いよいよ最後の行程、下山です。胎蔵界護摩場跡、五窟を巡り、行者帰りの路を経由して出発地の駐車場に戻ります。
上りよりも下りの方が危険です。気を引き締めて出発しました。
13:11 胎蔵界護摩場跡0.4km、座主坊園地1.1kmの標識
社前右にあります、標識に従い左に下ります。
13:15 結界石上宮から数分降りた所にあります。
次郎坊峠の朱の橋のたもとにもありましたが、俗界と浄界を区切る目印の石です。この辺はかなり岩も多くなり急な坂道です。
13:19 胎蔵界護摩場跡
頂上から10分ほどで到着しました。鬱蒼とした附近を探索しましたが、護摩壇の跡らしきものは発見できませんでした。
密教で最も尊ばれる仏は大日如来です。その仏のすばらしさを表現したのが金剛界・胎蔵界の二つの世界です。胎蔵界は大日如来の胎内にある宇宙の真理であり、同時に行者を仏の赤子として包み込み、正しい道に進むように導く世界です。金剛界はその真理と一体になるための方法(智慧)を表しています。
また、護摩とは火を焚いて仏に祈る儀式です。したがって護摩場や護摩壇はそうした儀式が行われた場所をいいます。
密教では護摩壇で護摩を焚いて、願いがかなうためや悪い迷いが消えるように仏に祈りますが、この護摩場跡は、修験道独自の外護摩と呼ばれ、屋外で護摩を焚いていた場所です。丸太を四角い井桁に組み上げて、生命力を表わす青いヒノキの葉で覆った護摩壇を築き、本尊の大日如来をはじめ諸尊の供養が行われていました。 胎蔵界護摩と対になる金剛界護摩は、求菩提山六峰の第一である如法寺の山頂にある護摩壇で焚かれていました。
求菩提山以外では、英彦山六峰の一つ松尾山(上毛町)に完全な形で護摩壇が残されており当時を偲ぷことができます。
(現地案内板より
虎の宿跡0.8km、求菩提山0.4km、座主坊園地1.7kmの標識があります。
ここから、座主坊園地方面に下り五窟巡りのコースに向かいます。
13:32 大日窟(第一窟)
岩の多い下り坂を進むと、左手に岩壁が続く道にでます。一番目は大日如来を祀った「大日窟」別名「金剛窟」です。
修験道の中心に位置するのが大日如来です。密教では宇宙(曼荼羅)の中心に位置する仏が大日如来で、すべての諸仏、諸尊を統一するものとされています。金剛界曼荼羅では衆生を悟りへと導く仏の知恵を、胎蔵界曼荼羅では万物を宿し育む仏の慈悲を象徴していると言われます。求菩提山でもその中心として求菩提五窟の第一窟に、大日如来坐像(金剛界)を祀っていました。平安時代後期の作と考えられる尊像は秀麗で、現在は保存のため求菩提資料館で展示されています。
(現地案内板より)
13:39 岩壁 見上げるような切り立った岩の間から清水がにじみでています。
もっと水量が多く寒くなると凍りついたつららが見られそうです。
13:41 普賢窟(第二窟)
続いて2番目は、平安時代末に作られた国宝「銅板法華経が発見された「普賢窟」別名「胎蔵窟」です。
求菩提修験道は天台宗との関係が深く、その教えの中心となったのが法華経です。その意味は「白蓮華にたとえられる正しい教え」で、平安時代には最も多く信仰されていました。求菩提山では康治元年(1142)に僅・頼厳により銅板法華経が製作され、大永元年(1527)に普賢窟から発見されたと記録にあります。国宝「銅板法華経」は、過去へのタイムカプセルとして、その教えを伝えようとしたものといえます。
(現地案内板より)
13:48 多聞窟(第三窟)
3番目は、多聞天=毘沙門天を祀る多聞窟です。
求菩提山には修験者(山伏)たちが厳しい修行に挑んだ場所として、窟と呼ばれる洞穴のような岩陰がたくさんあります。その中心となるのが求菩提五窟で、記録によれば大日窟、普賢窟、多聞窟、吉祥窟、阿弥陀窟と呼ばれていたことがわかります。これらは金剛界、胎蔵界からなる両界曼荼羅の世界を現しているともいわれ、密教と深いかかわりのある修験道の世界を特徴づけています。
多聞天は四天王の一つで、北の方角を守護する役割を担っています。求菩提五窟の配置を見るとき、その中心にあって大日窟と普賢窟を守る役割を持つと考えられています。
(現地案内板より)
13:51 吉祥窟(第四窟)
4番目は、岩の割れ目に法華経の入った経筒が納められた「吉祥窟」別名「法華窟」です。
修験道は日本の山岳信仰と、密教、道教が結びついて成立したといいます。特に陰と陽の相反する概念で説明される陰陽五行思想は、原始信仰に見る輪廻、再生とも結びつき、修験道の重要な思想となりました。一方、求菩提山では平安時代末期にさかかんに経筒が製作され、納経が行われます。経筒の納経方法は単に理納するだけではなく、岩窟納経なども見られ、陰を現わす吉祥窟の背後岩壁の割れ目に経巻が挿入されている様子を、後世に描かれた絵図により知ることができます。その後確認された経筒には保延六年(1140)の銘が確認されています。
(現地案内板より)
.
