公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

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書評『私の裏切り裏切られ史』 花登筺

2016-12-15 19:04:00 | 今読んでる本

財津一郎さん死去 89歳


読了2016.12.16

花登筺(はなと こばこ、 1928年(昭和3年)3月12日 - 1983年(昭和58年)10月3日)は、滋賀県大津市出身の小説家、脚本家。本名は、花登 善之助(はなと ぜんのすけ)。昭和30年代の上方喜劇ブームの立役者であり、またテレビ草創期におけるスター脚本家であった。高度経済成長期には、大阪の商人を主人公とした商魂物・根性物を多数執筆した。

移動する新幹線の車内でも原稿用紙に向かい、「カミカゼ作家」「新幹線作家」の異名も取った。最盛期における執筆ペースは月に原稿用紙2000~3000枚、生涯に書いた脚本の数は6000本を超えると言われる。また、劇団喜劇の主幹でもあった。

これを書いて直ぐに亡くなったのだから、ご本人には思い残すことはなかっただろう。

我々テレビっ子世代に 懐かしい俳優が無名の時代から色々なエピソード、草創期のTVドラマ。私のような文化果てる奥地出身者でも知っている名前だらけである。関西出身者には懐かしいのではなかろうか。離反=独立のことだが。。

大村昆 (おおむら こん、1931年11月1日 - )付き人から抜擢 ヒロポンを抜けさせるも 退団して離反
『1974年、劇団主宰者・花登と女優・星由里子の不倫問題が発覚。大村は花登と同様に、花登の当時の妻・由美にも恩義があり、妻・瑤子も由美と親しい仲であったため、板挟みの状態で、花登の行動を容認できない状況の中、苦渋の選択を強いられた。結局、花登に劇団退団を申し出、駆け出しの頃から築き上げた花登との「師弟関係」ともいうべき信頼関係は終わりを告げた。^ 花登は1983年に週刊朝日に連載し、没後に単行本化された『私の裏切り裏切られ史』(朝日新聞社、この本)の中で大村の事を「愛弟子」と表し、“愛情の裏返し”ともとれる痛烈な批判を著しているが、大村はこの連載開始以降、花登に対して「師」という表現を一切使用しなくなった。』Wikipedia
細うで繁盛記以降はコメディアンから離脱。

58歳で大腸がんになったというから、きおつけねば。85になったかかな。



佐々十郎 (ささ じゅうろう、1930年1月16日 - 1986年1月11日)  当時既にコメディアン 離反というか本業に回帰

芦屋雁之助 小雁兄弟 無名の大部屋役者 小雁は離反

財津一郎 ストリップ劇場のすけこまして、トップダンサーと出奔 復帰するも挨拶はなく、 離反 OS劇場の頃か「聞いてチョウダイ 根アカ人生」p.54 - 56

茶川一郎 (ちゃがわ いちろう、1927年3月3日 - 2000年11月9日)女風コメディアン 離反

中山千夏(子役)参議院議員 離反というか思い上がり

曾我廼家十吾 鶴蝶 別格のヒロポン芸人

当時ヒロポンは今で言うファイト一発剤だった。


浪花千栄子 (なにわ ちえこ、本名・南口 キクノ(なんこう きくの)、1907年11月19日 - 1973年12月22日)心の母 別格

照江 花江 歌江(かしまし娘結成前)照江は最後まで弟子
アイジョージ ?

『細うで繁盛記』(銭の花)、1970年1月8日から1971年4月1日まで、よみうりテレビで製作され、日本テレビ系列で放送されたテレビドラマ。毎週木曜日の21時30分から22時26分に放送された。最高視聴率38.0%(関西)。新珠三千代のTV代表作として「氷点」最終回の視聴率が42.7%北海道では別途放送だったが、新珠三千代の役柄は真逆のいじめ役。当時私は12歳。

園佳也子 (その かやこ、1929年10月7日 - 2010年7月27日)ジャズシンガーから 浪花千栄子に鍛えられ抜擢 園佳也子は裏番組の「ありがとう」にも出演するが一応は弟子

冨士眞奈美(ふじ まなみ、1938年1月15日 - ) お嬢様女優から抜擢 小姑正子は女優として花ではなかったかもしれないが 、他の役ができないくらいにハマった弟子。やすらぎの郷でも活躍。


裏切るといっても周辺事情が変わるということも含めての裏切りだが、花登筺にとって心痛だったのは離婚と財産消失と大村崑の独立だろう。特に大村崑の描き方はリアルタイムで新聞掲載だからこの告発も生々しく、反発心や相当な波紋があったと想像するが、所詮は演劇界の話、今のようなクスリで追放ということではない。

