今年もまた
炉の灰をつくりました
灰を初めて作った頃
まともな灰を育てるには
10年かかると言われ
ずいぶん先のことと
思っていましたのに
あっという間に
その10年が過ぎても
まだまだ
満足のいく灰はできません
庭で一人黙々と灰をふるいながら
なぜ私は茶道を続けているのだろうと
ふと思いました
茶道が好きかと聞かれたら
別に嫌いではないけれど
好きで好きでたまらないのかどうかは
よくわかりません
最近では
今茶道をやめてしまったら
ずいぶん楽になるだろうなあ
などと思う時さえあります
でも一方では
私はきっと
特別な事が無い限り
一生茶の道から離れることはないだろうと
感じている自分がいます
ある意味
お茶を続けることは
「運命」かもしれないと
それにしても
私が茶道を続けることに
どんな意味があるのでしょう・・・
自分自身の修練
それもあるかもしれないけれど
あらためてそのことを考えてみますと
なんだかそれだけでは無いような気がします
一言で言えば
茶道という伝統をつなげてゆく
縄の一つの結び目
茶道の歴史をおおざっぱにたどると
武家 公家 禅僧 江戸時代の商人
そして
明治以降の経済人によって
茶の湯は現代まで伝えられています
もちろんそこに
千利休始め各流派の家元と言われる人たちの
存在は欠かせません
戦後においては
茶道の持つ「礼儀作法」という側面が強調され
学校教育 特に女子の教育に役立てられるようになり
家元や宗匠を中心に
教養としての茶道という世界が作り上げられました
こういう歴史の中で
茶道には
ある種の権威主義や特権意識 排他的要素が
必然的に含まれていることは否定できません
それでも
昨今の「和ブーム」やら
はやりの「お・も・て・な・し」
などの風潮にあおられて
茶道が
ごく一般的な身近な世界になってきているのも事実です
そういった中に
私が茶道を続ける意味が
隠されているような気がするのです
お家元や宗匠
また
格式ある茶会を開くだけの見識のある茶人
そのような方々には
そのお立場に見合った使命がおありでしょう
私とそういう方々とは
お茶会などを通して
時折接点をいただく機会はあっても
立っている場所はまったく異なります
しかしながら
私が求めているのは
底の浅い世俗のお茶ではない
きちんと伝統にのっとった
精神性のあるお茶の世界です
そのようなお茶の世界を
限られた一部の人だけでなく
広く一般の人々にお伝えしながら
自分自身も追求し共に楽しみたい
少しおおげさに言えば
これまでの歴史にはなかった
平成時代以降の
新しい茶道史の一ページを画いてゆく
担い手の一人となって・・・
あらまあ!
黙々と灰をふるっているうちに
妄想が少々膨らみすぎたようです
あと十年先 灰も私も
もう少し上等になっていたら
いいのですが・・・