公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

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今読んでる『新版 吉本隆明1968』鹿島茂

2017-11-13 13:03:37 | 今読んでる本
2017年11月10日版 今日届く。解説が内田樹先生ではないか、読まずにはいられない。2009年 平凡社新書 459は読んでませんでしたが。。

まずは『党生活者』における技術主義、利用主義。スターリニズムの必然性。私はひたすら粛清を恐れて忖度を極めるのが寄生*左翼の典型的思想の脊骨と考えてきたので、吉本隆明の暴く技術主義も利用主義も自分たちより弱いものに対して行う平均的でどこにでもある世俗的処世技術と混同していたが、つよいものからのテーゼ変更や粛清を恐れて忖度することに頭脳を使う事と同じ前提で弱い者を利用するという世俗的正当化が行われてきたと考えるとき、同じ前提は思想の怠惰、したがって反対側にあるのは、詩人吉本隆明の正直さであるという二項結論に至る。吉本隆明理解の見通しが少し良くなってきた。

*誤記ではない。 社会の繁栄と平和に寄生している気分左翼も含めた寄生左翼には既成左翼も含まれる。

表現して初めて言語であるという真っ当な言葉を知っているなら、キッとひらがなでかんがえる じぶん と叙述したことに意味があるのだろう。吉本隆明氏に理路整然と説明されるほどに自分の違和感が深まるのは何故だろう。詩の成立には一定の外部世界との調和が寄りたつ世界の前提あるいは、ありうべきものとして措定されるのだが、詩人の住む実世界がその調和と何らかの折り合いをつけていなければ、詩は絵空事である。

違和感の在り家は、私と吉本隆明の体験の違いにある。大衆が善であった煽動の効果的な時代ー大正昭和ーとー昭和平成ーでは煽動的挑発的なことは時代の必然と捉える前者の経験と逆に少数者の陰謀と捉える後者の経験とでは大衆の中に自分の居場所を見つける方法が異なっている。内田樹先生が現代の若者の自分に干渉してこない共同体所属を求める孤立化不安とエゴイズムの折り合いが共同幻想の誕生であるとする仮説は面白い。しかし庶民還り左翼運動が戦争が前提となる時局に必然を許容するように御時世化して転向したように、前者と後者の狭間に置かれた体験をした団塊の大量の大衆の世代は、新たな御時世として時局を御時世化して街頭デモとゲバ棒を受け入れた。現代に生きる若者やネトウヨが無責任な共同体をサイバースペースに見出しているとしても、様々な共同の乗り物はドンドン細分化しているからー大正昭和ーの如くにはチカラを持ち得ない。世相は似ているが決定的に異なっている。共同というからには分解し得ない何ものかを最低限の責任として許容しなければ、既成事実に大衆が迎合する御時世化はできない。

そのようにかんがえることができるのも、吉本隆明という先達がいたからこそである。しかし大方の寄生左翼は彼の孤独な戦いを理解したとは言えなかった。そして未だに煽動と喧伝の力を夜郎自大が如く自分の住む世界だと思っている。

かんがえるということと考えることを区別した吉本隆明氏に学ぶためには、なんとなく御時世と受け入れる無思想に気づかなければならない。

しかし生業生活者の日常には正義も道理もなく、ただ切実な明日があるだけだ。詩人が詩人として純化するために一人で前に出るほど、そういう生活や生死そして欲望と絶望感というリアルからくる切迫に詩人自身も置かれているであろうという事を自覚して臨まなければない。
詩人は世界の内面化を通じて個の内実をさらけ出して初めて言語に落としこむことが可能になる。そこで多くの詩人は失敗する。左翼運動とて同じである。なぜなら革命家と詩人は最も似通った生業であるのだから。詩の失敗として日本人の精神の歴史を叙述分析した先駆者吉本隆明は偉大である。
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