九州神社紀行-ブログ

北九州近郊を中心に神社および周辺風景の撮影日記です。

光雲神社(福岡市中央区)

2007-04-01 16:41:47 | 神社参拝ー福岡
 光雲神社(福岡市中央区)を掲載しました。

 光雲神社(てるもじんじゃ)
【鎮座地】〒810-0061 福岡県福岡市中央区西公園13-1  旧筑前国 早良郡
【御祭神】黒由勘解由次官孝高(法名 龍光院殿)
     筑前守黒田長政  (法名 興雲院殿)
【例祭】 1月1日 歳旦祭 4月20日 春季大祭 10月4日 秋季大祭
【旧社格等】 県社 現別表神社
【御由緒】
  光雲神社略記
「法謚の名一字を採り光雲神社と名付ける」両神霊の末裔旧藩主、黒田嗣高公の代から福岡市舞鶴城内に勧請したのを維新以来旧藩四民がその恩沢を追慕して、
 明治四年廃藩置県のさい、黒田家が東京に移転されるに及んで有志らが十一代の藩主従二位長溥公へ、懇願し、許可を得て明治四年八月旧社地の小烏吉祥院跡へ城内本丸天守台下の祠堂より奉遷し明治八年三月県社に昇格、
 同四十年四月一日西公園に新社殿落成し、移転遷座、
昭和二十年六月十九日戦災を受け、昭和四十一年十月三十日復元、
昭和四十一年二月一日別表加列。
以上
(平成祭データ)

  一の鳥居
福岡城跡の北側、市営地下鉄「大濠公園駅」から徒歩10数分の、かつて荒津山とよばれていた桜の名所「西公園」の山頂にあります。

 注連縄から拝殿
注連縄をくぐると右手に手水舎、正面に社殿、左に社務所があります。

  手水舎
関が原の合戦時の逸話がある黒田長政の「黒漆塗桃形大水牛脇立兜」を模したブロンズ製の手水舎。 

 幸運の兜の由来
慶長五年(一六〇〇年)関ケ原戦に徳川方の先陣を承った黒田勢は、旧岐阜市の東、合渡川に進出した。連日の雨で増水したのを家臣後藤又兵衛の進言で、夜中、強行渡河が決まった。ところが、長政公の乗馬が足を滑らせ、危うく河中に転落の刹那、川辺に立つ柳の枝に水牛の兜の緒がかかり幸運にも難を避けることを得ました。この勢いに黒田勢の士気があがり関ケ原天下分け目の戦いの勝利に大いなる役割を果たすことができました。

母里但馬守太兵衛友信像
 黒田二十五旗の一人、智勇兼備の武将で主君長政公の命を受けて福島正則公に使いしたとき、禁酒の太兵衛が、なみなみと注がれた大杯の酒を自若として飲み干し、太閤秀吉より拝領の福島家、家宝「名槍日本号」を持ち帰った話は有名であります。
 なお、像の下部には全国で親しまれている「黒田節」の歌詞が刻まれています。

 拝殿

  天井の謡鶴(うたいづる)
光雲神社拝殿の大井に描かれためでたい雌雄の丹頂鶴の画は、舞鶴の地名に因んで、木原 信画伯により描かれたものです。
 お賽銭をあげて参拝されますと鶴の声がきこえます。
その一声に託してあなたの幸運が開けますように。

 拝殿前の狛犬なぜか後ろ向きになっています。  

   本殿
 昭和二十年六月十九日戦災を受け、昭和四十一年十月三十日復元されました。

 末社 荒津神社
御祭神:大己貴命、国常立尊、正哉吾勝尊、国狭槌尊、伊弉冊尊、瓊瓊杵尊、惶根尊

  摂社 堅盤神社
 黒田家一族(黒田重隆公(孝高祖父)、職隆公(孝高父)忠之公(長政子、二代藩主)、阿津姫が祀られています。

 横綱柏戸関の力石

 境内から参道大濠公園方面の展望
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