のんきに介護

母親と一緒の生活で、考えたこと書きます。

山本宗補さんが写真を通して伝える、戦争をめぐる70人の肖像と証言集「戦後はまだ・・・刻まれた加害と被害の記憶」

2018年08月16日 06時54分23秒 | 天皇制と戦争
山本宗補@asama888さんのツイート。


――安倍と石破が改憲の中身を駆け引きしているという。日本会議の意向に沿った改憲を目指す安倍。「国防軍」などに象徴される自民党憲法草案に拘る石破。どちらも戦争の加害責任に目をつぶる。国内外の途方もない犠牲と引き換えに国民が手に入れた国民主権と非戦憲法を葬ることは戦死者への最大の冒とくだ〔19:35 - 2018年2月1日 〕――


「安倍晋三 VS 石破茂」が

総裁選で事実上、次期首相が決まるというわけで、

最近、盛り上がりを見せている。

しかし、

候補者である

安倍晋三と石破茂の間では

憲法9条を

葬ることが暗黙の合意になっている。

そんなことを

大前提にした論争など、百害あって一利なしだ。

それを理解するためにも、

山本宗補さんの

「戦後はまだ・・・刻まれた加害と被害の記憶」

という

写真集はお勧めだ。


(1)拙写真集「戦後はまだ・・・刻まれた加害と被害の記憶」より①:小山一郎(敬称略)。部隊は山東省の集落を攻撃。
「私たちは焼く部隊。終わったら自分は何軒燃しましたと報告する火付け競争」。老婆が飛び出し命乞いしたが、突き殺せず小屋の中に押しもどし火をつけたと、申し訳なさそうに話した。〔21:12 - 2018年2月1日



(2)「戦後はまだ・・・」より、その2:井ノ口金一郎。日本軍約1万名の戦死・戦病死者を出した中国大陸での大陸打通作戦で、華北から華南まで1500キロを縦断。食糧は村から奪い捕まえた男は苦力として酷使し戦闘を繰り返したという。
「考えてみれば日本ってひどい国だよ。怪しげな教科書が出てくるし」〔17:19 - 2018年2月2日



(3)拙著よりその3:浜崎重信。丁稚奉公しながら通信教育で独学し、小学1年の時には教育勅語を暗唱。忠君愛国とは「何かあった時は兵隊になって国のために戦え」と理解。北支で様々な戦闘を経験。八路軍との戦闘後に浜崎さんが捕まえ荷を担がせた男を、小隊長が軍刀で首をはねた。捕まえたことを悔やんだ。〔12:40 - 2018年2月3日



(4)その4:金子安次さんは「自分の子どもを見る度に思い出す、生涯忘れることのできない罪」を証言。村での八路軍との銃撃戦で村人の死体の山ができた。隠れていた女を古参兵が強姦しようとし、暴れられ命じられて足を持ち二人で女を井戸に投げたら、男の子が後を追い踏み台使い井戸に身を投げたという。〔18:57 - 2018年2月5日



(5)その5:山西省で日本軍の性奴隷被害者となった郭喜翠。日本軍駐屯地に連行され隊長に強姦され、翌日からは日本軍将兵により輪姦された。解放後に精神を病み日本軍が来た夢を見ると真夜中でも家から飛び出し、泣く感情を喪失。日本政府を訴えた裁判で、日本軍性暴力に起因する重度のPTSDが認定された。〔18:12 - 2018年2月6日 〕



(6)その6:湯浅謙。山西省路安陸軍病院軍医。「前線で兵隊の命を救うために有意義だから、中国人の命の一つや二つ殺したって」という意識で、命じられるまま病院で捕虜の生体解剖を何度か実施。「ぼくを軍国主義教育したのは母と教育勅語だ」。「私のような愚かな人間を作らないように」。〔9:43 - 2018年2月7日



(7)その7:黒田千代吉。敗戦一年前に召集され中国に送られた黒田さんの初年兵集団は、中支から南支にかけ本隊を追求すること約3000キロ。一発の銃弾も撃たずに敗戦を迎えた。だが、残念なことに敗戦2ヵ月前に捕虜刺殺訓練をやり、深い後悔が残った。「戦争では最下層の兵隊も、敵の住民もやられる」〔18:55 - 2018年2月8日



