三坂神社(山口県山口市)を掲載しました。
三坂神社(みさかじんじゃ)
<通称>三坂さま(みさかさま)
【鎮座地】〒747-0233 山口県山口市徳地岸見字樋ノ口557 旧周防国 佐波郡
【御祭神】大國主大神 事代主大神
(配祀)速玉之男神 道反大神
(合祀)素盞嗚尊 大歳神 埴山姫命
【例祭】4月5日 例祭
【旧社格等】式内社 周防國佐波郡 御坂神社
旧県社
【御由緒】
三坂神社 御由緒
御祭神 大国主命。事代主命。
一、御創立の年月日は、詳しくはわからないが、大体千三百年前ごろと推察される。
一、a延喜式に「周防国十座、佐波郡六座三坂神社」とあり。
a延喜式は平安初期に施行された諸制度の編纂書、撰者は藤原時平ら927年完成。
一、周防国名所私記に「三坂神社は玉祖郷の内劔神社より二里ばかり川上の山中に在り」とあり。
一、東大寺正倉院御文書に「b天平十年周防国正税帳に御神命ありて、佐波郡三坂神社に春秋祭祀料又、神社改造の雑用等を充て奉らしめ給ふ」とあり。
b天平十年は739年聖武天皇の時代
一、c続日本後記に「承和六年(839)閏正月周防国無位三坂神に従五位を授け奉る」とあり。
c日本後記は桓武天皇(792)から淳和天皇の天長十年(833)までをしるした漢文編年体の史書。840年撰進された。
一、d三代実録に「貞観九年(867)三月周防国従四位下三坂神に従三位を授く」とあり。
d日本三大実録ともいい清和、陽成、光孝三代天皇の時代(858~887)を扱った勅撰の歴史書。
一、e長寛勘文に「天慶三年(940)〔平将門のころ〕二月諸神社位記請印の事あり、去る承平五年(935)海賊を平ぐる事を十三社に祈り申す。三坂神社に正三位を加ふ」とあり。
e長寛は二条天皇の代の年号。
一、f源平盛衰記に「永保元年(1081)二月神位一階を増し奉らる。永治元年(1141)九月に、治承四年十二月に、元暦二年三月に各一階を増し奉らる」とあり、正一位に進ませ給ふ。
f鎌倉後記の軍記。四八巻。作者は玄琶法師とも伝えられる。
一、萬葉集に「千早振る神の三坂に幣(ヌサ)奉り祝ふいのちはおも父かため」とあり。今も古式奉幣の儀に三 唱する。
一、防長風土注進案11に「足利尊氏西国に走る途次、三坂神社に参り久しく籠りて開運を祈願し御社の北の所で能楽を奏し御神意を慰め奉り(今も「おのう原」の地名あり)神馬馬具を献納せり」とあり。参道に敷いてある石畳は尊氏が敷いたといふ。
一、右と同じ11に豊臣秀吉公三坂神社に参り五色の吹貫等を献納し、数日当社の釣鐘を借りて用い九州博多まで持婦り過ぎて石州津和野永明寺に返したるものなり。
鐘の銘に--周防国裟摩郡岸見村 三坂神社
○銅頭鉄額 有口不言 等閑觸着 音震乾坤 覚長衣夢 破夢明昏 普今群類 入国通門 應永二歳八月十五日 再興十方施主大工 大和光用
一、萩藩主ニノ鳥居献納、銘に「延喜式内三坂神社(中略)大江侍従吉廣元禄十一年(1698)戊陽月」とあり。
一、明治六年郷社に列せられる。明治十七年一の鳥居建立(氏子奉献)明治三十五年神殿銅板葺替え。
一、公爵毛利元昭閣下大正四年四月二十日御参拝。拝殿に献額
一、大正八年四月五日県社に列せらる。
一、支那事変から大東亜戦争中武連長久祈願のための参拝者数知れず、野尻防石鉄道岸見駅より社頭まで一キロの道を延々人並みが続いた。一日の最高祈願数は八百八十と云ふ。昭和十九年七月七日サイパン島守備隊玉砕の日、参拝者の重みのためか中殿の座がくずれ落ちると同時に境内の椎の大木がさけたという事もある。
