日本の息吹 ~日本会議鹿児島版

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故谷川榮一会長をお偲びして~西郷南洲翁そして慈父のような方でした

2008-08-28 15:57:22 | エッセイ・コラム

Img074_2   最初に会長と親しく接した時期を略年表にして整理してみたい。

私が着任して会長のご逝去までは二年間。親しく頻繁にお話しする機会を戴いたのは、着任の翌年6月19日、突然病で倒れられてからその年の12月23日の実質半年間です。それ以前は、国内外のご出張等で月に一度お会いできれば良いほど多忙を極めておられた。

平成17年2月2日 鹿児島に着任(高橋)

※以前からも東京や全国縦断キャラバン訪問時にお話しする機会はあった。

平成18年6月19日 自社ビルで突然立てなくなる

同24日 米盛病院にご入院。椎間板ヘルニアと診断される

※ご入院された直後、珍しく初めて会長の方から私の携帯に電話が入った。「高橋君、近くに来とるぞ」と冗談を交えて言われ、私は近くにはいなかったので、「事務所に何かご用事ですか?」とお尋ねすると、「いや、実は隣の米盛病院に入院しとる。(寂しいから)来てくれないか」という趣旨の内容でした。ただならぬ事だと思い、早速その日の夕方、病室をお訪ねした。とても痛々しいお姿に驚いた。

※国際ライオンズのご招待でご家族の方とアメリカに出張される直前の出来事でした。もし、アメリカ滞在中だったら大変なことになっていたはず。私は「徳積みされてきた方は、神様から守られている」とその強運を思った。

6月30日 手術前、南九州病院で心臓の検査

※さらに強運なのは、手術は心臓に負担がかかるためまず心臓の検査をされた事だ。その時、心臓への血管が数本詰まっているのが判明し、先に心臓の手術をされた。もし、発見が遅れて心臓の手術を受けておられなかったら、もっと死期を早められたのではないかと拝察する。特に、会長のようにご家族の方が強く勧められても少々では検査入院されない方であればなおさらそうだと思う。

8月4日 ご退院 ※ご自宅で療養とリハビリ

同29日 退院後、ご家族で初の外出

同30日 リハビリを兼ねて公務を開始

※大手術をされて退院後、一ヶ月弱で徐々にではあるが公務に復帰されるお姿を拝見して驚異的な精神力を感じたと同時に今から考えれば、ご自分の残された時間を無意識に感じておられたような気がする。

※退院後、ご自宅でリハビリをされていた時は、頻繁にお会いしたが、この機会は、神様のご配慮以外何ものでもないと思う。この半年間は、短いながらもかけがえのないご指導を戴けた期間で何十年にも値すると思うが、それにもまして時間の長さではなく中身の濃さであると思う。

特に、平成18年10月25日、秋篠宮殿下が本県にお成りになられ、その日に合わせて悠仁親王殿下ご誕生をお祝いする提灯行列を実施するため、鹿児島商工会議所正副会頭をはじめ県内各界各層の代表の方に奉祝委員にご就任戴くための段取りの件などについて、懇切丁寧にご指導戴いた。

10月11日 ご退院後、初の上京(ご出張)

※その後は、東京のみならず、海外(台湾)にもご出張

Img_5314 10月25日 秋篠宮殿下お成りの日に合わせて秋篠宮悠仁親王殿下奉祝の提灯行列、祝賀式典に2000名で挙行。照国神社境内の特設会場での祝賀式典では、主催者を代表して堂々たるご挨拶をされた。

12月23日 天皇陛下のお誕生日をお祝いする県民の集いでご挨拶集いの後、本会役員と快気祝い

※その後も、26日、東本願寺棟上式に出席、27日、鹿児島商工会議所の忘年会、31日早朝、25年続く年末年始の天文館社交業環境衛生同業組合の清掃奉仕に参加されるなど、誰もが完全に復帰されることを確信していたのではないでしょうか。 

