じぶんの足でたつ、それが教養なんだ

「われこそは」と力まないで、じぶんの歩調でのんびりゆったり歩くのがちょうどいい。

無力な教育者ほど罰を使う

2006-04-15 | 論評(comment)
 斉藤喜博という教師がいました。1911(明治44年)3月に群馬県佐波郡に生まれ、1930(昭和5年)3月群馬師範学校を卒業。ただちに玉村小学校に教師として赴任しました。19歳のことでした。彼の『教育愛』という著書は1941年6月に出版されています。(時代に留意してほしい)その冒頭に「私の組の教育」というタイトルで、いわば、斉藤さんの教育原理が述べられています。教師生活11年を経過した時点でまとめられたものですが、そこには生涯にわたって貫かれる斎藤さんの信条というほかない姿勢が認められます。
1劣生がいない:私は劣生がいない教室、劣生などがいなくなるような教育、ということをいつも念願しているものであり、また事実劣生などというものはいないものであり、またいなくなるものであるということを信じているものであるが、そういう私の考え方の基調をなすものは「知能優秀者のみが人間価値の大なるものではない」ということである。
2競争を認めない:競争などということを意識しないで、そんなことを考えないで、おのおのが全力をつくしておのおのの任務を楽しみ、また人も楽しませ、人のためにつくすことを喜ぶという生活を教えてやりたい。おのおのが自覚してみずから楽しみ励み、人にも楽しみ励む生活を教えることのできる子どもをつくりたい。
3自己完成:まいた種子は漸次に成長して伸びていく。この種子が伸びて一本の草花となるというには、園丁の限りない心づくしによるものであることはいうまでもないが、いかに園丁が特別な技量を持っており、いかに一生けんめに働いたとしても、生命のないものを育てていくことはできない。…われわれのあずかる児童は、みなこの尊い力を持った種子である。われわれはそれを彼らに自覚させ、彼らがみずからの成長を楽しみ、喜んで生きていくように育てるのである。子どもが喜び勇んで自分を成長させ、自分たちを一日一日と完成させていこうとして、けんめいに努力するように導くのである。
4心を育てる:世のなかには形の訓練をしっかりすれば、精神は必然的によくなると考えるものがあるのであるが、そういう教育は例外なくうその教育である。…猿や犬を訓練するように、形だけ子どもをしつけ訓練することはたやすいことである。けれどもほんとうの子どもは、そういう教育ではできない。ほんとうの教育はしずかなところで、人の見ないところで、地道に落ちついて、念々子どもの心を育て、子どもの心をたがやし、子どもの心を高める教育である。
◇雨の音:教室の前にある松の葉に降る雨の音が聞こえるようなよい教室にならなければだめだ。そういうふうに教室が済んでこなくては、まだこの教室はほんとうではない。ほんとうによくなっていないのである。
 そういう教室のなかで、しみじみと子どもたちの話を聞いたり、また子どもたちの心の琴線に触れ、子どもたちの心の琴線を楽しくふるわせるような話をしてやることのできる教師の生活こそ、こよなく楽しくありがたい。それこそ子どもと教師がひたむきに励む法悦境であり、教室の前にある松の葉に降る雨の音が聞こえる教室である。
◇賞罰:賞はつねに一部の子どもの優越感を増し、大ぜいの子どもの向上心をつんでしまう。無力な教育者ほど罰を使うものである。罰せられる子どもより、賞せられる子どもの方が、どれだけ、うそをやっているかわからない。
 金輪際、教育にふれてほしくない輩たちが汚れたお手々で学校教育や人間の心をいじくり回してきたのがこの国でした。そんなやからに尻尾を振る輩の上手を行く有象無象も増殖する。そして、彼ら・彼女らはまたぞろ「おまえら、国を愛せよ」「教員どもの発言などは認めぬ」というおぞましい繰り言をがなり立てる。唾棄すべき風潮です。(無惨)