
そこに揺さぶられることはありません。

だって、自分がわかってるんだから。
その行為に意味があることを、自分が知っているから。

生きることに不安になって、
「神の求めるように自分を使おう」
なんて殊勝な考えを起こしたとしても、
それが、不安に基づいてすがっただけなら、
「何のためにこんなことしてるんだろう」と、
ちょっとしんどくなった時には迷いが沸き起こるだろう。

同じことでも、本当に自分の考えで
「神の求めるように自分を使おう」と思えたら、
そこに、自分の行為の意味が見つかる。
迷いはない。

その感覚は、わりと使える。
自分の目的として行為しているかどうかの
リトマス紙として、使える。

って考えると、
ピンチの時とか、迷いのある時に、
それに取り組むことで、ステップアップする
ってのは、真理だね。

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