(8)その8:須田ヨキ子。国策により27万人の満蒙開拓団・青少年義勇軍は中国東北部の満州の荒野に送り込まれ、ソ連参戦後に棄民された。死者は約8万人。多くが女子ども、お年寄りだ。長野市松代の須田さん(当時8歳)は一家で移住。父は根こそぎ動員で戦病死。2歳も末弟が病死。「みんな犬死だよね」〔11:30 - 2018年2月9日



(9)その9:中澤清治。「どうせシナ人の地所を取り上げたものだろう」と父は反対したが内緒で印鑑を盗み捺印。14歳で満蒙開拓青少年義勇軍に入隊。校長と担任が強く推奨したという。満州北部の義勇軍訓練所に入所。敗戦後、炭鉱の重労働で栄養失調と発疹チフスにより同僚16名病死。帰国時は18歳だった。〔13:45 - 2018年2月10日



(10)10:栗原貞子さんは村長の勧めと青年学校の校長先生の訓練後には日本に帰っても良いとの約束で満州に渡り女子義勇隊訓練所入所。所長に集団見合を強要され開拓団の男性と結婚。夫は根こそぎ動員で出征。ソ連参戦後の逃避行で、お腹の子を生かすため栗原さんは中国人の農民と再婚。「本当に棄民ですよ」〔11:35 - 2018年2月12日



(11)11:千野誠治さんは満州で開拓団から徴兵され敗戦後に3年間のシベリア抑留となった。「最初の冬が最も辛く毎日誰かが死んだ」。抑留体験よりも忘れられないのが開拓団の惨めな最期に遭遇した時。「20から30体。精魂尽き果て集団自決した婦女子」「日本の戦争はエゴそのものだった。みんな侵略だ」〔20:04 - 2018年2月13日



(12)12:満蒙開拓青少年義勇軍訓練所から15歳でシベリア抑留され、バイカル湖北辺での最初の冬に30人が死亡した極限の場を生き抜いた成田富男さん。茨城県内原の訓練所から名古屋の戦闘機組立工場で勤労動員された時は死者1200名超の昭和東南海地震を体験。仲間7人が建物につぶされ犠牲になっていた。〔9:45 - 2018年2月14日



(13)13:肥後勝盛さんはソ連国境が近い山でソ連軍と対峙中に敗戦、中央アジアで約4年抑留。戦後は労働運動に傾斜。海部首相時代にソ連語の捕虜労働証明書、一時金10万円、銀杯が贈られてきた。
「戦争に参加したものとして、この憲法にして良かった。9条は決定的に重要だ。妥協したら全てが水泡に帰す」〔9:57 - 2018年2月15日



(14)14:中支3年、シベリア抑留5年、撫順戦犯管理所6年を経て帰国した難波靖直さん。「他国の領土に立った罪」を語り続けた。中国の戦犯管理所では強制労働も虐待もなく食事は良い扱いに仲間は認罪していった。約50人分の認罪書の要約を担当。「いくら罪を語っても被害を受けた人は帰ってこない」〔18:03 ‐ 2018年2月16日



(15)15:お国のためにと日赤の看護婦になった津村ナミエさんの赴任先は延吉の陸軍病院。重症結核患者病棟勤務中、同僚3人が結核感染し病死。敗戦後はソ連軍により収容所となりチフスなども蔓延。「一日20人~30人が死にました。亡くなった患者は褌一つにして元気なものに服を着せた。この世の地獄でした」〔16:10 - 2018年2月17日



(16)16:日赤看護婦の肥後喜久恵さん。兄二人がはしかで病死していたので出征兵士の旗がなく「召集令状は一族の名誉だった」という。敗戦後は八路軍(共産党軍)の捕虜となり国共内戦下、八路軍の行軍に従軍。野戦病院で凍傷、骨折、全身火傷などの戦傷患者の治療までやった。「医助」となり1958年に帰国。〔16:36 - 2018年2月17日



