The Place

自分の言葉で、ゆっくり語ること

ジェリーフィッシュ

2009-11-29 18:31:53 | 日記
11月の冷気は、僕のジーンズの生地を通りぬけ、体の奥まで染み込んでこようとしていた。
雨こそ降っていないが、空気は湿り気を帯びて重たい。
日曜日のお昼時だというのに人通りはほとんど無く、信号待ちのタクシーも少ない。

僕は書類カバンを肩から提げて、駅から会社までの道のりを歩いているところだった。
平日にやり残した仕事をするためだ。
当初の予定では、生命保険会社が午後に家を訪ねてくるはずだった。
保険内容の変更について、僕と妻と保険会社の人の3人で、ゆっくり話し合いをする予定だったのだ。
だが、僕はそれを妻に任せることにした。
会社で働いている以上、個人的な用件を犠牲にすることは、ある程度仕方のないことなのだ。

会社に着く直前で、僕はふと、妻の友人がやっている喫茶店のことを思い出した。
あまりに寒かったせいで、温かいコーヒーが飲みたくなったのだ。
その喫茶店は駅の近くにあり、少し戻らなくてはならないが、どうしても飲みたい。
いつの間にか、僕の頭の中は、大きなカップに入ったカプチーノでいっぱいになっていた。
僕は喫茶店に向かって歩き出した。

その喫茶店は、今年の春に工事をやって、新装開店をしたばかりだった。
工事をする前の店には、薄いオレンジ色の壁に白いテーブルが並び、サボテンの鉢植えが窓辺に飾られていた。
メニューにはスパゲッティやドリア、ビーフカレーが並び、コーヒーはブレンドとカフェオレの2種類だけだった。
テーブルはいつも、家族連れやカップルや学生で埋まっていた。
つまり、どこにでもある平凡な店だったのだ。
昔の店の名前は、どうしても思い出せない。
きっと、名前まで平凡だったのだろう。

でも、今の店の名前はすぐに思い出せる。
僕は5月に一度だけ、新しくなった店に入ったことがある。
その時、店の入り口の上には、真っ黒な木の板に「自家焙煎珈琲 ジェリーフィッシュ」と彫りつけてあった。
カウンターの隅には小さな水槽が置いてあり、青白い蛍光灯に照らされた水の中を、クラゲが泳いでいた。
薄暗い店内と、青白く光る水の対比が印象的だったのを覚えている。
生まれ変わった店ではメニューが一新され、コーヒーは20種類もの銘柄に増えていた。
食べ物はガトーショコラとプレーンスコーンだけになり、どちらも店内で焼いているとのことだった。
要するに、工事の前後で、店の方向性ががらりと変わったのだ。

新装開店の経緯について、妻はどこからか情報を仕入れてきた。
彼女が誰かから聞いたところによると、友人が最初の店を始める時、彼は親戚から出資を受けていたとのことだ。
その出資者は、店の方向性を変えることに強く反対していたが、友人はそれを押し切って工事を始めさせ、新しい店を作ったのだという。
友人と出資者の関係が現在どのようになっているのかという点については、彼女も知らないようだった。

そこまで考えたところで、ちょうど僕は店の前に着いた。
小さなステンドグラスのついたドアを開けて中に入ると、店主はカウンターの奥で洗い物をしているところだった。
「いらっしゃいませ。あら、どうも。」
「どうも。寒いですね。」
マフラーを外しながら、僕はカウンター席に腰掛けた。
「今日はお一人ですか?」と店主。
「ええ、これから会社に行くんです。急な仕事が入ってしまってね。」
僕はメニューを見て、マンデリンとガトーショコラを注文した。
コーヒーが出てくるまでの間、僕は店内に流れているピアノトリオを聴いていた。
確か、前に来た時もピアノ曲が流れていた気がする。
カウンターは大きな無垢の一枚板で、木目が美しい。
抑えられた照明の光を、木目の上のニスが静かに反射している。

「お待たせしました、どうぞ。」
「いただきます。」
白いシンプルなカップにたっぷりと注がれたコーヒーの表面からは、細い湯気が立ち上っている。
一口飲むと、深入り豆の香りで肺の隅々までいっぱいになった。
「いや、ここのコーヒーはおいしいですね。」
「ありがとうございます。」
「前の店のときよりも、かなりおいしくなった気がするな。雰囲気もいいし。」
「・・・そうですか。」

僕はそのときの店主の返答に何かひっかかるものを感じた。
僕は今、開けてはいけないドアの取っ手に手を掛けてしまっているのだ。
そのドアの向こうには、きっと長い廊下が続いている気がする。
日が暮れるまでに帰って来れないかもしれない。

