公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

神田区地図

2015-12-10 19:21:00 | 日記

東京が35区あった頃の昭和十六年神田区地図(復刻版)を見ると思わぬ発見をする。この図のように東京は麹町区から時計回りに螺旋状に等級が付いていた。パリと同じである。神田区は皇居のある麹町区に次いで重要な区だった。

 
 
煙突の印の銭湯が多い。紀陽銀行は変わらずにあるのは奇跡かも。もうすっかり忘れられてしまったが、神田区の神保町や小川町は映画館の街だった。前に読んだ岡本綺堂の昔話にも本郷区の春木座、こちらは芝居、少し出てきてたなあと思い出す。


南明座
大都館
日活館
東洋キネマ
銀映座


東洋キネマは内田百(けん)『百鬼園日記帖』にも登場し、当時は有名で目立ったデザインの外観だったらしい。閉館後も様々に利用されながらもやがて放置されて、地上げ事件の舞台になってゆく。その時点ではただの物件、時代の変容は90年代に烈しさを増してゆく。金銭より地縁の勝っていた昭和の世代が去ると、旧神田区界隈も歯抜けになる。今はもうこのあたりに映画館は1館も無い。いや一館だけある。南明座のあったたたりはサイゼリアの入るビルとなっている。サイゼリアも撤退した。ここは社員がよく昼飯に使っていた。高いビルも建ち、東京はどんどん変化している。

今でも神保町や小川町そして錦町界隈は大きな開発から取り残された小商売の街だ。区役所や警察署があり、「明治11年、神田錦町に三菱商業学校が設立された。校長の森下を始め理想に燃える教官のほとんどが福沢諭吉の門下生だった。」 校長の森下を始め理想に燃える教官のほとんどが福沢諭吉の門下生だった。『予備科3年、本科2年。英語、漢学、日本作文、算術、簿記などのほか、英語による経済学、歴史、地理、数学の授業。さらに1年間のインターンシップもあった。

学生数はピーク時で百数十名。いわば明治時代のビジネススクールである。彌太郎は慶応義塾に学んでいた長男の久彌を一期生として入学させた。

「…三菱(商業学校)は…義塾の分校のようなものである。その分校には政府から(海運助成策などによる三菱への間接的)補助があるのに、本校たる慶応義塾には何もない…」と慶応義塾の資金繰りに苦しむ福沢が政府に貸与を申し出た際に三菱商業学校を引き合いに出している。そのくらい彌太郎は資金を注ぎ込んだ。

商業学校は優秀な学生を集め、三菱の幹部候補生を育てた。ところが、教員である馬場辰猪(ばばたつい)や大石正巳(おおいしまさみ)らが自由党の結成に参加、商業学校の校舎を使って、夜間教室・明治義塾を開設した。土佐の熱血漢たちの、自由民権思想普及の場として大いに人気を集めたが、当然薩長閥の政府から睨まれるところとなってしまった。

彌太郎は嫌気がさし、三菱商業学校に対する情熱を失った。』引用元 
 
神田区の中心地と言っても良いほどだった錦町も、電機大学の移転から広い空き地のままとなっている。(今、2020年、はこの辺で1番高いオフィスビルが立っている)




コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 野坂昭如氏 | トップ | 公教育の人件費 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。