(17)17:工場に就職させてやると釜山から大連の朝鮮人女性だけの慰安所に連れていかれた。初日から日本兵の相手を強要された。その後はフィリピンの慰安所へ。日本軍将校と懇意になったが日本軍敗走に伴い解放され45年に帰国。「生まれ変わったら良い男と結婚して子どもを産みたい」。金さんの死後の夢だ。〔16:39 - 2018年2月18日




(18)18:李玉善さんは延吉の飛行場に連行され使役労働を拒否。軍人に甘いことばで連れて行かれたのが草の家(=慰安所)。強姦されトミの名で呼ばれた。脱走後に憲兵に右足つま先を斬られた。慰安婦は必要だったと大阪市長。侵略戦争を素直に認めない首相。悪かったという意識ない政治家が跋扈する日本。〔10:15 - 2018年2月19日



(19)日赤看護婦となった守屋ミサさんは4隻の病院船で22航海したが、赤紙の召集令状を受けたのは真珠湾奇襲攻撃2ヶ月前。広島に集結。陸軍船舶部隊指揮下に入り病院船部隊の出陣記念写真が残った。「戦争は国民の知らないところで準備が始まる」証拠となった。繰り上げ卒業で学徒出陣となった看護婦もいた。〔20:33 - 2018年2月20日



(20)20:満州を占領し中国大陸の植民地支配を目論んだ日本軍は英米にまで奇襲攻撃し戦域を無謀に拡大。日本軍は英占領下シンガポールとマレー半島を攻略し華僑粛正を組織的に断行。ユー・キャンチェンさんら5人は日本兵に丘の上に連行された。ユーさんは首を斬られたが奇跡的に助かり周りには死体が。〔19:25 - 2018年2月23日



(21)謝昭思さんは当時9歳。日本軍が英領シンガポール占領直後に家族親族21人が虐殺された。従弟が目の前で日本兵に銃剣で刺され、伯父も刺殺された。逃げた謝さんは日本兵に捕まり銃剣で五カ所刺され気絶した助かった。
「憎しみの気持ちは一言で説明できない。大量の殺人が起きれば怨念が残される」〔10:19 - 2018年2月25日



(22)22:マレーシアのショー・ブン・ホーさんは、村に来て「食糧を支給する」と華僑ばかりの村人を集めた日本軍により両親弟妹を刺殺され7歳で孤児となった。82年にショーさんたちは虐殺現場で大量の頭蓋骨などを掘り出した。
「個人の記憶は消えません。自分の都合で歴史を書き換えることは駄目です」〔9:57 - 2018年2月27日



(23)23:日本軍はフィリピンを3年半占領した。中部ネグロス島は激戦地とはならなかったが数多の住民虐殺が記憶されている。当時小学生のロランドさん。「日本軍は毎日のように抗日ゲリラやスパイを銃剣で突き処刑した。ある兵士は血の付いた銃剣をふいてパイナップルを切って私にくれた。断れなかった」〔9:12 - 2018年3月1日



(24)24:ナルシサ・、クラベリアさんは、フィリピンで名乗出て日本軍による性奴隷被害者認定された174名の一人。目の前で両親と5歳の弟、7歳の妹を日本兵により殺害され、二人の姉と共に日本軍駐屯地へ連行され、連日強姦されたという。「被害者は私一人ではありません。正義が回復されるべきです」〔13:23 - 2018年3月4日



(25)25:暗号班教育を受け華北に向かったが、米軍が上陸寸前のルソン島マニラ港に上陸。北部へ夜間行軍。実弾射撃未経験のまま陸軍部隊に編制替え。食糧輸送任務中に泊まった村を米軍機が空襲。仲間4人戦死。怒った下士官が討伐として安田さんらに村の若者4人を刺殺させた。「4人はゲリラだったかどうか」〔21:01 - 2018年3月6日



(26)ピナトゥボ火山噴火の取材で実感した戦争末期の日本軍の敗走、飢え、病死の深刻さ。京大から学徒動員された野嶋衛さん。制海権を失った末期にフィリピンに向かい輸送船二度沈没。三度目の船も米軍空襲で沈没。ルソン島中部のピナトゥボ山中に敗走し重傷。先住民の芋を盗み助かった。「芋のおかげで」〔12:02 - 2018年3月7日




