宇倍神社を掲載しました。
おことわり:掲載の写真は、参拝当日(10/23/2008)のものです、現在と異なっている場合があります。
因幡國一の宮「式内社」 宇倍神社(うべじんじゃ)
<通称>一宮さん(いちのみやさん)
【鎮座地】〒680-0151 鳥取県鳥取市国府町宮下651 旧因幡国 法美郡
【電話】 0857-22-5025
【旧社格等】 国幣中社 (現別表神社)
因幡國一の宮
式内社 因幡國法美郡 宇倍神社 名神大
【御祭神】・武内宿禰命
【例祭】 4月21日 例祭
【御由緒】
因幡国一之宮 宇倍神社
御祭神 武内宿禰命は上古、景行天皇以下五期の天皇に歴任され、奥羽から九州の果てまで 東奔西走、日本の発展に努力され、さらに神功皇后を御輔けして日本の統一に尽力されました、また応神天皇の御成長を見守られながら 大陸文化を導入されて平和と繁栄の礎を築き 国の功神として我が国最初の大臣とされました。
武内宿禰命は仁徳天皇五十五年因幡国に下向され御社背後の亀金岡にて双履を残し、三百六十余歳を以て昇天されました。
この由緒をもって創建された宇倍神社は平安時代には名神大社、因幡国一之宮として 尊崇され、明治四年には国幣中社に列せられました、
また明治三十二年、現在の御社殿新築のおり 命の御尊像と共に当社全景が全国で最初に 紙幣に載せられ、以後大正、昭和と五円、一円紙幣で 広く国民に親しまれて来ました。
古くから福徳長寿、厄除の神としてまに病気平瘉 交通安全や子供の成長を祈り、さらに志を打ち立てる社として広く崇敬されております。
春例大祭 四月二十一日 秋祭 九月二十一日
(拝殿 由緒掲示板)
宇倍神社
鳥取県岩美郡国府町大字宮下651
☎0857-22-5025
〈別称〉一宮さん・稲葉大明神
(祭神〉武内宿禰
〈例祭日〉四月二十一日〈神事〉麒麟獅子舞
〈由緒〉式内社。武内宿禰が仁徳天皇のときに因幡に下向し、宇倍山中腹の亀金岡で双履を残して身を隠したのが起源という。
大化四年(六四八)創建説もある。嘉祥元年(八四三)従五位下の神階を授けられる。
『延喜式』では名神大社に列し、因幡国一宮であった。歴代伊福部氏 が神主を奉仕した。健康長寿の神として知られている。
〈旧社格〉国幣中社(明治四年)
(縮刷版 神社辞典 ㈱弘文堂 より)
【参拝月日】 10/23/2008
一の鳥居
鳥取県東部、鳥取駅から東南に約4kmの鳥取市国府町にあります。百人一首に「立別れ因幡の山の峰に生ふる 松としきかば今かへり来む」と在原行平が詠んだ稲葉山の麓に鎮座。
因幡国庁跡の500mほど北、宮下公民館の左にに一の鳥居です。
社号標
一の鳥居の手前、数m離れたところに、ひっそりと建てられています。「國幣中社 宇倍神社」とあります、裏に昭和九年十月奉建と書かれています。
二の鳥居
一の鳥居から道路を横断し、両側に灯篭の並んだ参道の突き当りの階段を上がった左に、石造りの二の鳥居です。扁額には「因幡一宮 宇倍神社」とあります。
参道
二の鳥居をくぐると、鬱蒼とした樹木に囲まれた、120段の苔むした石段の参道が続きます。
手水舎
石段を上がった直ぐの左にあります。この水は「七宝水」と呼ばれ、稲葉山中腹から引いたものです。武内宿禰命にゆかりがあり、病を取り除き、延命に霊験豊かと伝わっています。
七宝水
このお水は平安時代に百人一首にも詠まれた、 いなば山の中腹から湧き出る清水をここまで 引いたものです。
古くから日本一長寿の神の「武内宿禰命」に由縁があり、病を除き延命に 霊験あらたかなお水です。 また、体をととのえ飲むと 美人になれる等、七つの効きめがあると云われ、 七宝様のお水と呼ばれ親しまれています。
手水のつかいかた
まず左手を 洗います。つぎに右手を 洗います。おわりに 左手に水をうけて 口をすすぎます。
(手水舎 案内板)
社殿全景
社殿のある境内は、一段高く、瑞垣に囲まれています。拝殿から奥に幣殿、本殿と続いています。
拝殿
明治31年(1898年)に本殿とともに再建されました。明治32年(1899年)発行の五円紙幣に採用された社殿はこの時の拝殿です。
拝殿の扁額
自然木の扁額です、「因幡一之宮 宇倍神社」とあります。昭和五十乙卯年の日付がありますので、昭和50年(西暦1975年)でわりと新しいもののようです。
神功皇后御尊影
