公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

今読んでる『告白』三島由紀夫

2017-12-14 21:14:00 | 今読んでる本
話題の未公開テープを読む前に昭和40年「批評」に出た『太陽と鉄』を読むべきかなあって思っていたら、再掲載の合本になっていたので買った。


太陽と鉄』ここに三島由紀夫がほとんど自分にしかわからない形で自己の芸術の秘密を吐露している。言っていることがなんとなく理解できるのは彼の場合、肉体より前に言葉があって、自分が言葉に蚕食されてから肉として生まれ出たという三島由紀夫にしかわからない出自である。肉体的コンプレックスとも言えるがそれほど簡単ではなく、彼が言いたいのは芸術が避けて通ることのできないリアルの病と死の前の生であり、魂の不滅である。

そこ存在する(した)リアルと受け止めた肉体の反応をなんらかの素材をメディウムつまり媒体として、リアリティーに変換するのが芸術の業というのが私の理解だが。

言葉の芸術素材として、言語が宿命的に持つ非現実化作用なくして現実を措定し得ないという矛盾のことを、白蟻の自分という形で告白し、告白するからには文学の虚偽を告発してみたいという仕掛ける思いがあったのだろうと思う。それ故に早速の翻訳は三島由紀夫にとっては有難いことだった。インタビューも若い人の教育の虚偽に感じる心の在り方を、微笑ましく思う三島由紀夫の言葉がそのような意味であふれていて、伝統や新芸術の虚偽を告発する彼の姿が実に面白いと思った。祭りの神輿を担ぐ空に見る集団的幻想の共有と解釈した体験がある種の共同幻想を思わせる。錯覚も幻想も芸術の入り口である。自我の連続を疑い得ない人間には錯覚や幻視が必要。錯覚と真覚が入れ替え可能であることに気づきさえすれば心の自己関係(思い込み、信念、信仰、ドグマ、自分)をリセットすることはだれにでもできる。それが人間に固有の芸術の役割である。









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