平成19年1月1日 鹿児島県護国神社、八坂神社、松原神社の三社に初詣

同2日 再入院

2月6日 午前7時24分、心不全でご逝去

※悲報に接した当日の事は、今でも鮮明に覚えているが、ご令嬢(三女)から携帯で悲報を受けたが、その時は筆舌に尽くしがたい悲しみがこみ上げた。ご自宅での密葬でご霊前に座りご尊顔を拝した時、私は誰はばかることなく泣いた。今まで親族以外で涙を流す経験は無かったが、不思議と涙が止めどなくなく流れて止まらなかった。特に晩年、少し年が離れた息子のように可愛がって頂き、慈父のような思い出が強すぎたせいもある。いつも「高橋君」と言われていた優しいお声は今も私の耳に残っている。

※2月10日、吉田葬祭で葬儀がしめやかに執り行われたが、同葬祭始まって以来の弔問客数だった由。国会議員、県知事、県議会議員、市長はもとより県内各界各層の代表、また海外からもアメリカ、台湾など世界各国から弔問客が多数訪れて故人の冥福をお祈りした。

ご逝去の日、『南日本新聞』社の女性記者から会長との思い出について電話取材を受けたが、既に何人かに取材したらしく、そんなに偉大な方だとは知らなかったという言葉を漏らしていたのが印象深かった。 

ご参考までに取材を受けて翌日『南日本新聞』朝刊に掲載された私のコメントは

『(前略)改憲論者で、日本会議鹿児島の会長を務めた。「毎年護国神社に参拝し、戦友の死を悼んでいた」と話すのは高橋辰治事務局長。「勝っておごらず、負けて卑屈になるなが口癖だった」。人格をとても大切にしていたといい、「経済界の重鎮でありながら、あんなに腰の低い人はいなかった」と惜しんだ』

と、私の語りたい事を上手く纏めてもらっているが、以下、それに補足を加えながら故谷川榮一前会長への追悼の意を表したい。

予めお断りしておきますが、会長は偉大すぎて全てを語りきる事は私には到底無理ですが、いささかでも故人の人間像を記して形(文字)に残しておく事が、私の使命であるという衝動に駆られ筆を取った次第です。実質僅か半年の体験の中で意を尽くせませんが、可能な限り述べさせて頂くことをお許し下さい。

西郷南洲翁のような方でした

会長の事を一言で表現すると表記のような方でした。もし、南洲翁が現代に生きておられたらこのようなお方だったのではないかと拝察します。

?威厳のあるオーラを持たれながら傲慢な態度を一度たりとも拝見した事はない。

泰然自若としながら、いばらず、飾らず、誰もが自然で親しみやすい庶民的な雰囲気を備えておられた。私も鹿児島に赴任する前は、20年近く全国を訪問し各界の方々にお会いしてきたが、ライオンズクラブでは「世界の谷川」といわれた位の地位まで上り詰めながら、庶民的で、財界人の中でかくも腰の低い方に未だかつてお目にかかったことはない。

?人を愛し、心から大切にされる律儀な方

P5060117 ①平成18年5月6日、和気神社鎮座六十年の大祭で会長に随行した。衆議院議員の平沼赳夫先生を始め国会議員が四人も参列されたが、会長はその隣に並ばれても全く引けを取らないほど存在感がありました。

 大祭が終わり、昼食の時間、九州ブロックの各県からもこられた日本会議関係者に「わざわざ遠方から来たのに申し訳ないから」と言われて、近くの鯉が美味しく食べられる料理屋に連れて行かれ、皆さんにもてなされた。本当に真心で人に接しておられた。

②また、前述の九州ブロックの方が前日からこられたので宴席を設けたが、あいにくと会長はご出張で時間が合わないのでご遠慮戴いていたが、途中空港から「行くからと」携帯が入り、かなり時間的に無理をされたと拝察するが、そんなことは微塵も見せず、それどころか「遅れて申し訳ない」と皆さんに挨拶された時には、約束を必ず守られる律儀さとその懐の深さに驚いた。

171023 ③本会が推進した第八次イラク復興支援群激励活動は各社マスコミでも反響を呼んだ。本会では、「読売新聞への激励意見広告の掲載」「激励の千羽鶴の贈呈」「激励の文集の作成」という三つの事業計画に取り組んだが二万羽を超える千羽鶴はKYT放送局(読売テレビ系列)、南日本新聞、読売新聞などで反響を呼び大きく報道された。

