浮遊脳内

思い付きを書いて見ます

パプリカに感動した。

2010-10-05 20:04:35 | Weblog
 評論が作品として完結するには、評論の骨子となる普遍的かつ共有可能な思想を評者が持ち、対象へのより大きな気づき、アウェイネスをもたらし広げること、さらにそれら全体が優れた記述の技術によって読者におのずから読まれること、
 という示唆をTL上で見て、非常に面白かったのでチャレンジしてみたら、何一つできなかったというオチw
 だからこれは感想文w
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パプリカ 永久の夢

 明晰夢というものがある。
 それを見られる友人によると、本当に自在に物事を引き起こせ、作り出せるのだという。巻き戻して繰り返し見ることもできるし、途中から改変して進めるのだと。そしてにやり笑って言う。何でもできるよ、と。
 今 敏監督は、パプリカという夢を示すために、何度この夢を繰り返し見たのだろう。アニメーション映画には、途方も無い行程があるという。モチーフから作り出された原型を解体し、細分化し分配しゆだね、それを修正し統合し再構成するという、眠りとはほど遠い過程を経たことだろう。
 そうして出来上がってきただろうこの映画は、まさしく夢そのものを見るものに示す。
 夢を見せ、夢に感じる漠然とした不安を共にさせ、開放される自己を感じさせ、そして自分に再統合させ、再び日常へと押し戻す。このパプリカという夢には、今 敏監督のちょっとしたプレゼントがこめられている。
 眠りの夢幻の夢と、めざめている人生の中で思い巡らせ希望する夢想としての夢との間には、奇妙な交錯がある。夢見るものが、果たすべく果たせば、それは互いに侵食しあい、時には入れ替わるのだと。
 物語の扉を開くのはDCミニという装置だ。それは人の脳に働きかけ、セラピーの助けとなるものだ。サイコセラピスト千葉敦子は、セラピーではパプリカを名乗り、高い技術をもってセラピーを行っていた。
 だがDCミニが盗み出され、開発途上ゆえの欠点を突かれ、悪夢共有装置のように悪用されてゆく。理事長は夢に介入する装置の可能性ゆえに開発中止を求め、敦子らは装置の可能性ゆえに取り戻そうとする。その追跡は夢と現実の奇妙に交錯する世界へ踏み込んでゆく。
 この作品は、奔放な映像イメージで、いかにも夢をテーマとしているように見える。だが、夢はメッセージへの手段に過ぎない。
 美しい作画と美術、レイアウト、そのうえで見せられるのは、サイコセラピストであるパプリカ/敦子の駆使する心理的なやり取りだ。パプリカは主観と客観の意図的に入れ替え、自身のイメージを奔放に変えながら、夢の世界で追跡を繰り広げる。言葉によって相手の意識を呼び込み、それに新たな解釈を与えて新しい状況を生み出すやりとりは、「戦い」と言っていいものだ。だがそれは戦いであって、戦いではない。サイコセラピストにとってセラピーが手段であり、目的は治療であるがごとく、そこで行われることは、パプリカの手段に過ぎない。
 すべての登場人物が、作品のメッセージに対して明確な立ち位置を持ち、キャラクターとしては惑い迷い求めているが、物語の中で役割を果たしている。声優陣はその夢想と現実、時系列によって変容してゆく内面を、巧みに表現している。
 パプリカのなかで、幼児性というモチーフが繰り返し示される。それは夢の中で、しだいに大きく、膨れ上がってゆく。物語の初めの頃から奇妙なパレードは始まり、夢と現実の交錯する世界の中で巨大な饗宴となる。そしてそれはDCミニを盗み出した犯人によって、確信的に誘導され、その幼稚な欲望としての夢のためのエネルギーとされてゆく。
 交錯するのは、果たされなかった青春の夢想としての夢だ。
 自身の夢は何なのかと問われるのが青年であり、それを実現しようともがくのが青年だ。その夢想の夢を、希望としての夢へ換え、実現しようとする変容を成長というのならば、この作品の中で大人たちは成長を再体験してゆく。
 そうして、大人の目からもう一度、夢を夢想から希望へと変容させ、成長を経たキャラクターたちは、また確信をもって歩みだしてゆく。一人見る夢が、かなえようとする夢想へ成長し、最初に見た夢の感動をあらわすには、どれほどの力が要るのだろう。
 パプリカはまさに自在に変転する夢の形だが、夢と違って見るもの自身がつむぎだしているわけではない。だから夢として見せたい何かを見るものに伝えるには、見せている絵、そのもの作りから見せてゆくしかない。その夢の器は知恵の限りと、技の限りを尽くしたものにならざるを得ない。
 それが成し遂げられたとき、夢想に過ぎなかった夢は、皆の胸に普遍的に生きる、希望としての夢の雛形になりえるのだろう。
 パプリカは大人の視聴に耐えるアニメーションである以上に、大人こそが見るべき映画だ。大人の人の一人一人の目に耐え、伝えるべきことを一人一人の胸に普遍化しようとした偉大な挑戦に思える。その挑戦は、この映画が見られるたびに行われ続ける。彼は作品を通して、永久に示している。
 大人に、夢を見、歩き続けるようにと。
 今 敏監督は、もう先に行ってしまったけれど。

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