(27)27:先住民アエタ族からは、敗残兵が毒イモを食べて死んだ事例や死体の肉を食べて生き延びた話を数名から聞いた。チェドロ・フラムカノさんは、日本兵が逃げ出した跡に「鍋が残され、肉とマンゴが入っていた」という。近くにはアエタ族の遺体が3体。「頭はあったが、身体の肉がなかった」〔22:39 - 2018年3月8日



(28)熊井敏美さんは敗戦後、マニラのBC級戦犯裁判で死刑を求刑された。「あれだけ討伐して住民が死んだから死刑は覚悟したが」。フィリピンのパナイ島守備隊副官を務め、マニラ軍司令部からの指示に従い「徹底的に叩け」は「処分しろ」(殺せ)の意味に解釈しゲリラを討伐。1万人の殺害は「ありうる」と。〔11:32 - 2018年3月9日



(29)寺島芳彦さんは17歳で海軍に志願入営。敷設艦蒼鷹で兵員輸送船団護衛任務などに従事。米軍のマニラ大空襲後、蒼鷹はボルネオに向かったが魚雷で沈没。ルソン島を敗走し敗戦。74年から遺骨収集開始。「学徒や上官は遺骨収集に関心がない。社長をやっているような戦友も金を出さない。恥ずかしい限りだ」〔21:53 - 2018年3月10日 〕



(30)戦後、日本軍占領下からビルマ独立後、少数民族のカレン族も自決権と独立を夢見て闘争を続けた。その指導者たちは英軍と行動を共にした世代。憲兵隊に捕まり拷問され処刑された者も。タームラボーさんは敗走する日本兵が渡河する際、100mの距離で対峙。「日本兵の多くが溺れたり銃弾で死んでいった」〔11:12 - 2018年3月18日



(31)31:日本軍はビルマ占領後、軍需物資輸送などのためタイ・ビルマ間に泰緬鉄道415キロを一年半未満で開通させた。連合軍捕虜6万名超が強制労働させられ死者は12000名超。東南アジアのロームシャの死者は7万名超。死の鉄道の所以だ。マレーシア人のトン・ユーさんは死ぬくらいならと脱走し命を拾った。〔21:37 - 2018年3月21日



(32)連合軍は泰緬鉄道建設の強制労働で死亡した将兵一人1人を記録し埋葬。戦争中に憲兵隊英語通訳を務めた永瀬隆さんは、戦後に連合軍捕虜墓地捜索隊通訳として155カ所の墓地を調べ、約1万名の姓名判別に貢献。これを機に日本軍の戦争犯罪を悔いた永瀬さん。死の鉄道建設の犠牲者を供養する生き方を貫いた〔22:39 - 2018年3月21日



(33)33:古山十郎さんは未帰還兵の一人。戦後はタイ国内に留まった。泰緬鉄道建設の補給担当で日本軍各部隊に糧秣を分配。食糧は何でも扱った。味噌醤油、砂糖や甘味品、梅干も被服も。「ビール、葡萄酒はシンガポールから来ました」。「私は万年一等兵でした。前線の話は」わからないとのことだった。



(34)坂井勇さんも未帰還兵の一人。牟田口廉也中将が立案指揮し「最も無謀な作戦」と酷評され、数万人の日本軍将兵の命を失ったインパール作戦に参加。90歳で亡くなるまでタイ国境の町に留まった。ブラジル移民二世の坂井さんは日本語が苦手だった。「弾に撃たれるより病気で亡くなるほうが多かった」。〔10:58 - 2018年3月24日



(35)新潟県出身の中野弥一郎さんも未帰還兵。衛生兵だった中野さんはインパール作戦初期に重傷を負い後方に下げられ命を拾った。中国では敵兵の治療もしたと話す。弟が戦死していたことを知れば故郷に帰っただろうとも。牟田口司令官については、「無責任ですよね。終戦後も責任取らずに階級は進級して」。〔12:51 - 2018年3月25日