ある日、KYT放送局の女性記者が取材に来た際に、専用紙を使っての千羽鶴は初めて知ったという声を耳にして、もっと広く県民に呼びかけようと、天文館G3アーケード街に設置して呼びかけた。その時、会長はご夫婦お揃いでお出まし戴いたが「上手くいっているかどうか心配になって来た」と言われ、最初から最後までほとんど立ったまま長時間滞在され、その盛況振りを終始にこやかにご覧になっていた。

 以上のような話は枚挙に暇がない。

 以下述べることも南洲翁の人物像を髣髴とさせる思い出です。  

皇室と英霊を常に大事にされる国家観を堅持しておられた方

?皇室に対して

①尊崇の念を持っておられた象徴的な思い出がある。ある日、地元新聞を見られ皇室軽視の言葉遣いに憤られ「高橋君、今日の新聞を見たか。皇室に対してこんな言葉遣いをしていいのか。おかしい。どう思うか。」と怒りあらわに電話をかけられて来られた事がある。

Img_5327_2 ②平成18年10月25日、秋篠宮殿下が本県にお成りになられた日に合わせて実施した2000名の提灯行列には、まだご病気が完全に治癒されていないにもかかわらず病を押して当日ご参列戴いた。

この祝賀式典での主催者を代表してご挨拶を戴いたが、とても大病後の療養中とは思えないほどの堂々としたお姿と声の張り、そして原稿もなしに堂々と挨拶された時は驚愕した。これが、日本会議鹿児島会長として最後のご公務となられた。

会長として人生最後のご公務、最高のお仕事をして戴きました。

?英霊に対して

815  英霊への思いは、ご生涯を通じて、片時もお忘れになっておられなかったはず。大東亜戦争に参戦されて、激戦の地、インパールから奇跡的に生還された。大半の戦友が散華した中、帰還できたものの空爆によって一面焼け野が原にされた鹿児島の経済復興に全力を尽くされたのではないでしょうか。

 日本会議鹿児島二代目会長に就任された動機もまさにここにある。平成15年に会長に就任されているが、その前年、福田康夫官房長官(当時)が、靖国神社に替わる新たな追悼施設建設の動きが浮上していた事を大変憂えられていた時期で、日本会議がその解決に向けて全力で建設阻止の国民運動を展開していた。そのような団体なら、ということで会長就任を快諾された経緯がある。

ご先祖を大切にされ、信仰心の厚い方

ご自宅をお伺いしご仏壇にお参りした時、会長は、私にお孫さんへの信仰の躾について言及された。それはお孫さんが訪問して来てまずおじいちゃんと言って来た時に「おじいちゃんに挨拶する前に(仏壇を指差されながら)あちらに挨拶しなさい、といつも言っている」と言われた。さらには、ご先祖のご事跡など詳しくご遺影を見ながらお話戴いた。会長は、英霊のご加護と共にしっかりとご先祖様のご加護も受けておられていると確信した一瞬でした。

印象に残る常に言われていたお言葉

?「勝っておごらず、負けて卑屈になるな」

 会長ご自身の生き方そのものから出てくるお言葉だ。この言葉が真に身についている方がいかなる行き方を示されるか、その象徴的な場面に出くわした事がある。 一番印象に残り、かつ私の人生においてかけがえのない活学として残っている事が赴任して一年目の暮れにあった。着任早々ではあるが、事業計画は盛りだくさん。しかし組織の運営資金が十分でない事を大変心配された会長は、自ら協賛募金で歩かれた。私は、呼び出されて大手企業二社に随行した。子や孫に近い世代の社長に対して「今日は、日本会議の用事で来た。資金がなかったら何もできん。ひとつ、日本会議に寄付をもらえないか」と深々と頭を下げられていたお姿は今でも瞼に焼き付いている。私はたとえ何度生まれ変わっても追いつける方ではない、と思った一瞬で尊敬を超える念を抱いた。鹿児島の経済界、そしてライオンズクラブの世界で頂点を極めた方が、「日本会議の用事だけで来た」と言われ、そして幼少の頃から可愛がってこられた社長に敬意を示しつつ、日本会議のためだけに深々と頭を下げられた方をいまだかつてお目にかかったことはない。その年度は相当額の寄付金により赤字財務にならず何とか乗り越える事が出来た。

