よろず放談

日頃見聞きする種々の事柄に対しての独断と偏見による辛口批評

横文字遍歴(ギリシャ語)

2005-05-30 13:24:44 | 外国語
人生のロスタイムの時期に入った。しかし気を付けないと日本チームの

悪癖のさよなら負けの憂き目に逢う。ロスタイムといえども何かに挑戦

していないと認知症になってしまう。という訳でギリシャ語を本腰を

入れて始めることにした。昔から古典ギリシャ語を少し生かじりしていたので

今まで翻訳で読んだプラトンやプルタルコスを原文で読み直してみたいのだが、

まず現代ギリシャ語を見てみることにした。白水社のエクスプレスシーリーズ

現代ギリシャ語を読む。アルファベットは数学記号でおなじみのものが多くて

ほとんど違和感がないが、発音が古典語からひどく変わってしまっているのに

驚いた。β,γ,δの三つの有声子音字の発音の位置が全部前方に移動している。

βはb音からv音へ、γは次にi母音が来るとg音からy音へ、δはd音からth音に

変わってしまい、元々の機能を全く忘れてしまった。古来の言葉は発音が変わる

だけで済むが、外来語などで本来の発音を表すためには、b音はμπで、g音はνκで

d音はντで表さなければならない。母音や二重母音η,ι,ει,οι,υが全部i音を表す

ようになって発音からは区別が付かない。あのうるさい強声、弱声、昇降声

アクセントが強声アクセントだけになり、h音と共に有気、無気の記号

も消滅した。こういう、進化というより退化といいたい、英語的な簡略化の傾向

は不可避であろうか。

今までの西欧語遍歴から多くのギリシャ語源の言葉を知っているので

現代ギリシャ語で原語に出会うと旧知の友のごとく懐かしい。

教科や授業をμάθημαという.数学の数とは関係がない.中世の頃、教科の中で

数学がもっとも教科らしかったので数学をμαθηματικάというようになった.

数のことはαριθμόςといい,算術または数論のことをαριθμητικήという.

大学はπανεπιστήμιο パネスティミオという.直訳すると万学の府

とでもなるか.全学の方が当たっているかもしれないがどうも全学連の方へ

連想がいってしまう.universitas ウニウエルシタスが大学の職員組合の

名前であったのに比べ,大学そのものの名前としてふさわしい.

郵便局はταχυδρομείο タヒズロミオという.速い,走る,場所だから

直訳すると飛脚所となるか.スペイン語のcorreosの中にも走るが入っていて

面白い.

バスのことをλεωφορείοレオフォリオという.どうしてこんなところに

λέων獅子が出てくるのだと思ったらλεωはλαός住民のこと.

busがラテン語の形容詞の複数与格(奪格)omnibusから来ているのは常識.

酒といっても当然葡萄酒のことだが、κράσιという.vinumに通ずるοίνος

はどうなったのだ.新しく買った希和辞典を引くとκράσιはκράσις οίνου

酒の混合から来ているという.さしずめ日本なら酒のことを混合酒の省略

で”混合”というようなものかな?

水はνερόという.hydrodynamicsのύδωρはどこへ行ったのだ.辞典をひくと

νερόはνεαρόν ύδωρ 生水の略.”なま”ということかな?

家はeconomy を生んだοίκοςと思いきや,σπιτίだという.これはなんだか

分からない.hospitiumと同根だという.