(36)36:戦闘機操縦士は一瞬の空中戦で命を失うか命を奪う。陸軍戦闘機「隼」操縦士だった関利雄さん。シンガポール上空でB29を迎撃。真正面から機長機に突っ込みB29の右エンジンから黒煙が上がった。関機は8発被弾し1発が計器に命中。12年、B29は墜落したと知った。「名前と出身地までわかると複雑だね」



(37)米軍は4月16日に伊江島上陸。6日で制圧し日本側の犠牲者4700人。うち島民1500人余。米軍の砲撃は3月末に始まり島民はガマからガマへ。家から500mのガマに28人。婆さんは銃弾で即死。退役日本兵の防衛隊が爆雷二つを爆発させた。「真っ白い中に頭が二つ。外に5つ」9歳の大城さんは母に抱かれていた。〔10:03 - 2018年3月27日



(38)戦争は二等兵以下の軍属にさえ不条理な戦犯の汚名を着せる。朴ビョンスクさんは創氏改名で竹本姓に。釜山で日本軍軍事教練を受けビンタも学んだ。任務は泰緬鉄道建設現場の連合軍捕虜収容所監視員。英軍将校の顔を一度殴ったことでBC級戦犯に。捕虜虐待で懲役2年の判決。日本軍「竹本」だからだった。〔8:07 - 2018年3月30日



(39)イ・ハンネ(李鶴来)さんも日本軍軍属・広村鶴来の名で豪軍捕虜収容所監視員としてシンガポールBC級裁判で戦犯に。李さんたちは日本人として裁かれ148人のうち23人処刑。李さんは死刑宣告されその後は懲役20年に。戦後は日本国籍ではないことを理由に援護と保障の対象外に。今だに名誉回復されない。〔23:05 - 2018年4月1日




(40)靖国神社で「東条と一緒に祀られている戦友が可哀想だ。東条らA級戦犯を追放せよ」という趣旨の手紙を賽銭箱に投函した高木清さんと偶然出会った。高木さんは駆逐艦「荒潮」機関兵。真珠湾奇襲攻撃から半年後のミッドウェー海戦。他艦の乗員救助後、荒潮も被弾。翌日は94体の戦死者の水葬が行われた。〔19:09 - 2018年4月2日




(41)信州出身で海に憧れ北米航路の見習水夫、貨物船乗組員に。日本軍徴用船員として数多の戦闘部隊を広大な軍事拠点に送り届け何度も命拾いした西山勇さん。44年のトラック島。輸送船が目前でバラバラ。操舵手として乗込んだ麗洋丸もやられ海に飛び込み5人のみが助かった。「どん底へゆくと神も仏もない」〔8:27 - 2018年4月3日




(42)福島県三春町から3歳の時に一家でテニアン島に移住した佐藤孝則さん。当時13歳。米軍攻撃から逃げまううちに祖母と乳飲み子の弟が衰弱死。家族とはぐれ敗残日本兵と壕から壕へ。「おかあさん」と声をあげ自決した負傷兵。砲弾の破片が首を直撃した会津出身の先輩。佐藤さんも負傷。投降して家族と再会〔8:25 - 2018年4月4日





(43)テニアン島移民の6割が沖縄出身者。主にサトウキビ栽培に従事。安富祖安さんは19歳で結婚し長男を授かった。米軍のサイパン島攻略で約3500人の民間人(うち沖縄出身者1900人超)が犠牲に。食糧も水もなく壕を逃げまどう最中に出産。赤ちゃんは死亡。預けた長男も死亡。「南洋帰りには何の賠償もない」〔19:07 - 2018年4月5日



(44)44:硫黄島から三田春次さんは生還した。海軍航空機整備兵。「戦うよりも逃げ惑うほうだった」。召集前は群馬県で郵便局に勤め、額面100円の戦時国債を資産家に売った。臀部の傷跡は手りゅう弾の破片で負傷後、米軍捕虜となり摘出してもらった傷跡だ。捕虜になったとは父にも兄にも話せなかった。〔22:16 - 2018年4月8日