?「これが本会議だ」

 昼間でも本音で語り合いたいと思われる時は、昼食時「ビールを飲むか」と聞かれる。「これが本会議」だという意味は、直ぐに分かった。そしてさらに酔った時の相手の品性、品格もまた見ておられるような気がした。 ちなみに私はビールにトマトジュースを入れて飲まれる方に初めてお目にかかった。

また、鳥料理が大好物でした。「一保」という美味しい店があるので行こうと言われていましたが適いませんでした。残念です。

温容の中にも眼光鋭き厳しさを備えた方

Img059 イラク派遣自衛隊激励の事業を積極的に展開してきた事に対して川内駐屯地から派遣隊員の帰国歓迎行事で日本会議鹿児島に感謝状の授与があるということで会長に随行した。その時、ご自宅から中央駅に向かう車中、携帯を通じて、内容は覚えていないが、相手を厳しく叱責しておられた。人前で叱責されるお姿に初めて接したが、それは最初で最後の体験だった。優しさとのギャップもあってはっきり言って恐ろしい方だと思った。確かに、温容な中にも時々眼光は鋭かった。

どこでも、いつでもよく寝られる方

誰もがご存知な有名な話だが、私は以下の二点のように違う解釈・見方をしていた。

?大物である事を物語っているが、単にそれだけではない。起きておられる時の神経は尋常でない位にピリピリと張り詰めておられる事を実感した時がある。それは、退院されて快気祝いをされるので国分に向かわれる途中、突然短時間でしたが事務所に立ち寄られた時の話です。たまたま事務所出口に印刷会社が配色ミスをした提灯行列の広報ポスターが置かれているのを帰り際、チラッとみられ、「高橋君、(お祝いの)この色はもっと赤くした方が良いよ」と言われて事務所を後にされた時、一瞬に示されたその美的センスに驚愕した。このように終日ピリピリと研ぎ澄まされた神経を保ち続けていては、体は持たない。寝られるのは、ちょうど神経の過熱を避けるためにサーモスタットが働いておられたのではないでしょうか。しかし、ここ一番、ご自分が判断を下さなければならない重要な会議などは、当然起きておられた。

また、行事中、周囲がハラハラする様に寝ておられても、最後の閉会の纏めのご挨拶は恰も起きておられたかのように、いつも的を射るご挨拶だった。まさに神業だ。

?相手の本音を知る術寝ている自分を相手は本音のところではどう見ているのか、表面上ではなく相手の本音の部分を知る術だったのではないかと解している。「これが本会議だ」と同じで大物にしか出来ない。

終わりに

 私は、鹿児島に着任する時期が少しずれていたら、「前会長は、自分の誕生日と命日が同じですね」の一言で終わったと思う。しかし、以上述べてきたように奇跡に近い形で会長から生き様について多くの事を学び、活きた人性訓という掛替えのない無形の貴重な財産を戴いた私は、本当に幸せだと思っている。私は、事あるごとに会長から教えて戴いた「勝って奢らず、負けて卑屈になるな」「これが本会議」などのお言葉を会う人ごとに話している。大変お世話になった会長さんから戴いた貴重なお言葉だと解釈を付け加えて語り継いでいますが、会長の肉体は死しても魂は生き続けていることを実感しています。

 会長は、天界で西郷南洲翁にお会いしたり、亡き戦友にお会いされたり、相も変わらず毎日お忙しい日々をお過ごしのことと存じます。そのような中、一番気にかけておられたのはご自分の後継者ではなかったでしょうか。「後継者を指名もせずに急いで天界に来てしまった。すまんな」と思われていたでしょう。しかし、お蔭様で新会長に久米田彬様という素晴らしい方にご就任戴きました。天界から会長がご指名された方だと感謝しています。

 また、昨年暮、久米田新会長を中心に会員拡大目標を設立以来、初めて突破しました。全国で8番目の快挙も、天界からの会長のご加護と心から感謝しています。願わくば、御霊安かれとひたに祈りつつ、今後ともご遺族の前途と日本会議鹿児島の発展に永遠のご加護を垂れ給わらんことを。