皇居の落書き

乱臣賊子の戯言

天皇と軍隊と臣下の論理

2005-08-14 23:42:45 | 皇室の話
最近は、やや飽きられてきた感のあるテーマとして、昭和天皇の戦争責任ということがある。
このテーマについては、一つ大きな問題として、テーマの問題意識自体が何であるのかが、何となく分かりそうでいて、改めて考えてみるとよく分からないということがある。
責任というが、どのようなことについての、誰に対する責任なのか。法的な責任、道義的な責任、どのような性質の責任を問題にしているのか。
改めて考えてみると、よく分からない。
ただ、このテーマについての世間での用いられ方について、非常に単純化してしまえば、戦前の日本=悪の図式があって、その悪の親玉として、天皇は非難されるべきということなのであろう。
ここでミソとなるのが、ここで言う「日本」の中身は主に軍であり、国民は除かれるという暗黙の前提があることであろう。
さて、このような意味において考えた場合、昭和天皇に戦争責任はあったか否か。
この点については、明治憲法下において、天皇は、専制君主ではなく立憲君主であり、開戦という政治的な決定を覆すことはできなかったこと、また、昭和天皇ご自身は平和主義者であったことなどが、保守の側からすでに多く説明されている。
筆者としても、基本的には同じように思うし、すべての非難がただ一人に向けられるべきという意味合いにおいて責任が問われているのだとしたら、とんでもない話だと思う。
しかし、このような理解ですっきりするかとなると、筆者としては、何かすっきりとしないものを感じる。
どういうことかというと、天皇に戦争責任がないことを裏付ける上述の天皇と軍隊との関係こそが、無謀な戦争の原因の一つであったと思うからだ。
天皇と軍隊の関係には、二重性がある。一面では、天皇は大元帥であった。しかし、実際には、立憲君主であり、軍に対する指揮命令を行うわけではない。
そして、かつての日本の軍隊というのは、君主に仕える臣下としての精神性を有するものであった。
これは、悲劇的な状況というべきであった。
しばしば軍部の暴走ということが言われるが、その原因がここにあったであろう。
すなわち、臣下としての大義は、君主と臣下との限定的な関係において、その務めを果たすことである。そして、その務めとは、自らの命を犠牲にしてでも、君主に利益をもたらすことである。
忠誠心の高い臣下ほど、そのように思いこみがちである。
そして、そのような大義のためには、君主と臣下との限定的な関係の外に存在している他国、他国民のことについては、二の次の問題となる。
臣下という存在には、そういう傾向がありがちである。
ここで本来は、絶対的な命令権を有する君主が、臣下の暴走をコントロールするのだが、かつての天皇には、そのような権限はなかった。
その上、当時の国民の意識の問題もあった。戦うことへの興奮に満ちていた。これも、当時の国民なりの、臣民としての自覚によるものであったのだろうか。
とにかく、世界においては、強国による植民地ブーム、帝国主義という状況の中で、国内的には、臣下の論理の独走という状況が生まれてしまった。
もちろん、米国による経済的な包囲網により追い込まれてしまったという状況があったとしても、このことが、無謀な戦争に突っ走っていった原因であったのではないか。
そして、このような臣下の論理に基づく行動については、他国から見て、時に不可解な、不条理なこともあったであろう。
やはり問題となるのは、他国、他国民に対する信義が二の次になってしまったということであり、このことに由来する悲劇に基づく反日の感情は、簡単には消えないであろう。
今の時代に生きる日本人として、そういうことも自覚しておく必要があるのではないか。
なお、今後同じような臣下の論理の独走があり得るかと言えば、その恐れは基本的にはないと言っていいであろう。
今の皇室は、積極的に平和のメッセージを出しておられ、平和のイメージが定着しているからである。
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1 コメント

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若干の懸念。 (西田瓜太郎)
2005-08-15 00:04:08
本文にては、臣下の論理の独走の恐れはないだろうと書いたが、最近の男系男子論者の論調を見ていると、そこに臣下の論理の独走を感じざるを得ない。

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