愛・地球博ギリシャデー

2005-05-21 12:15:15 | 日記
知人からギリシャデーへの招待券を頂いたので妻と一緒に初めて

愛・地球博の長久手会場へ行った。テレヴィで何回ともなく見て

いたので、途中まごつくことなく、目的のグローバルコモン3の

ギリシャ館に着いたのは12時だった。行列がないのでやれうれしや

と入り口に急ぐと、4時まで臨時閉館とのこと。仕方がないので

近くのスペイン館をのぞいた。しばらく行列に並んだ後入場した。

宇宙や地球の成り立ちなどの展示があったが、スペイン語に興味が

あるので説明文句を一々読んだ。毎日朝の目覚まし代わりに、

8時からのラジオ講座を聞き続けているお陰でほとんど

全部読解できた。スペイン料理店でもあるのかと期待したが、

小さいbarがあって満員だったのでパスした。リビヤ館をのぞき

軽食を食べ、ビールを飲んで2時まで過ごした。2時からギリシャ館

の正面にあるイヴェントプレースの小さなオープンステイジの前に

座り込んで、ギリシャの伝統音楽と舞踊の実演を見学した。

ΚΡΟΤΑΛΑ バンドの三人の奏者による打楽器の演奏は見事だった。

肩紐で吊した筒太鼓,平太鼓、コンガ、拍子木、カスタネットなどなど

様々な打楽器を三人三様にとりかえひっかえ、色々なリズムとテンポで、

ピタリと息をあわせて、打ちまくった。一番左の奏者が、太鼓の面を

親指でこすってブーという音を出すと、真ん中の奏者がずっこけて

みせたりして喝采を浴びていた。

次にヴァイオリン、クラリネット、ギター、太鼓、そして

伝統の弦楽器(メトロノームのような形の、味のあるくすんだ低音が出る),

女性歌手からなるΚΕΡΟΣ バンドが登場した。マスターとおぼしき

クラリネット奏者がマイクのテストをした。なんというかと聞き耳を

立てていると、”本日は晴天なり”などという長い文句ではなく一言

”ネッ”といった。これはギリシャ語のναι(yes)に相違ない。

小型弦楽器の奏者が弾き語りで歌った。コーランの詠唱に似たいい声。

つぎに女性歌手(ほとんど普段着のまま。なぜきらびやかな民俗衣装

を着ないのか)が楽団の伴奏で歌った。西欧的な音楽とは一味

違った東洋的な哀愁の響きを持っていた。歌詞はまるで分からないが

”シカノ”という文句を繰り返していた。

次に男女三人ずつのダンサーが現れて素朴なフォークダンスを

踊った。赤、黒、青の鮮やかな色彩の民俗衣装に身を固め、

赤い花とスカーフで髪を飾った若い女性の美しさが目を引いた。

もう一つの六人のグループは地味ながらしっとりとした優雅な

衣装で踊った。舞台を間近に見上げていたので演者の表情までが

はっきりと分かって印象深かかった。そのかわりに腰が痛くなった。

5時からギリシャ館に入場した。どこのパヴィリオンでも同じだが

作り物の写真や映像の展示にはあまり関心が湧かない。原語の説明文句を

読んだ。Εν αρχή ην το χάος (初めに混沌ありき)。新約聖書

の冒頭の文句 Εν αρχή ην ο λόγος (初めに言葉ありき)とそっくり。

 ギリシャ館を出てグローバルループを反時計回りに歩き、途中の

ビヤホールで夕食を済ませた後、北門からリニモ、地下鉄経由で帰宅した。






慣性能率を小さくせよ!

2005-05-09 17:08:18 | スポーツ
力学の理論によると剛体(形を変えない物体)の運動は重心の並進運動

とその周りの回転運動に分解される。重心の運動はニュートンの方程式 

f = ma に支配される。fは力、mは質量(重さ)aは加速度(速度の変化

する割合、一秒間に変化する速度).f=0ならa=0、すなわち力が働かな

ければ速度は変化しない。

これが慣性の法則。質量と速度を掛け合わせて運動量というから、慣性

の法則は運動量不変の法則でもある。(実はここまでは省いてもよかった。

本番はこれから。)

重心の周りの回転運動を支配する方程式は、M = I α .Mは物体を回転

させようとする偶力(トルクともいう)を表す。互いに1m 離れた

反対方向の1kgの力が偶力の単位1kgm。Iは慣性能率で、回転軸の周りに

物体がどのように分布しているかを表す。同じ重量の物体では、軸の

近くに物が集中していると慣性能率は小さくなり、軸から離れた所に

物があると慣性能率は大きくなる。αは角加速度といい、回転の速さ

(角速度ともいう)の変化する割合を表す。速度の変化に抵抗するの

が質量であるのに対して、角速度の変化に抵抗するのが慣性能率である。

M = 0 なら α = 0.慣性能率と角速度の積を角運動量といい、上の結果

は偶力が働かないとき角運動量が変わらないことを示しているので

角運動量不変の法則ともいう。

(ご苦労様でした。いままでの話の細かいところは忘れてもよろしい。

これからが本当の本番です。)

スポーツには体の回転を利用するものが非常に多い。一寸数え上げても

野球,ゴルフ、テニス、ボクシング、相撲、投擲競技、体操、フィギュア

(英語figureの発音はフィガーなので気が引けるが、慣例に従う)