(45)三橋國民さんは造形美術家。西部ニューギニア戦線で飢餓と空襲で力尽き帰らぬ人となった僚友の鎮魂のため作品を造ってきた。死期を悟った伍長が銃を口にくわえ、足の指で引き金を引き自決する瞬間を描いた絵もある。浮腫とマラリア熱で死の予感に襲われ、母の顔が空中に浮かび正気に戻ったとも。〔18:41 - 2018年4月9日




(46)46:沖縄戦当時6歳だった新里浩さん。米軍の猛攻撃の中を30代の両親と子ども5人で逃げた。ガマに逃げ込もうとしたら抜刀した日本兵に追い払われ、砲弾の破片で母が「やられたよ」と死んだ。収容所で父は病死。残された戦争孤児5人は米軍のゴミ捨て場に通った。「人格形成に戦争の傷跡が影響したよ」〔22:03 - 2018年4月11日



(47)沖縄戦で日本軍の組織的戦闘が終了後も島民の命がけの避難生活は続いた。通信隊見習いだった仲松庸全さんは、ガマで日本軍将校が泣き止まない女の子をピストルで射殺するのを目撃。7月下旬、シャツで作った白旗を手に米軍に投稿しようとしたら、「国賊」「非国民」と罵声と共に将校が斬りつけてとも。〔9:33 - 2018年4月12日



(48)石垣島などの八重山諸島で起きた「戦争マラリア」は日本軍守備隊による軍命で無病地から有病地に強制的に疎開させられた島民3600人が病死した悲劇。大半が敗戦の8月以降に亡くなった。波照間島の大泊ミツフさんは幼子二人を含む16人の家族親族を失った。自ら発病し我が子を看取れなかったと悲しむ。〔19:56 - 2018年4月15日



(49)下門よしさんも米軍上陸前からガマからガマへ赤ちゃんを抱き避難。ガマで我が子を泣かせまいと口をおっぱいでふさいだりしたが、赤ちゃんは衰弱死。夫が戦後に台湾から生還後、米軍の弾薬箱と墓地の棺桶を床板に、米軍のテント布を屋根と壁に使用し家にした。夫には赤ちゃんの死の経緯を60年話せず。〔14:28 - 2018年4月18日



(50)「兵隊はみんな人殺しするだけ」と徴兵を免れた祖父の生き方を受け継いだ鳥海豊さん。小学生の頃から暗いところで字を読み目を悪くし徴兵猶予に。大型クレーン車を操る特殊免許で横須賀海軍工廠でドッグを築造。戦後、米海軍基地としてドッグは米戦艦や空母の修理に活用され、鳥海さんを嘆かせた。〔9:59 - 2018年4月20日



(51)山崎一郎さん(仮名)は陸軍入隊するまでの4年、神奈川県寒川町の相模海軍工廠で毒ガス兵器製造に従事。イペリット(マスタード)500kgの弾体充填作業で30数本に充填。誰もが喉がヒリヒリ痛み咳が出て目が充血した。「徴兵されたから生き残った。半年長引けば命はなかったか健康体ではなかったと思う」〔12:16 - 2018年4月22日



(52)藤本安馬さんが15歳で入所した養成所は瀬戸内海の大久野島にあり島全体が秘密の毒ガス製造工場だった。東京第二陸軍造兵廠技能者養成所忠海分所。藤本さんはびらん性毒材のルイサイト主原料を製造し、毒ガス障害者認定されたのは95年と遅かった。「私は毒ガスの被害者である前に加害者である」と強調。〔8:37 - 2018年4月24日



(53)前田禎造さんは人間魚雷「回天」特攻隊要員。日大で学徒動員され海軍入団。搭乗訓練は二度受けたが出撃要員は10数回の訓練を受けた者。15人が訓練中事故死した。回天発案者の一人は長野県佐久市出身の仁科関夫少尉。隣町出身の前田さ中心に「回天の碑」を建立。「我が党は日の丸党です」と前田さん。〔8:27 - 2018年4月25日