一、昭和二十年終戦の年十二月国教分離により社格削除される。
一、昭和二十一年六月占領軍のMPの臨検を受けた。参拝者名簿は事前に焼却し、参拝者の写真(武運長久祈願)は送り返し、残りは隣家の床下に隠して無事であった。現在約一万二千は地区別に整理し関係書類と共に奉安所を設けて保管してある。(平成十六年)
一、昭和二十八年宗教法人制となり、氏子又は崇教者により推持運営されることになる。
一、昭和三十年十二月式年大祭執行。しゃぎり等で賑わう。
一、昭和三十三年社号碑(題字揮毫 初代町長伊藤三樹三氏 築庭岡本仁三郎氏 石工島田清氏)同三十五年演舞場建設 岸元首相参拝される。
一、昭和五十四年神木と称えられた「オオマツ」が枯れ、伐切売却し、その年拝殿・中殿・釣殿を銅版にし、神殿・中殿の壁を修理した。
一、武運長久祈願写真の名簿を作製13冊に及ぶ。NHK全国放送(二月~三月)のため参拝者が急に増えた。
一、昭和五十五年十一月式年大祭(千二百五十年祭)齋行。
神徳碑[揮毫 神奈川県亀田秋陽先生(野尻出身)・彫刻(中山)枝光勇氏・築庭(土井)竹本隆政氏]を建立し、その下に写真名簿のコピーを埋納した。
一、昭和六十年一月からKRYテレビ「写真の中の日本人」などで紹介されて、全国的に知名度が高まった。
一、平成三年九月台風十九号により建物・樹木に甚大な被害を受けた。
一、平成七年三月、終戦五十周年を記念して氏子から献納された石で参道を改修した。(石工坂本次男氏 武吉和男氏 種田信明氏)「平和の礎]と呼称する。NHK全国放送。
一、平成十四年から社務所改築の計画に依り氏子中の奉賛にて平成十六年四月竣工した。駐車場も完成(佐伯建設 川本工務店)
一、平成十七年八月終戦六十周年写真のことNHK・KRY放映。同年十月式年大祭(千二百七十五年祭)齋行。
一、 戦後六十年経過しても尚写真探しの参拝者が全国からあり、他には方災除や交通安全祈願も数を増してきている。尚、奉納実行委員会や八々会○友会など祭を盛んにしようという若い気運の盛り上がりも高齢社会の中で」いっそう期待される。
平成十七年十月(宮司 佐伯治典謹白)
(神社由緒書きより)
山口市東南部、防府市との境の徳地岸見にあります。県道防府徳地線の岸見バス停から西に入った旧道から参道が続いています。
石畳の参道途中の二の鳥居
元禄十一年(1698)の萩藩主により献納されました。石畳は西国への途中参拝された、足利尊氏により敷かれたと云われています
参道から拝殿
左に手水舎、一段高い位置に社殿が配置されています。
拝殿
拝殿の扁額
大正4年(1915)4月20日、公爵毛利元昭御参拝、この時に献額されました。
鈴緒出征軍人を送る幟旗を数十本束ねて綱巻きしてあります。紀元2600年記念の奉納です。
釣殿下の神様恵比須様?その他わかりません。
拝殿、中殿と本殿は釣殿(幣殿)で結ばれています。下に小さな神様が祀られています。
本殿
流造、銅板葺、神紋は劒三つ星
神徳顕彰碑
記
日華事変・大東亜戦争中武連長久弾丸除け祈願の参拝者全国津々浦々より数万もあり、戦後も参拝者陸続としてあり今や御神徳全国に響いていることを顕彰するものなり。
写真名簿碑下に埋納する。
揮毫 神奈川県 亀田秋陽
彫刻 中山 枝光 勇
築庭 土井 竹本隆政
昭和五十五年十一月 式年大祭
(案内板より)
社殿全景
拝殿から参道
三坂神社(みさかじんじゃ)
