じぶんの足でたつ、それが教養なんだ

「われこそは」と力まないで、じぶんの歩調でのんびりゆったり歩くのがちょうどいい。

椅子ではなく、人にこそ

2007-03-03 | 随想(essay)
 もう一度、小砂丘忠義に戻ります。彼は教師になった当初から教育雑誌を作ります。その面では大きな才能をもっていたといえる。「極北」もその一つです。そこに彼は「校長論」を展開します。大正10年頃のことでした。その要点は以下のとおりです。
 「所詮は校長その人に眼ざめて貰いたいのだ。そして今少し教育精神を根強いところから樹立してかかってほしい。師範学校を卒業する迄にお習いした人の道なるものは私にとってはこの上ないあやかしいものだった。そして私は一切合切根本からそれを放り捨ててしまった。そしてそれからこの『極北』が生まれ、これから他に何かが生まれる筈である」 「平素部下にはよいが一度その筋との交渉に及べばグニャリとめげこむ校長もある。自己吹聴のために部下並びに生徒を見せ物扱いする校長もある。きついことも言わぬが、いざと言う段取りになって鎌の切れぬ校長もある。わけはわからずとも其の地方の重鎮とて無闇に何のかのと勿体をつけて議論する校長もある。
 何れ挙げ来れば無数の種類があるだろう。小砂丘式に一括すれば、みんな何かにあやつられている人形である。自己ない自己である」
あやつられ人形はいたるところにいます。だから校長もそうであっていいのだとはいわない。じゃあ、どうするか。小砂丘さんは校長職に期待したのではなかった。ひとりの人間に期待したのだ。それにしても「自己のない自己」がのさばる(というのも変な表現だが)という風潮に今昔のちがいはなさそうです。