(54)54:岡田純さんは「回天」で二度出撃し生還。呉服屋の丁稚奉公から予科練に。単独搭乗訓練15回を経て出撃要員に。45年5月末、敵艦隊発見後に発進命令出たがエンジン点火せず帰投。二度目は7月19日に出撃。敵艦見つからず帰投したのは8月15日。復員後、長兄はビルマで次兄がサイパン島で戦死と知る。〔9:26 - 2018年4月28日



(55)約100万人が家も家財も一夜で奪われた東京大空襲後、米軍による主要都市への無差別空襲が5ヵ月続く。戦争指導者が戦争終結を遅らせたためだ。被爆者含め11名の空襲を生き延びた体験者を拙著で取り上げた。墨田区の大井さな江さんは長男誕生後に夫が召集。東京大空襲は赤ちゃんをお腹に抱えて耐えた。〔21:10 - 2018年4月29日



(56)豊村美恵子さんは10万人が犠牲となった東京大空襲で両親姉弟を失い、中3の弟と戦争孤児となった。敗戦直前、8月3日の国鉄赤羽駅に停車中車両内で不運にも米機の機銃掃射で右腕を奪われ身体障害者に。「一度でいいから大変でしたねと国には謝ってほしい。落下爆弾の違いで犠牲の尊さが違うのですか」〔8:21 - 2018年5月6日



(57)三菱発動機などの軍需産業が密集していた名古屋は44年12月以来、空襲に襲われた。羽田明子さん17歳の頃、連日の空襲で1月には家が焼失。死者2000人超の6月9日の空襲では広場に大根を並べるように死体が置かれていたという。6月26日、家の前にいた父を含め3人が爆弾で即死。母が脳みそを戻したという。〔16:54 - 2018年5月13日



(58)二年前に101歳で逝去した杉山千佐子さんは45年3月の名古屋大空襲で左目喪失、左手にも後遺症を負った。軍人軍属は手厚く援護し、民間人の戦災障害者は国は助けない。「内地も戦場と認めて」と戦時災害援護法制定を国に訴え続けた。
「援護法を作っておけば国民を塵芥のように使い捨てできなくなる」〔20:37 - 2018年5月15日



(59)45年3月13日の大阪大空襲で焼夷弾の油脂を浴び顔手足に大火傷を負った濱田栄次郎さん。死者合計約15000人を出した大阪空襲による戦災障害者の一人。火傷治療は奈良の病院で受け11月に退院。植皮手術をその後にしたが右手首は曲がったまま。「国が私らの人権を認めて悪かったというてくれ」と国を提訴。〔23:39 - 2018年5月19日



(60)最初の大阪大空襲は3月13日。死者約4000名、被災者約50万名。伊賀孝子さんは当時13歳。母は焼夷弾の直撃で弟は火傷で二日後に死亡。自身も顔などに火傷を負う。浪速区は焼失。「私は遺族と障害者の両方、戦災孤児の気持ちもわかる」。奔走して約6000名分の死没者名簿を集めピースおおさかに寄託した。〔8:39 - 2018年5月20日



(61)「優秀な者ばかり先に死んでいる。俺はつくづけ運が強いなあと思う」。群馬県出身の関口喜代治さんは輸送船機関士として乗り込んだ船が三度沈没し三度助かった。三度目は敗戦後の9月、引揚げ船勤務で満州に向かい門司港出港。関門海峡に米軍が敷設した音響機雷で船が爆発。同僚16人が戦後に海没した。〔20:58 - 2018年5月31日



(62)益永スミコさんは戦中は産婆だった。「みんな洗脳され無事に子どもを産ませることが銃後の奉公だと信じた」。愛知県の病院で組合を結成し従順な生き方に決別。「女は男を送り出し、殺し尽くさせ餓死させた。国は反省しない。原因は自分たちにある。もうそんな世の中にしないことが私らの生きる道です」〔23:08 - 2018年6月1日



(63)爆心から870mの広島一中で被爆した兒玉光雄さんは急逝原爆症を脱してからは60歳まで大病を患うことはなかった。しかし、60歳で直腸がん、63歳で胃がん切除。65歳で皮膚がん、70歳では甲状腺がんを切除。その後も皮膚がんは場所を変え発症。専門家は兒玉さんの被爆量は4.5シーベルト相当と推定。〔8:07 - 2018年6月4日