<通称>三坂さま(みさかさま)
【鎮座地】〒747-0233 山口県山口市徳地岸見字樋ノ口557 旧周防国 佐波郡
【御祭神】大國主大神 事代主大神
(配祀)速玉之男神 道反大神
(合祀)素盞嗚尊 大歳神 埴山姫命
【例祭】4月5日 例祭
【旧社格等】式内社 周防國佐波郡 御坂神社
旧県社
【御由緒】
三坂神社 御由緒
御祭神 大国主命。事代主命。
一、御創立の年月日は、詳しくはわからないが、大体千三百年前ごろと推察される。
一、a延喜式に「周防国十座、佐波郡六座三坂神社」とあり。
a延喜式は平安初期に施行された諸制度の編纂書、撰者は藤原時平ら927年完成。
一、周防国名所私記に「三坂神社は玉祖郷の内劔神社より二里ばかり川上の山中に在り」とあり。
一、東大寺正倉院御文書に「b天平十年周防国正税帳に御神命ありて、佐波郡三坂神社に春秋祭祀料又、神社改造の雑用等を充て奉らしめ給ふ」とあり。
b天平十年は739年聖武天皇の時代
一、c続日本後記に「承和六年(839)閏正月周防国無位三坂神に従五位を授け奉る」とあり。
c日本後記は桓武天皇(792)から淳和天皇の天長十年(833)までをしるした漢文編年体の史書。840年撰進された。
一、d三代実録に「貞観九年(867)三月周防国従四位下三坂神に従三位を授く」とあり。
d日本三大実録ともいい清和、陽成、光孝三代天皇の時代(858~887)を扱った勅撰の歴史書。
一、e長寛勘文に「天慶三年(940)〔平将門のころ〕二月諸神社位記請印の事あり、去る承平五年(935)海賊を平ぐる事を十三社に祈り申す。三坂神社に正三位を加ふ」とあり。
e長寛は二条天皇の代の年号。
一、f源平盛衰記に「永保元年(1081)二月神位一階を増し奉らる。永治元年(1141)九月に、治承四年十二月に、元暦二年三月に各一階を増し奉らる」とあり、正一位に進ませ給ふ。
f鎌倉後記の軍記。四八巻。作者は玄琶法師とも伝えられる。
一、萬葉集に「千早振る神の三坂に幣(ヌサ)奉り祝ふいのちはおも父かため」とあり。今も古式奉幣の儀に三 唱する。
一、防長風土注進案11に「足利尊氏西国に走る途次、三坂神社に参り久しく籠りて開運を祈願し御社の北の所で能楽を奏し御神意を慰め奉り(今も「おのう原」の地名あり)神馬馬具を献納せり」とあり。参道に敷いてある石畳は尊氏が敷いたといふ。
一、右と同じ11に豊臣秀吉公三坂神社に参り五色の吹貫等を献納し、数日当社の釣鐘を借りて用い九州博多まで持婦り過ぎて石州津和野永明寺に返したるものなり。
鐘の銘に--周防国裟摩郡岸見村 三坂神社
○銅頭鉄額 有口不言 等閑觸着 音震乾坤 覚長衣夢 破夢明昏 普今群類 入国通門 應永二歳八月十五日 再興十方施主大工 大和光用
一、萩藩主ニノ鳥居献納、銘に「延喜式内三坂神社(中略)大江侍従吉廣元禄十一年(1698)戊陽月」とあり。
一、明治六年郷社に列せられる。明治十七年一の鳥居建立(氏子奉献)明治三十五年神殿銅板葺替え。
一、公爵毛利元昭閣下大正四年四月二十日御参拝。拝殿に献額
一、大正八年四月五日県社に列せらる。
一、支那事変から大東亜戦争中武連長久祈願のための参拝者数知れず、野尻防石鉄道岸見駅より社頭まで一キロの道を延々人並みが続いた。一日の最高祈願数は八百八十と云ふ。昭和十九年七月七日サイパン島守備隊玉砕の日、参拝者の重みのためか中殿の座がくずれ落ちると同時に境内の椎の大木がさけたという事もある。