人間利害で出逢えば利害で別れる。恩もあれば忠義もあるが、食って行けなきゃそれまでのことは清算しなければならない。育てた花登筺としては、プール付きの豪邸に住む大村崑に立場をわきまえよとでも言いたかったのだろうが、誰もがテレビと視聴率とスポンサー意向に左右され狂ってしまい、あるものは家財を積み上げあるものは破産して惨めに孤独な生涯を終える。

70年代が終わるとテレビドラマも制作費用の安いお笑い番組に押されて消えてゆく。最近になって同時代の花登筐のライバル平岩弓枝「ありがとう」が再放送されている(第2シリーズ)テレパック制作の56.3%(ビデオリサーチ関東地区調べ)。この数字は、2010年6月29日深夜に放送された『2010 FIFAワールドカップ南アフリカ大会中継 日本対パラグアイ戦』で記録した57.3%に抜かれるまでTBSとしての歴代視聴率でも首位の座を守り続けていた。)
の再放送を見ているが(もちろん録画)、役者が歌うたって間を伸ばし、四コマ漫画のような軽いドラマでも一千万円は制作にかかり、ワンクール13本で一億三千万もかかっていたとは。一年で五億ではスポンサーのリスクも相当に大きい。

人生の中にコントロールできないチャンスがやってくる順番を考えれば、変節を裏切りと悩む筋のものでもない。私のポリシーは制御可能なことはとことん考え悩むことだが、制御不能なことは、とにかくプレーヤーをじっくり観察すること。意に沿わない状況でも制御不能なことは流すしか策がない。

もし観察の結果アイディアで相手を動かせるなら制御可能なことに引き寄せることもできよう。たとえば花登筺が直接スポンサーのダイハツに交渉したみたいに、作品で、舞台、テレビ、小説などと垂直統合してゆけば、当然既存勢力の反発を受ける。これがイノベーションというものだ。裏切られもするが裏切りもする、それが利害の大きなトレンドに関わっているのなら当然だろう。

//表題とは関係ないが//真偽も不明だが//これも立派な裏切りだろう

谷内正太郎が潰した二島返還。これだけは確実。

谷内 正太郎(やち しょうたろう、1944年(昭和19年)1月6日 - )は、日本の外交官。国家安全保障局長、内閣特別顧問。
外務事務次官、政府代表、内閣官房参与を歴任。谷内が主催する政経勉強会「寛総会」の事務局長K氏は、公安当局がKCIAエージェントだと把握している在日韓国人であり、両者は個人事務所を登記・入居させているビルも同じという深い関係にある。石川県生まれ、富山県育ち。貧しい環境で苦労して育つ[1]。大学時代は若泉敬主宰の研究会に参加し、研鑽を積む。学者を目指して大学院に進学するものの、指導教官の急死などで断念し、外交官となる[2]。
]
1^ 『文藝春秋』2008年1月号 261頁
2^ 『文藝春秋』2008年1月号 260-269頁
wiki

K氏は、谷内氏が中心となって発足した勉強会「寛総会」の事務局長を務める人物。谷内氏は、自らの会社をK氏の関係する会社が複数入っているビルに設立。2013年5月にはK氏や申珏秀駐日韓国大使(当時ら2013年3月11日、日本政府が開催した東日本大震災2周年追悼式の案内状に対して「欠席」で返信をした駐日大使)と高麗神社を訪問、8月にはK氏と青森に旅行するなど、公私にわたって親交がある。
文春
//古い話だが
日中間に人脈を張り巡らせるK氏にこんな話があるという。公安関係者が絶対匿名を条件にこう明かす。<「彼は、少なくとも1969年から1980年までは韓国大統領直属の情報機関、KCIAのエージェントだったことが確認されている。KCIAのエージェントは最盛期で八千人超いたと言われ、統一協会系の国際勝共連合などが隠れ蓑として使われていた。Kは活動資金が民団から出ている民団系のエージェントだ。北朝鮮情報の収集を担当し、日本国内では韓国大統領の一等書記官の指揮下にあった」
J-CASTニュース
//
寛総会 会合は1998年から2ヶ月に一度のペースで開かれており、メンバーは谷内の他、鹿島建設・中村満義社長、警察庁元長官・佐藤英彦弁護士、朝日新聞・木村伊量社長、 東大大学院教授・小寺彰、東京電力・南直哉元社長など15名。
wiki



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