(64)星埜惇さんは学徒動員され広島原爆投下の日は食糧調達のために呉市へ電車で向かった。瞬間、電車の鎧戸を通し真っ青な光を左目に感じた。翌日から広島市内に入って寮生を探す救出活動。軍の命令で遺体焼却を三日間続けた。「人間ではなくなって鬼になっていた。死に対して無感覚の自分自身に気づいた」〔8:28 - 2018年6月5日



(65)久保美津子さんは爆心から約2キロの路上でピカで投げ飛ばされ顔の左側と左肘を焼かれた。爆風の直撃は受けなかった自宅は大きく傾きガラスは吹き飛んだ。急性原爆症を発症したが看護婦の母が看護し田舎で静養。久保さんは被爆者をモルモット扱いしたABCC(原爆障害調査委員会)の血液検査を拒否した。〔8:32 - 2018年6月6日



(66)長崎原爆の爆心から1.7キロの祖父の家で被爆した深堀寛治さん。1年前の夏はグラマンによる機銃掃射で命拾いもした。原爆投下の瞬間は大きな鞭で体を叩かれたような衝撃を受け瓦礫の下敷きから這い出した。体の右側に熱線を浴び火傷の皮膚は溶けた。意識不明状態は10月頃に脱したが倦怠感が続いた。〔8:22 - 2018年6月7日



(67)戦後何十年経とうと国は被爆者の差別化を止めない。認定に消極的な国に対し原爆症認定集団訴訟の原告の一人となった山本英典さんは長崎原爆の爆心から4.2キロの家裏庭で被爆。「音もなく真っ白なベールで全身が覆われた」。山本さんは60歳で原因不明の大量下血するまで大病せず、数年後に胃がん摘出。〔23:14 - 2018年6月12日



(69)拙写真集からの連ツイ後二人。畏敬する報道写真家の福島菊次郎さんの戦後は6日間の違いで広島原爆を免れたことと一人も殺さなかったことで決定づけられた。広島から貨物列車で日南海岸に移動し米軍上陸を想定した自爆訓練で敗戦。「同級生の半分近くが戦死。ボクも軍国主義に追随し侵略戦争に加担」〔20:52 - 2018年7月5日



福島菊次郎さんのことに関しては、

次のように文章を補うツイートが二つ付いている。

――戦後、菊次郎さんは時計店を営み、原爆症と極度の貧国に翻弄される中村杉松さん一家を克明に取材。「ピカドンーある原爆被災者の記録」を出版し上京。ベトナム反戦運動や全共闘など警察権力に立ち向かう若者を徹底取材し気づかされた。「若い頃は国のいうことを鵜呑みにしていた自分が阿呆だった」〔20:58 - 2018年7月5日 〕――

――「靖国神社は若者を死地にかりたて、ボロ布のように使い捨てた軍国主義の大量殺人装置以外の何ものでもなかった」
これは「天皇に二度殺されかけた」と話す生前の菊次郎さんの実感のこもった名セリフだ。
写真は東電福島原発事故から半年後、福島県南相馬市の大津波の現場を案内した時のもの。〔21:04 - 2018年7月5日 〕――

(70)連ツイ70人目は角田三郎さん。陸軍航空士官学校から戦闘機操縦士となった角田さん。次兄は海軍航空隊操縦士となりラバウルで戦死。「母などの影響を受けながら戦争が正しいと思いこんでいた。私も削岩機先端の人造ダイヤモンド。国は純粋無垢な若者を戦争集団の戦闘に立つために罪の意識を奪い育てた」〔11:18 - 2018年7月7日



こんな補説が最後に続く。

――続)満州で偵察訓練中に敗戦。長兄は根こそぎ動員で関東軍入隊し戦病死。父は満州からの引揚船で病死。侵略戦争と天皇家を肯定しないと家族の死と自分の生が無意味となる矛盾に苛まれ戦後2年間が独りぼっちで苦しかったという。牧師となった角田さんは靖国に合祀された二人の兄の合祀取消を求めた。〔11:26 - 2018年7月7日



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