じぶんの足でたつ、それが教養なんだ

「われこそは」と力まないで、じぶんの歩調でのんびりゆったり歩くのがちょうどいい。

事件の「原因と責任」

2006-02-18 | 論評(comment)
 神戸の中学生の事件で私が一番反発を覚えたのは、心理学者とか、社会学者とか、教育学者とか言われる人たちです。あのような事件があったときに、必ずコメントする人たちがいます。彼らはいろいろと事件の原因について語るわけですが、その場合しばしば親の責任に帰結するような言い方をする。彼らは客観的に「原因」を追求しているのですが、それがいつも「責任」と混同されるような言い方で語ってしまうわけです。(中略)
 …たとえば、この事件に関してすぐに本を出した医者がいて、その人は以前に『母原病』というような本を書いた人ですが、最低の学者だと思います。現代日本人の精神の病は母親に原因があるというのです。すなわち、母親の責任ということになるわけですが、そのような本を読んだ人は皆ノイローゼになりますよ。自分が間違っているんじゃないかと思うでしょう。たとえば神戸の場合は母親が厳しかったことが原因とされた。普通は逆で、母親が甘やかしたからと言われるケースが多い。では、どうすればよいのか。(柄谷行人『倫理21』平凡社)
 ここに教育学者が出てきたから、いうのではありません。柄谷さんの指摘が当たっていると思ったから、引用したのです。現実の「教育」はひどいことになっているけど、「本来、教育とはこうあるべきなんだ」という人たちがたくさんおられます。そのようにいうけれど、それは現状とはまったく無関係です。なぜなら、自分の中ではそもそも問題なんかないのですから。現実の状況がどんなにひどかろうと、自分の高邁(空虚)な理屈を述べたかっただけという話です。目を背けたくなるような凶悪な事件がどれだけ発生しようと、自分の「堅固な教育論」は微動だにしないというわけです。天変地異などどこ吹く風、でもあります。
 教育とはこうあるべきだ、本当の教育はこうなんだ、と。そんなの教育じゃないよ、とも。でも実際にそうなっていないのが現実であって、そうなっていない原因(責任とか理由じゃありません)、それはどこにあるのか。それを探りあぐねて、母親のしつけが問題だといってすましてしまう。家庭に問題があったんだから。まことにお気楽というほかありません。
 柄谷さんはつづけていわれます。
 《…このような事件が起こったときに、その原因を追及すると、親、学校、環境、現代社会―といったものに遡及することになります。その結果、そのような行動をした者の責任が問われなくなる。そうすると急に怒り出す人がいます。原因がどうであれ、その人間に責任があるではないか、と。その結果、諸原因の解明が忘れられてしまう。しかし、原因を問うことと、責任を問うこととは別のことだと考えるべきです。原因は徹底的に追求すべきである。しかし、それは当事者の責任の問題とは区別すべきです。(同上)
 少年犯罪、児童虐待、不登校、いじめ、自殺、子殺し。数えあげればきりがない、不幸きわまりない事件や問題がわたしたちの眼前で噴出しています。ある事件の経過を調べていって、ついに(原因ではなくて)責任のありか(所在)を突きつめたと錯覚する。この子がこんな事件を起こしたのは親のしつけに問題があったからだ。あの子があんなことをしでかしたのは家庭環境に問題があったからだ。いかようにも理屈はつけられますが、起こった事件の痛ましさは関心の外に放り出される。事件の「応接にいとまなし」という不感症です。
 滋賀県長浜市で二人の幼稚園児が同じ幼稚園に通っている園児の母親に刺殺されるという事件が発生しました。事件の原因や背景についてさまざまな情報が飛びかいはじめています。どんな出来事にも発生する原因があったにちがいない。それは、はたして?(裸のサル)