スケート等々。体の回転を能率よく行う(回転を加速して早く大きな回転

速度に達するために要する偶力を小さくする)には、慣性能率を小さく

することが絶対である。幸いにも人体は剛体ではなくて変形可能である。

中心軸から遠い可動部分である、手、腕、肩を胸の前に集めて、いわゆる

肩をすぼめて、脇を固めるというのはこういうことなのである。あの

フィギュアスケータのスピンはこの理屈を如実に実証している。

腕や肩を横に張り出した状態から回り始め、回転が始まると可動部分を

体の中心部に集中する。実際には靴と氷の間の摩擦があって、回転を

止めようとするマイナスの偶力が働くが、靴の刃先の品質と滑りの

技術によって摩擦は最小限に抑えられ、あたかも角運動量不変の法則が

成り立つ状態が形成される。慣性能率が小さくなるにの反比例して、

(レトリックとして使われるいい加減な反比例ではなく,数学的

厳密性を持った正真正銘の反比例)回転速度が増しスケーターの

輪郭がぼやけて来るのは見事という外はない。

もう一つ剛体力学の方程式には表されないことがある。体の回転を

能率よく速くするには、中心に近い部分から起動し、それに

よって加速された部分が発動してその直ぐ外側の部分を加速し、。。

という風に中心部に巻きつれられた鎖が次第に巻き戻されて最後に

最先端が速く回転する。この運動を滑らかに、迅速に鋭く行わ

なければならない。それには腰の切れが、そして腰を安定させる

両脚のがんばりが必要である。しかしそれだけでは不十分で、最先端

の速度を最終的に速める、衝撃的な仕上げが要る。これが野球の投手

なら、手首からはじまって指先の弾きに終わるスナップであり、

バッターやゴルファのいうフォロウスルーであり、水泳のバタ足や蛙足

の足首のスナップである。

理屈はこれだけである。各スポーツの名選手はその内容を少なくとも体

で覚えているはずである。それなのに何故好不調の波があり、しばしば

スランプに陥るのだろうか。小文の理論が少しでも役に立たないだろうか。

筆者は選手でもスポーツの専門の評論家でもないが、硬式野球、テニス、

水泳を実践し、以上の理論を身をもって体験した者として一応の自信を

持っている。スポーツのこの種の議論はいろいろあるが、力学の理論

に基づく首尾一貫したものはあまり見あたらないので不遜を顧みず

敢えて発言した次第である。


名古屋弁

2005-05-09 13:10:34 | 言葉
万博に、中部国際空港に今や日本で一番元気のよい名古屋が注目されている。

名古屋の食い物の”ひつまぶし”(これを”ひまつぶし”と読み間違えない方が

おかしい)、味噌煮込み、味噌カツ、きしめんなどが喧伝されている。名古屋弁

も少しは注目されるようになったが、どうもその本当の姿が伝えられていないように思う。

名古屋弁を愛する名古屋人として発言したい。

 名古屋弁には「やっとかめだなも」(久しぶりですね)で代表される”なもなも”言葉

----料亭の女将などの階層に残っている、昔ながらの上品な城下町言葉の名残---と

タモリのからかいの対象となった「やろまえあか」(やりましょうか)で代表される

方言の集まりがある。その特徴は「アイ」「オイ」「ウイ」などの重母音と軽母音

の組み合わせの二重母音を、二つの母音の中間の曖昧単母音に転化する現象に

ある。「やろまえあか」は「やろまいか」の転化で、無理に「えあ」と書いた

のは正しくはアメリカ英語のhand のaの発音で,発音記号でǽと書くべきものである.

----東急ハンズは正しくはトウキュウハエンズ----------

タモリのいう「やろみやーか」では絶対にない.

「とろえーこといってれえあーすな」(馬鹿なことをいわないでください)の

「とろえー」は「とろい」の転化である。ドイツ語のオーウムラウトőと思えばよい.

「あーす」は丁寧語「遊ばす」の簡略形。これには絶対の自信がある。少年時代、

お菓子やさんなどへ入る場合、「ごめやーす」といって入った。ところがおばさんや

おばあさん達は「ごめやーす」といった後にしばらくたってから「ばせ」

と付け加えるのだ。「ばせ」ってなんだろう。不思議に思ったがすぐには分から

なかった。どのくらいたってからかよく覚えていないが、これが天啓のように

「ごめやーすばせ」「ごめん遊ばせ」に違いないと分かったとき、子供心にも

大発見をしたと思い、うれしかった。

「どえらえあーうまえあーでかんわ」「どえらいうまいでいかんわ」

「どえらくうまいのでかなわない」は「でら----」とよく書かれるが

「で」と書いてしまっては駄目だ。非名古屋人に誤解を招く。

「ふーりゅーがや」「ふるいよ」の中間母音はドイツ語のü,フランス語のu,

中国語のyuに近い発音.

このように名古屋弁には標準の日本語には無い多くの中間的な母音がある.だから

名古屋人にとっては,英語,フランス語,ドイツ語,中国語の母音の発音は

何でもない筈だが,どうも簡単にそうは行かぬものらしい.

 名古屋弁のもうひとつの特徴は,上の例からも分かるように,庶民的で,自然な、

謙遜(へりくだり)と諧謔(ユーモア)で,東京弁の流暢と気取りとは反対に,

大阪弁と通底するものがある.