13:53 求菩提資料館1.0kmの標識
ここでまた大失敗、標識に従い下ってしまい5番目の「阿弥陀窟」を見逃してしまいました。
阿弥陀窟はもうしばらく直進した所にあり、ここに引き返して下山が正解でした。
14:12 山伏の帰り道
かなり下ってきましたが、ここまで勾配もきつく岩の段差も高く、古傷の右ひざがおかしくなり、カメラもリュックに収納し撮影はあきらめました。
この後も、ジグザグに続く段差の高い大きな自然石の階段が続き、沢音が聞こえ、樹木の間から道路が見えてきてほっとしました。
この後、近くにある求菩提温泉「卜仙の郷」に立ち寄り、疲れを癒してきました。
ここには、小さいですが露天風呂もあり、今登ってきた求菩提山も望めます。アルカリ性単純温泉で入浴料金¥400です。
久しぶりの登山でかなりきつかった(特に最後の山伏の帰り路は)ですが、清々しい気分に浸れました。
今回の反省点は団体行動で幹事に頼り、あまり事前調査をしなかったことです。次回からは事前調査をしっかりやろうと思います。
次回を約束して帰路に着きました。
上りよりも下りの方が危険です。気を引き締めて出発しました。
13:11 胎蔵界護摩場跡0.4km、座主坊園地1.1kmの標識
社前右にあります、標識に従い左に下ります。
13:15 結界石上宮から数分降りた所にあります。
次郎坊峠の朱の橋のたもとにもありましたが、俗界と浄界を区切る目印の石です。この辺はかなり岩も多くなり急な坂道です。
13:19 胎蔵界護摩場跡
頂上から10分ほどで到着しました。鬱蒼とした附近を探索しましたが、護摩壇の跡らしきものは発見できませんでした。
密教で最も尊ばれる仏は大日如来です。その仏のすばらしさを表現したのが金剛界・胎蔵界の二つの世界です。胎蔵界は大日如来の胎内にある宇宙の真理であり、同時に行者を仏の赤子として包み込み、正しい道に進むように導く世界です。金剛界はその真理と一体になるための方法(智慧)を表しています。
また、護摩とは火を焚いて仏に祈る儀式です。したがって護摩場や護摩壇はそうした儀式が行われた場所をいいます。
密教では護摩壇で護摩を焚いて、願いがかなうためや悪い迷いが消えるように仏に祈りますが、この護摩場跡は、修験道独自の外護摩と呼ばれ、屋外で護摩を焚いていた場所です。丸太を四角い井桁に組み上げて、生命力を表わす青いヒノキの葉で覆った護摩壇を築き、本尊の大日如来をはじめ諸尊の供養が行われていました。 胎蔵界護摩と対になる金剛界護摩は、求菩提山六峰の第一である如法寺の山頂にある護摩壇で焚かれていました。
求菩提山以外では、英彦山六峰の一つ松尾山(上毛町)に完全な形で護摩壇が残されており当時を偲ぷことができます。
(現地案内板より
虎の宿跡0.8km、求菩提山0.4km、座主坊園地1.7kmの標識があります。
ここから、座主坊園地方面に下り五窟巡りのコースに向かいます。
13:32 大日窟(第一窟)
岩の多い下り坂を進むと、左手に岩壁が続く道にでます。一番目は大日如来を祀った「大日窟」別名「金剛窟」です。
修験道の中心に位置するのが大日如来です。密教では宇宙(曼荼羅)の中心に位置する仏が大日如来で、すべての諸仏、諸尊を統一するものとされています。金剛界曼荼羅では衆生を悟りへと導く仏の知恵を、胎蔵界曼荼羅では万物を宿し育む仏の慈悲を象徴していると言われます。求菩提山でもその中心として求菩提五窟の第一窟に、大日如来坐像(金剛界)を祀っていました。平安時代後期の作と考えられる尊像は秀麗で、現在は保存のため求菩提資料館で展示されています。
(現地案内板より)
13:39 岩壁 見上げるような切り立った岩の間から清水がにじみでています。
もっと水量が多く寒くなると凍りついたつららが見られそうです。
13:41 普賢窟(第二窟)
続いて2番目は、平安時代末に作られた国宝「銅板法華経が発見された「普賢窟」別名「胎蔵窟」です。
