公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

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今読んでる 『未来学原論―21世紀の地球との対話』仲小路 彰

2020-03-02 22:00:00 | 今読んでる本
復刻版の古本 仲小路の想像した日本はやっては来なかった。しかしマルクスの大著資本論を乗り越えてグローバル主義で未来概念を提供できたわけではない。仲小路はギリシャの運命 キリスト教の神 仏教の涅槃寂静 それぞれの神話を失った人類は消滅すると予言している。この書は未来学であるがある意味神話を措定した循環論法になっている。 スメラ学の継承すべきところはマルクス主義批判である。


「文明思想家」仲小路彰 財産のベースは何か知らん。富士の麓山中湖あたりに6000坪に隠棲していた佐藤栄作の同級生。大阪万博前の文明批評。
ほとんどメディア表に出て発言することは無かった。謎の指南役としては外部情報源のあった天川勇よりも天才である。高松宮周辺の政策グループ「地球文化研究所」のメンバーとして、川添紫郎(浩史)
キャンティのオーナー、川添浩史(本名:川添紫郎、1913年(大正2年)2月17日 - 1970年(昭和45年)1月10日)は、伯爵後藤猛太郎の庶子として生まれ、川添清麿(妻は土佐佐川領主深尾重先の孫)の養子として育てられた。母親は新橋芸者のおもん。祖父は大政奉還の立役者である伯爵後藤象二郎


、富岡定俊、「文明思想家」仲小路彰。仲小路の描く日本の未来は大国意識に目覚めた日本である。 その日本にいきていて非常に恥ずかしい。結局日本の国民を指導する自由民主党は自主独立も国防の戦略も自分で放擲した。放擲した代わりに国際主義の小役人に満足している。

未来学原論―21世紀の地球との対話
仲小路 彰
枢密院顧問官、仲小路廉の二男として、東京市赤坂区氷川町生まれ。1906年麻布区広尾町に移る。東京府立四中を経て、夏目漱石に憧れ五高入学。五高時代は、学業成績ではほぼ仲小路が一番、佐藤栄作が二番という順であった。その他に、池田勇人、浜口巌根らがいた。佐藤についてはのちの総理時代に私的なシンクタンクの役割を果たしていたとされている。1921年、東京帝国大学文学部哲学科入学。学究生活は父仲小路廉の資産で。
日本共産党の研究
 実によく遊んだもので、当局もさすがに驚いたのか、部内の記録に、 「其の遊興の動機及び心理は不明なるも如何に彼等が多額の金額を湯水の如く消費せしかは彼等の地位等より観察し実に驚異の事実なりと云はざる可からず」(「秘密結社日本共産党再組織運動の状況」)と記している。  これらの遊興費用がどこから出てきたかといえば、コミンテルンからの金だったのである。コミンテルンからの資金はすべて渡辺の手にいったんわたり、渡辺はこれを米ドルのまま小林武次郎の番頭の岡村に預けて保管しておいてもらい、必要に応じて、岡村の手で日本円に換金してもらっていた。

京都学連事件の被告三十八名の中には、野呂栄太郎、岩田義道、逸見重雄、秋笹正之輔など、後の共産党中央委員が四名もいる。これにかぎらず、当時の学生運動の中から生まれた後の共産党指導者は、志賀義雄、是枝恭二、田中清玄、水野成夫、中野重治などほとんど数えきれない。

コミンテルンから来たヤンソン  こうした情報、決定の遅れ、水増し報告の害をなくすために、コミンテルンから代表が日本に派遣されてくる。これがヤンソンという男で、日露国交が回復して、この年開設されたばかりのソ連大使館の書記官の身分をもち、同時にプロフィンテルン代表をかねていた。  日露国交回復の基本条約には、共産主義の宣伝禁止の一項があったから、ヤンソンの活動は条約違反になる。しかし、三・一五検挙でその活動が明るみに出て外交問題に発展しそうになるまでは、かなり露骨に大使館を通じての共産党指導と援助とがおこなわれていた(それ以後は、再び上海経由でコミンテルンとの連絡がとられるようになる)。  ヤンソンは古くからの革命家で、革命当時はシベリア流刑になっていたが、革命後は、アメリカ、カナダ、イタリアなどを股にかけてコミンテルンの国際オルグとして活動していた。日本の革命家とはケタちがいの活動歴があり、これ以後、日本の指導者たちは何ごとによらずヤンソンと協議して活動するようになる。この時期の党活動について述べた徳田球一など当時の党幹部の予審調書を読んでいると、「同志ヤンソンと協議して……」というくだりがうんざりするほど出てくる。それを見ていくと、ヤンソンの指示、指導なしになされた活動はほとんどなかったといっても過言ではないようである。  民主集中制の原則のもとでは、コミンテルン中央を代表するヤンソンは、コミンテルン支部の指導部には絶対の指導権を持っていた。ヤンソンへの活動報告と方針協議は、日本の指導部へ義務づけられていた。またヤンソンは日本の中央委員会に出席する権利があったし、必要があればいかなる党員とも会見できる権限ももっていた。そして、活動費はすべてヤンソンが供給していた。こうした背景の下では、ヤンソンに頭が上がるわけはない。  この時期、日本の党は正式に結成されていない。党が正式結成されれば、コミンテルンから一定の予算が割当てられ資金が供給されるが、それまでは必要に応じて具体的な運動に対して資金を交付するということだった。
ガリバルディの神話は本当だった
南部連合軍に打ちのめされたアメリカ大統領は、自暴自棄になってガリバルディのもとに向かい、歴史上の偉大なもしもの事態の一つを生み出した。

リンカーンの申し出についてのうわさは一世紀にわたって流布され、アメリカの学者によって否定されてきたが、この文書はそれが神話ではないことを証明した、と歴史学者のアリゴ・ペタコ氏は述べた。

彼は先週、イタリアの亡命した王室から寄贈された90箱の資料を探し回っていた時に、ガリバルディからヴィクトル・エマニュエル2世に宛てて国王に申し出を伝えたという色あせた青い葉書を発見した。

ガリバルディは1860年に1000人の軽武装の新兵でシチリア島を侵略した後、世界の想像力をつかみました。彼らは12,000ナポリ軍を破り、島を奪い、イタリア半島を統一するために決定し、本土に侵入した。彼らはナポリを占領し、支持の波を解き放った。

ペタコ氏によると、1850年代にウルグアイで軍を率いてアメリカを縦断した反逆者は、メーソンでもあったという。国際的なメソニックロッジは、彼にアメリカ市民権を与えるように働きかけることに成功した。

ガリバルディはリンカーンの1862年の申し出を受け入れる用意があったが、1つの条件があったとペタコック氏は言う。しかし、この段階では、リンカーンは農業危機を悪化させないように、そのような声明を出すことを嫌がっていた。

"後に彼らはガリバルディに全軍ではなく、1つの部隊の指揮権を与えたが、その時には手遅れで、彼は他のことをしに行っていた」とペタコ氏は語った。"イタリアでは常に分かっていたが、アメリカでは常に多くの懐疑論があった。今、我々は確かに知っている」と語った。

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