おが の 冗談本気

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第369話 「私のバンド・ヒストリー日記、第2部その1」

2006年06月19日 22時00分01秒 | Weblog
昨日W杯で日本VSクロアチアでしたね。0-0の引き分けですか・・。
もう後が無いと言われる日本代表。次のブラジル戦は頑張ってほしいですね。
そんな訳でまたまた私のバンド・ヒストリー第2部を書いてみようと思います。

パンクバンドを辞め、私のバンド活動は終了したかにみえた。
この頃は当時付き合ってた彼女との結婚話が盛り上がっており
私はバイト生活に終止符を打ち就職した。
しかし仕事は残業が多く少しづつ彼女と会う時間は少なくなってきた。
結局、私は彼女の気持ちを分かってやる事が出来ずに3年間の交際は終了した。

彼女と別れて初めてそのときの彼女の大切さを知った。
この頃の私は精神的にボロボロになっていた。
食事も喉を通らず睡眠も取れない日々。当然まともに仕事は出来なかった。
この頃に仕事をコロコロ変えた。自分が何をやったらいいのかが
さっぱり分からなかった。親友の荒川氏にはこの頃、精神的に助けてもらった。
私の色んな話を文句も言わずに聞いてくれた。


そして数年が早々と去っていき、私は何をしたら良いのか色々考えた。
色々考えた答えが・・・バンドだった。
もうバンドをやる事は無いだろうと思ってたのだが
この状況を打破するにはバンドしかないと思った。
この頃の私は音楽はあまり聴いてない状態だった。
聴いていたのはBLANKEY JET CITYとU2くらいだと思う。
ニルヴァーナ旋風が吹き荒れグランジ・ムーブメントが来たときも
私はほぼスルーしていた。

とりあえず現在の音楽状況を把握しなきゃ・・と思い色んな音楽雑誌を購入した。
そしてこの頃に私が好きになったバンドはプレイグスというバンドだった。
そこから少しづつ音楽を色々聴きあさるようになっていった。

メンバー募集が乗っている雑誌を買いあさった。そこでとある募集に目が止まり
連絡をとった。彼の名は亀村氏。ボーカル&ギターを担当していた。
早速、彼とスタジオに入った。そうするとどこかで見たような人が
ドラムを叩いていた。そう私が東京に出てきて初めてバンドを組んだときの
ドラマー浅見氏だった。凄い偶然だった。彼とは数年ぶりに再会した。

私はベースとして加入したのだがベースの基礎はほぼ皆無だった。
メチャメチャしごかれたのを憶えている。
しかしこの頃の私は精神的に参っていたため何を言われても平気だった。
ボロクソにベースプレイを批判されても平気だった。
まだ私は彼女との別れのときの傷は癒えてなかったのだ。

約半年、リハに時間を費やしライブ活動を始めた。
3ピース・バンドSUICIDE ALLEYというバンドだった。
オリジナルの曲をやっていたのだが正直あまり曲はいいバンドではなかった。
しかし私の精神的なリハビリの為にはちょど良いバンドだったのかもしれない。
新宿JAM、荻窪WATTSなどでライブをしていた。

リーダーの亀村氏がギターを一人増やすと言いだした。
そしてメンバー募集で一人ギタリストを連れてきた。
そのギタリストの名は本田氏。そう、その後の私の音楽性が変わる
キッカケを作ってくれた運命的な出会いであった。

しばらくは4人で活動していた。しかし本田氏が自分のバンドをやりたいと
脱退を申し出た。本田氏が脱退し新ギタリストを決める為に
色んな人とスタジオに入った。しかし中々決まらず、しばらくして
SUICIDE ALLEYは自然消滅した。

この頃の私は精神的にかなり回復していた。仕事も某メーカーのカラオケ機器
の営業をしていた。そして本田氏とは個人的に仲良くなっていたので
本田氏のバンドを下北沢屋根裏に観に行った。
本田氏のバンド、BRANKETSというバンドで女性ボーカル。
英詩でオルタナなバンドだった。私は凄い好きなバンドだった。
「客として応援するから」とライブを観に行ったりしていた。

しばらくして本田氏から1本のTELがきた。
「ウチのバンドでベース弾かないっすか?」この頃はバンド活動から離れていた
私だったがこの本田氏の一言がその後の私を大きく変える事となった・・。

また長い文章になりましたね・・(笑)つーことで続きは次回。

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