求菩提修験道は天台宗との関係が深く、その教えの中心となったのが法華経です。その意味は「白蓮華にたとえられる正しい教え」で、平安時代には最も多く信仰されていました。求菩提山では康治元年(1142)に僅・頼厳により銅板法華経が製作され、大永元年(1527)に普賢窟から発見されたと記録にあります。国宝「銅板法華経」は、過去へのタイムカプセルとして、その教えを伝えようとしたものといえます。
(現地案内板より)
13:48 多聞窟(第三窟)
3番目は、多聞天=毘沙門天を祀る多聞窟です。
求菩提山には修験者(山伏)たちが厳しい修行に挑んだ場所として、窟と呼ばれる洞穴のような岩陰がたくさんあります。その中心となるのが求菩提五窟で、記録によれば大日窟、普賢窟、多聞窟、吉祥窟、阿弥陀窟と呼ばれていたことがわかります。これらは金剛界、胎蔵界からなる両界曼荼羅の世界を現しているともいわれ、密教と深いかかわりのある修験道の世界を特徴づけています。
多聞天は四天王の一つで、北の方角を守護する役割を担っています。求菩提五窟の配置を見るとき、その中心にあって大日窟と普賢窟を守る役割を持つと考えられています。
(現地案内板より)
13:51 吉祥窟(第四窟)
4番目は、岩の割れ目に法華経の入った経筒が納められた「吉祥窟」別名「法華窟」です。
修験道は日本の山岳信仰と、密教、道教が結びついて成立したといいます。特に陰と陽の相反する概念で説明される陰陽五行思想は、原始信仰に見る輪廻、再生とも結びつき、修験道の重要な思想となりました。一方、求菩提山では平安時代末期にさかかんに経筒が製作され、納経が行われます。経筒の納経方法は単に理納するだけではなく、岩窟納経なども見られ、陰を現わす吉祥窟の背後岩壁の割れ目に経巻が挿入されている様子を、後世に描かれた絵図により知ることができます。その後確認された経筒には保延六年(1140)の銘が確認されています。
(現地案内板より)
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13:53 求菩提資料館1.0kmの標識
ここでまた大失敗、標識に従い下ってしまい5番目の「阿弥陀窟」を見逃してしまいました。
阿弥陀窟はもうしばらく直進した所にあり、ここに引き返して下山が正解でした。
14:12 山伏の帰り道
かなり下ってきましたが、ここまで勾配もきつく岩の段差も高く、古傷の右ひざがおかしくなり、カメラもリュックに収納し撮影はあきらめました。
この後も、ジグザグに続く段差の高い大きな自然石の階段が続き、沢音が聞こえ、樹木の間から道路が見えてきてほっとしました。
この後、近くにある求菩提温泉「卜仙の郷」に立ち寄り、疲れを癒してきました。
ここには、小さいですが露天風呂もあり、今登ってきた求菩提山も望めます。アルカリ性単純温泉で入浴料金¥400です。
久しぶりの登山でかなりきつかった(特に最後の山伏の帰り路は)ですが、清々しい気分に浸れました。
今回の反省点は団体行動で幹事に頼り、あまり事前調査をしなかったことです。次回からは事前調査をしっかりやろうと思います。
次回を約束して帰路に着きました。
はじめまして
ぼくも
拝見しました。
ぼくも阿弥陀窟を見逃した一人です。
そうはいっても こんなにうじゃうじゃ窟や禊場が残る修験の山は九州ならではですね。
現在 関東に住んでいますが、
ここまで残っていて、のんびり利用者の少ない山は少ないです。
これからは新緑が、そしてしゃくなげがきれいですよ
「京築まるごとナビ」拝見しました。
地域の活動にいろいろとご活躍のようですね。
今後の参考にさせていただきます。
最近山歩きもご無沙汰ですが、これからぼちぼち再開したいと思っています。福岡県には低山の山頂に神社の奥宮も多くあり興味がつきません。
今後とも宜しくお願いいたします。