一、昭和二十年終戦の年十二月国教分離により社格削除される。
一、昭和二十一年六月占領軍のMPの臨検を受けた。参拝者名簿は事前に焼却し、参拝者の写真(武運長久祈願)は送り返し、残りは隣家の床下に隠して無事であった。現在約一万二千は地区別に整理し関係書類と共に奉安所を設けて保管してある。(平成十六年)
一、昭和二十八年宗教法人制となり、氏子又は崇教者により推持運営されることになる。
一、昭和三十年十二月式年大祭執行。しゃぎり等で賑わう。
一、昭和三十三年社号碑(題字揮毫 初代町長伊藤三樹三氏 築庭岡本仁三郎氏 石工島田清氏)同三十五年演舞場建設 岸元首相参拝される。
一、昭和五十四年神木と称えられた「オオマツ」が枯れ、伐切売却し、その年拝殿・中殿・釣殿を銅版にし、神殿・中殿の壁を修理した。
一、武運長久祈願写真の名簿を作製13冊に及ぶ。NHK全国放送(二月~三月)のため参拝者が急に増えた。
一、昭和五十五年十一月式年大祭(千二百五十年祭)齋行。
神徳碑[揮毫 神奈川県亀田秋陽先生(野尻出身)・彫刻(中山)枝光勇氏・築庭(土井)竹本隆政氏]を建立し、その下に写真名簿のコピーを埋納した。
一、昭和六十年一月からKRYテレビ「写真の中の日本人」などで紹介されて、全国的に知名度が高まった。
一、平成三年九月台風十九号により建物・樹木に甚大な被害を受けた。
一、平成七年三月、終戦五十周年を記念して氏子から献納された石で参道を改修した。(石工坂本次男氏 武吉和男氏 種田信明氏)「平和の礎]と呼称する。NHK全国放送。
一、平成十四年から社務所改築の計画に依り氏子中の奉賛にて平成十六年四月竣工した。駐車場も完成(佐伯建設 川本工務店)
一、平成十七年八月終戦六十周年写真のことNHK・KRY放映。同年十月式年大祭(千二百七十五年祭)齋行。
一、 戦後六十年経過しても尚写真探しの参拝者が全国からあり、他には方災除や交通安全祈願も数を増してきている。尚、奉納実行委員会や八々会○友会など祭を盛んにしようという若い気運の盛り上がりも高齢社会の中で」いっそう期待される。
平成十七年十月(宮司 佐伯治典謹白)
(神社由緒書きより)
山口市東南部、防府市との境の徳地岸見にあります。県道防府徳地線の岸見バス停から西に入った旧道から参道が続いています。
石畳の参道途中の二の鳥居
元禄十一年(1698)の萩藩主により献納されました。石畳は西国への途中参拝された、足利尊氏により敷かれたと云われています
参道から拝殿
左に手水舎、一段高い位置に社殿が配置されています。
拝殿
拝殿の扁額
大正4年(1915)4月20日、公爵毛利元昭御参拝、この時に献額されました。
鈴緒出征軍人を送る幟旗を数十本束ねて綱巻きしてあります。紀元2600年記念の奉納です。
釣殿下の神様恵比須様?その他わかりません。
拝殿、中殿と本殿は釣殿(幣殿)で結ばれています。下に小さな神様が祀られています。
本殿
流造、銅板葺、神紋は劒三つ星
神徳顕彰碑
記
日華事変・大東亜戦争中武連長久弾丸除け祈願の参拝者全国津々浦々より数万もあり、戦後も参拝者陸続としてあり今や御神徳全国に響いていることを顕彰するものなり。
写真名簿碑下に埋納する。
揮毫 神奈川県 亀田秋陽
彫刻 中山 枝光 勇
築庭 土井 竹本隆政
昭和五十五年十一月 式年大祭
(案内板より)
社殿全景
拝殿から参道
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