公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

自分の中の先頭でありたい

2010-08-09 16:55:28 | 日記

 自分と一語で言ってもリアリティには幅がある。自分が自分に対して抱く確信、リアリティというものは、あるようでいて、じつは自分が創りだした<ほら話>みたいな物だ。
 自分の中の自分に対するリアリティは欠乏であり、それ故に創造し実現しなければならない。

 やっとこの考え、<非所与としての自己の哲学>にたどり着いた時は、考え始めてから30年も経っていた。

 不確実な前提と不確実な未来との間に、いかなるアプリオリな概念も、前提も挟み込むことなく、「自分とは何であり何であるべきか」という問いの無意味さを証明し、そのドーナッツの穴の如くある所与の無意味さ故、<非所与としての自己の哲学>、すなわち欠乏こそが出発点という哲学的地平線がやっと納得のゆく形で位置づけることができた。

 思えば30年も小我をさまよい無駄な時間を過ごした。リアリティに正解はない。パースペクティブ・見通しという集合があるだけである。
 自分の中の自分という複数のリアリティのなかの先頭でありたい、無意味さは空虚ではない。ベストモードで臨みたいという一生懸命な気持ちは<非所与としての自己の哲学>にたどり着いても変わらない。自己実現という勝者の哲学、近代の遺物、小我の幻影を追うのではなく、真の欠乏=真我に出会うことで、漆黒の空間に自由を手にする。始原的死を取り込んだデカルト自明の向こう側のデカルト暗喩の意味、すなわち生命の最終段階を定義することができる。

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