公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

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生成論3

2013-03-22 13:50:33 | 日本人
存在論を作用として捉える日本人独自の生成論が西田哲学には貫かれている。しかしどうしても観念論の系譜であり、時代がかった存在論に引きずられている。そこに西田哲学の限界がある。もっと日本人の独自の思考にフォーカスしていたならば、ポイエーシス的という表現者の行為に限定すること無く広く日本人の心に共通する作用原理を結晶化できていたかもしれない。
それどころか、もしかしたら西田はドイツ観念論を誤解していたのかもしれない。ヘーゲルは基督教社会から見たらば、ギリギリ非異端であるが、限りなく汎神論に近づいている。日本人の考える普遍は地上の事であるが、キリスト教の考える普遍は神であり地上ではない。地上は滅ぼされるものであり、地上の善き行いは神の国にゆくための準備である。だから汎神論のスピノザは完全な異端だ。

日本人は山、川、海に神々を見出すが、基督(耶蘇)教社会から見たらそれは原始的な異教にすぎない。神は愛と恩寵という美しい名のもとに、そのような異教のものたちの棲む土地を滅ぼすため再来するというのが基督(耶蘇)教だ。

西田哲学の自己自覚の底に普遍を見出す精神には、存在を情緒と自己再生作用と見ている日本人独特の思考が深く関係している。

日本人はよく個人の領域を超えて内なる世界の境界を設ける。それによって内と外を区別して世界を情緒として再構築している。すなわち日本人にとって再生され続けているのが内(ウチ)であり、再生が及ばない領域が外(ソト)すなわち恐ろしい八百万の神々や祖先、怨霊、霊の棲む自然の世界である。


日本人が考える自然や存在は伝統として再生作用と常に関係している。日本人にとって正月が特別なのも、桜が特別なのも延長された内なる世界の再生に関係している。神社を拝んだり寺院をめぐるのも過去との縁を切りあたらしい境地で生まれ変わるためである。再生される内なるものは、家の中に満ちているエネルギーのようなもので、先祖から頂いたものであるという感性は、現代人の心のなかにもある。反対に日本人には往来や河原、神社寺院は、再生と縁のない世界と捉える世界の色合いが明確にある。商業や芸能を異界との生業、霊との交流、霊を流す、霊のこもった人形を流す、商品の交換を行う、寺院を銭使いの世界と定めた。本来家の中にあるものには家の者の霊が宿っている。それを河原や寺院につながる往来に持ってゆき銭や物品に交換するということは霊を断ち切って無縁とするという作用が絶対に必要となる。現代においてさえ贈り物に応酬を怠らない。というのも、「あなたとの霊的縁を切っていませんよ」という証拠を示す応酬行為である。だがそういう自覚もないほどに日本人の無意識に物と霊の関係が染み込んでいる。(ちなみに往来のこの無縁化作用が理解できなければ、落語の三方一両損という大岡裁き事案の発生が理解できない。道に財布を落とした日本橋蛎殻町の職人源蔵がなぜ、第三者が拾った自分の財布を受け取らないのか、そういう江戸っ子の情緒が理解できない。)


西欧で発展した錬金術はアルコールなどの純粋物を抜き出す方向で発展した、そこがいかにも中東以西の文化らしい。日本では蒸留酒が発展しなかったが、錬金術に代わって発酵術が発展した。味噌醤油、酒にかぎらず、火薬原料からフグ肝の毒抜きまで発酵で解決した日本人の固有の洞察力は生成論に関係する。因果論に囚われる限り、純粋な原因に遡ることに学術は発展するが、変化誘導には発展しない。日本人の感性は見事に変化誘導に適している。そればかりではなく近年のC14年代測定法の成果で朝鮮半島の稲作より日本の方がかなり古い。日本の稲作開始は陸稲栽培で6700年程度前まで、水稲栽培で3200年程度前まで遡る。朝鮮半島はせいぜい1500年前。これは品種改良という根気と慧眼がなければ実現できない稲作の現地化にいちはやく成功した先祖の大きな遺伝子遺産である。定着農業はなんでも朝鮮伝来などとする旧説は破棄されている。


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