先ずはオペレッタ?
オペラから派生したジャンルにオペレッタがあります。イタリア語では小オペラを意味しOperetta
と綴り,ドイツ語圏ではOperetteと綴ります。
日本では帝国劇場に始まり浅草は六区にて人気を博しした、浅草オペラとして当時の娯楽の殿堂の様な存在
でした。
その浅草オペラで一番人気を博したのが、オッフェンバッハの「天国と地獄」でした。
1858年パリのブッフパリジャン座で初演され、以後228回上演の大ロングラン公演を重ねました。
日本では原題「地獄のオルフェオ」を「天国と地獄と」意訳し、「天国と地獄」題目で定着しています。
特に終幕で踊られるギャロップは今やパリの代名詞フレンチカンカンはあまりにも有名です。
(日本では運動会等でよく聞かれます)
オペレッタと言えばウイーン、ウイーンと言えばオペレッタと言われるようだが、ウイーンのオペレッタが人々に
浸透する前はむしろフランスのパリのオペレッタの方が流行の先端を走っていました。先頭にいたのがジャック
オッフェンバッハです。
オッフェンバッハは今やパリのモンマルトルの墓地に眠るが、ユダヤ系ドイツ人であったイザーク・エーブルストの
7番目の息子のヤコブとしてケルンに生まれ、バイオリン二ストの父から音楽の手ほどきを受けバイオリンよりも
チェロに興味を持ちチェリストの道を歩みます。やがてケルビー二の推薦でパリ音楽院に入学、作曲家としての道に
進みます。
当時パリのシャンゼリゼーにあるブッフ・パリジャン座において「楽しくなければオペラでは無い!」とばかりに
解かりやすい風刺の効いた軽いオペラを模索し、今日のオペレッタのスタイルを築き上げて生きます。
やがてオッフェンバッハは劇場経営に行き詰る中もっと人を集めようと、それまでの短編オペラから長編オペラに
切り替えます。
当時流行っていたグルックの「オルフェオとエウリディーチェ」に注目したオッフェンバッハはギリシャ悲劇を題材に
選び、それをパロデ化した作品、軽喜歌劇「地獄のオルフェオ」(日本題「天国と地獄」)を発表。たちまち人気となり
パリ中に噂が広まり初演以来連続228回公演の大ヒットロングラン公演となりました。このように風刺の効いたフランス
気質の軽喜歌劇のフランスオペレッタが世に現れました。
やがてこのフランスオペレッタはオーストリアはウイーンに渡り、ドイツ語圏オペレッタの礎となり、シュトラウスの
名喜歌劇「こうもり」やレハールの「メリーウィドウ」等はウイーンオペレッタ確立の原動力になっています。
さてこのようにドイツ語圏オペレッタに多大な影響を及ぼした作曲家オッフェンバッハは本名ヤコブ・エーブルスト
でしたが
パリで作曲活動をするにあたって父の故郷オッフェンバッハの街の名前を取り、ジャックオッフェンバッハと改名。
それゆえ、オッフェンバッハは芸名,又はペンネームでもあります。
またオッフェンバッハはパリ的エスプリ(スピリット)で満ちたオペラでもってドイツ人ながらパリを征服した人物で
正にキングオブフランスオペレッタ!(オフィス松山命名)の
称号に相応しい人物なのです。
ロッシーニは晩年オッフェンバッハのオペラ「天国と地獄」を観て
シャンゼリゼのモーツアルト!と絶賛!
今回川口シティオペラを考える会が第3回公演で取り上げるオペラはこのオペレッタ「天国と地獄」です。
そして第3回公演オペレッタ「天国と地獄」は川口総合文化センター開館20周記念参加公演でもあります。
オペレッタ「天国と地獄」
2011年3月20日(日)川口総合文化センター4階音楽ホール
市民参加合唱団も募集中です。
川口シテイオペラを考える会
第1回公演講談オペラ「フィガロの結婚
第2回公演フラメンコオペラ「カルメン」
そして第3回公演は
オペレッタ「天国と地獄」日本語上演