僕はそのドアノブからそっと手を離すために、自分の仕事の話を切り出した。
不景気でうちの会社も大変でね、でも今の仕事は結構気に入っているし、辛抱して頑張るしかないですね、なんていう話だ。
カップのコーヒーは半分にまで減っている。ガトーショコラはまだあらかた残っているが、さっさと食べて出てしまおう。
早く会社に行かなくては。
でも、こういう時は、たいてい上手くいかないよ、経験的に言ってね、とクラゲがささやく。

「お水をお注ぎします。」
「あ、どうも。」
「今の仕事を気に行ってらっしゃるということ、いいですね。」
「ええ、まあ。」
「私も、今のような店がやりたくて、改装したわけなんです。」
「そうですか。じゃあ、よかったですね。」
「それがね・・・」
と、長い廊下が目の前に口を開けた。

店主は、カウンターの上に目をやりながら、独り言のようにこう言った。
「私はね、ずっとこういう店をやりたかったんです。メニューから音楽から内装まで全部自分の好きな通りに考えて、作りたかった。前の店は、それなりに繁盛してたけど、どうしても自分の理想と違った。だから、店を新しくしてすぐの頃は、嬉しかったですよ。やった!俺は自分の夢を実現した!ってね。だけど・・・何て言うのかな、最近、漠然と思うんです。このままやっていける気がしないってね。いや、この店を続けることに関して、特に目に見える障害があるわけではありません。でも、将来もこれを続けているというイメージがどうしても持てない。不思議なもんです。あんなにやりたかったのにね。」

僕は、店主の考えていることをなるべく理解しようとした。
それは同情からでは無い。
理解し、慰め、励ますことで、早く解放されたかったからだ。
僕は少し焦っていた。
そして、考えがまとまらないうちに、ひとつの話をすることにした。

「それって、そんなに不思議なことですかね?よくある話だと思いますよ。」
「え?どういうことですか?」店主が聞き返してきた。

僕は、残り少なくなったカップのコーヒーを眺めながら、こう言った。
「『ミッシェル・ガン・エレファント』っていうバンドを知っていますか」
「いや、知りませんが・・・」と店主。
「4人組のロック・バンドです。ガレージ・パンクともいうのかな。とにかく、熱狂的なファンに支持されていた伝説的なバンドです。僕は大学生の頃、ミッシェル・ガン・エレファントを知って、大好きになりました。いや、正確には、僕がミッシェルを知ったのは、高校生の時です。高校生の時に先輩からCDを借りて、何曲か聴いたんです。でも、高校生の頃は、特に好きにはならなかった。心に響かなかったんです。」
店主は無言でうなずく。
僕はコーヒーの最後の一口を飲んでから、続きを話した。
「それが、大学生になってしばらくしてから、なぜかもう一度聴きたくなって、レンタル・ショップにCDを借りに行ったんです。そこから、どんどんはまり込んで、アルバムを全部そろえ、ライブにも行くようになりました。一度なんて、テストをすっぽかしてライブを聴きに行ったこともありましたね。」
店主は、僕がなぜこんな話を始めたのか、訳が分からない、というような顔をしていた。
それにはかまわず、僕は話を続けた。
「でも、今では、ほとんどミッシェルを聴くことはありません。仕事を始めた頃から、段々聴かなくなりました。最近よく聴くのは、主にジャズです。特に好きなのは、ピアノトリオ。ビル・エヴァンスとか、エスビョルン・スヴェンソン・トリオとかね。あとは、今流れているような曲も好きです。それにしても、まったく、ミッシェル・ガン・エレファントとビル・エヴァンスの間に、どんな接点があるというのでしょう?でも、結局は、そういうことなんです。」

空になったカップが、カウンターの上で居心地悪そうに佇んでいた。
店主は、「それで?」と言いたげな顔を僕の方に向けている。
「それで、今のお話と、私の店の改装の話と、どういう関係があるんですか?申し訳ありませんが、よく理解できなかったもので・・・」
「そう言われると、うまく説明できないのですが、でも、とにかく、今では僕はミッシェルをほとんど聴かないということです。あんなに大好きだったのにね。」
店主は、半分くらいは納得したけど、いまいち腑に落ちないというような顔つきをしている。
でも、それにかまっている暇は、今日の僕には無いのだ。
「あ、もうこんな時間だ。会社に行かなくちゃ。コーヒーうまかったです。ごちそうさま。」

喫茶店の外に出ると、空気はまだ冷たいままだった。
僕は、マフラーをしっかりと巻き直し、会社までの道のりを歩いた。

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