じぶんの足でたつ、それが教養なんだ

「われこそは」と力まないで、じぶんの歩調でのんびりゆったり歩くのがちょうどいい。

読めない「社説」

2005-04-10 | 論評(comment)
 またぞろ新聞社同士の「社説」論争が展開されています。傍目(はため)から見るのも一興だね、などといってはおれない鈍(おぞま)しさがそこに表れている。中学校教科書の検定=検閲結果の発表をうけて、朝日が扶桑社版の歴史・公民教科書を「こんな教科書でいいのか」(6日)といえば、「驚かされた朝日新聞社説」(7日)と産経が応じて、さらに愚かしい「社説」の垂れ流しは続いています。たがいに気心は知れているくせに、だ。
 昨年だったか「君が代」斉唱をめぐって朝日と読売がしのぎを削ったことがあります。これらの批判(非難)合戦をおもしろおかしく喜ぶ読者もいるだろうが、読む前にうんざりさせられる読者もいる。さしずめ、わたしは「うんざり派」だ。そこになにか卓見や高見を期待しているから「うんざり」するのではない。そんな高望みはしない人間ですから。
 気まぐれな一読者からすれば、両社はまるで五十歩百歩で、混雑した電車の中で「足を踏んだ」「踏まれた」といい大人が、朝っぱらから大騒ぎしている図ですな。みっともない。もっと書くことが、訴えることがあるんじゃないですか。それともたがいに沽券(こけん)に関わるとでもいうのかしら。体面を繕(つくろ)って「社説」を書くなんて、それこそがつまらない了見ですね。 
 紙面ばっかり増えて、その分「編集協力費」をもらった記事じゃないのと思えるようなふぬけ記事を読まされる身になってもらたいといえば、なんか新聞に期待しているように誤解されそうです。
 どちらの味方をするのでもない。すべからく新聞は紙面にエネルギー(心血)を注いでもらいたいと願うばかりです。自分と意見や見解がちがっても、なるほどこんな見方もできるのだと思わされることをいつでも望んで、なけなしの財布から購読料を捻出している読者もいるということ。
 どこに顔を向けて「社説」を書いてるんですか。