拝殿内右奥に掲げられています。武内宿禰命が仕えた、仲哀天皇の后、神功皇后の三韓征伐の雄姿と思われます。
御祭神「武内宿禰命」
拝殿内左奥に掲げられています。神功皇后の三韓征伐の帰途、生まれた応神天皇を抱く姿です。端午の節句の幟などにもみられ、子供の守り神としても知られています。。
拝殿 右側(北側側面)
手前の金色に輝く鳥は、「飛躍の鳥」と呼ばれ、参拝者の繁栄・飛躍の祈りが込められています。また反対側に、希望のところを撫でると願いを叶えてくれる「福徳亀」があります。
社殿全景(北側側面)
左から、拝殿、幣殿、本殿と並んでいます。当社は、孝徳天皇大化4年(648)の創建と伝えられ、延喜式では鳥取県で唯一の名神大社、また一の宮として崇敬篤く、明治4年には国幣中社に列せられました。
本殿
御祭神は大和朝廷初期に5代の天皇に仕えた武内宿禰命。各天皇の信任篤く、わが身を投げうって東奔西走、日本の統一に尽力されました。わが国で最初に「大臣」の称を賜わり、総理大臣の祖ともいえる国の功神です。
社殿全景(南側側面)
左側が本殿、右側が拝殿、間に両社殿を接続する幣殿です。。大化4年(648年)の創建以降、度々再建され、現在の本殿は明治31年(1898年)の再建。同年、本殿階下の正面一間側面二間の切妻造妻入の幣殿と、方三間の入母屋造妻入で正面に一間の向拝屋根を追加した拝殿(幣殿に接続)も再建されました。いずれも檜皮葺です
本殿
本殿は、正面三間・側面二間の三間社流造、正面一間に向拝を縋破風で付け、屋根に千木・鰹木が置かれています。
本殿
武内宿禰命は孝元天皇の子孫とされ、第十二代景行天皇より、成務・仲哀・応神・仁徳天皇の5朝に仕えられましたが、中でも神功皇后の三韓征伐、に参加し、軍事的能力を発揮しました。また熊襲平定では、神がかりした神功皇后の託宣の際に、その傍で琴を弾く役目を負い、霊媒者として、神と神功皇后を媒介したといわれています。
武内宿禰命は「因幡国風土記」の逸分仁徳天皇55年春3月因幡国の亀金岡(かめがねのおか)に双履を遺し、360余歳でお隠れになったと記されています。
武内宿禰命の石碑
本殿裏手の小高い丘、亀金岡に向かう途中にあります。「亀金岡 武内宿禰命終焉之地」と記されています。
双履石(そうりせき)
石碑の左の階段を上がったところにあります。御祭神昇天の霊石です。二つの石は御祭神の履き物(双履=草履)を意味しています。この地下で昭和17年(1942)竪穴式石室が発見され、古墳の一部と判明しました。
双履石
御祭神「武内宿禰命」は第一二代景行天皇から 仁徳天皇までの五朝にお任えされ、大臣の祖として日本の国づくりに ご活躍の後、仁徳天皇 五十五年春三月、この 亀金の岡に双履を遺し 齡三百六十余歳にて お隠れになりました。 その石を双履石と称し 命御昇天の霊石として今に伝わる当社の原点です。
(階段下、案内板)
双履石から社殿
檜皮葺の屋根が雨に濡れて綺麗にみられます。
拝殿から境内
毎年、4月21日の例祭には、大神輿による「神幸祭」が行われ、武者行列や鳥取藩参勤交代の奴の舞、また、一本角が特徴の無形文化財「キリン獅子舞」が奉納されます。
境内から参道
鬱蒼とした樹木に覆われた石段を下ります。
参道から二の鳥居
二の鳥は柱に、「奉献 平成十二年 一月一日」とあります。
参道から一の鳥居
当社の鎮座地は、遺跡が多く、天平の昔、国府が置かれるなど、因幡国の政治・経済の中心でありました。
鳥取砂丘
鳥取といえば、鳥取砂丘、見逃せません。本社から南におよそ10km、車で25分ほどで到着しました。
観光可能な砂丘としては日本最大で、南北2.4km, 東西16kmにも及びます。1955年(昭和30年)に国の天然記念物に、2007年(平成19年)には日本の地質百選に選定されています。
鳥取砂丘
静岡県の「遠州灘砂丘」、鹿児島県の「吹上浜」とともに、日本三大砂丘のひとつに数えられています。
鳥取砂丘は未だ正確な形成過程が分かっていません。地質などを調べた結果、約14~15万年前までに遡るのではないかと言われています。
鳥取砂丘については、「長い年月をかけて作られた日本最大級の砂丘「鳥取砂丘」」を参考にさせていただきました。
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