 八波むとし、由利徹と脱線トリオを形成した南利明は芸能人でただ一人

名古屋弁を誇らしげにまくし立てて名古屋人の心を引き立ててくれた.もう

二十年も前になろうか,テニスの仲間と伏見の御園座の近くの寿司屋で歓談

していた.ふと見ると南利明がカウンターで一人寂しそうに飲んでいた.こちらも

大分酔っていて,つい声を掛けたくなった.「南さんですね.いつも

名古屋弁を宣伝して頂いて心強く思っています.これからもがんばって下さい」

というようなことを二言三言いってすぐ別れた.迷惑だったろうがとにかく

聞いてくれた.

 これもちょっと古い話.松坂屋本店のま向かいに朝日堂という小さいカメラ店

があって(現在も健在)安売りを宣伝し、テレビでひっきりなしにコマーシャルを

流していた.一時,今ではおばさんお笑いタレントの双璧の

柴田理恵と久本雅美のご両人が出演していて,名古屋弁でやりとりした後で,

「カメラもあるでよー」とポーズを作った.今ほど売れていない時に違いないが,

その生々しいど迫力に圧倒された.コマーシャルはあれでなくては駄目だ.

(某生命保険の何の魅力もない執拗さには飽き飽きする).

 中丸明著「絵画で読む聖書」(新潮社)という面白い本がある.旧約と新約

の聖書の中で神様や預言者やキリスト---民衆に対する説教には,俗語の

アラム語を使ったという----が、なんと名古屋弁で仰せられるのである.

例えば,新約聖書「ルカ伝」第7章36節ー49節でイエスがマグダラのマリアに

「おまえあはいっぺえあ男を愛したったで,背負っとる罪はもうへあえ

(もはや)許されとるだがね.ちょこっとしか許されんもんは,ちょこっとしか

愛さなんだでなも.さあおまえあはもうへあえ許されとるで心配しなえーで

ゆくがえー」とおっしゃる.(原文一部変更)

同じく「ルカ伝」で「イエスいいけるは、さらばカイザルの物はカイザルに納め、

神の物は神に納めよ」とあるのが中丸さんの手にかかると「そんなら、ケアエーザル

のもんはケアエーザルにけえあーすがえー」となる。

”どえらあえーおもしろえーでかんわ.一ぺん読んだってちょー”.


鼻濁音について

2005-05-08 10:35:11 | 言葉
美しい日本語の要素として鼻濁音があると信じている。もっとも鼻濁音ができない

あるいは知らない地域もあるということも承知の上で。

要するに、ガ行音は語頭にある場合を除いて、鼻濁音として発音すべきである。

主格の助詞”が”を初めとして言語ゲンゴ、権現ゴンゲン、銀河ギンガ、午後ゴゴ

などを発音してみればわかる筈だ。

そういう意味で並木道子のリンゴの歌は嫌いである。彼女はリンゴをローマ字で

RINGOと書いたものを読んだようにリン・ゴという。これが何度も何度も繰り返される。

小学校三年生のときの受け持ちの先生は新任のパリパリで、野球部の監督をしたりして

好きだったが、鼻濁音を無視し,釘をク・ギと発音したりするのが耳障りでいやだった。

若者の中には森永をモリナ・ギャと発音する人がいる。日本語を英語風に発音する

軽薄さが嫌みである。

ところが小学校時代,我が家の真向かいの八百屋の肝っ玉おばさんは蟹

のことをンガニといった。平家蟹ならまだしも単なるカニをである。

遙かな思い出である。

横文字遍歴(ローマ字,英語)

2005-05-07 12:59:13 | 外国語
生来横文字が好きである。それは物心がついた幼時から始まる。

父は岐阜県の農家の長男に生まれたが、農夫の生活にあきたらず

同郷の親戚で一宮市に出て織物商で成功した人を頼って丁稚奉公をつとめ、

一人前になって独立し自前の織物商店を開いた。小学校しか出ていないが

どこで覚えたのかいろんなことを知っていた。習字も得意で、巻紙片手に

毛筆ですらすら手紙を書いた。新しがり屋で今でいう七半のAceという

オートバイを乗り回していた。外国産のオートバイのカタログがあったらしく

ハーレーダビットソン、インディアン、エースなどという名前を何時とはなしに

聞き覚え、得意になってしゃべりまくったらしい。”毛唐だ毛唐だ”とからかわれて

真顔になって否定したそうだ。

昭和二年小学校に入学。一年生のときは石版に石筆で字を書いた。二年生から鉛筆

で紙に字を書いた。下敷きはこのごろのようなプラスチックではなくて、ブリキ

製で縁取りがしてあり、長方形の両面にはいろんなことが印刷してあった。

掛け算九九、割り算九九、各種の度量衡単位の変換、そしてヘボン式ローマ字。

割り算九九は算盤をやらない者にはチンプンカンプンでついに覚えなかった。

しかしローマ字は何の抵抗もなく頭に入った。高学年になると日本語の文章を

自由自在にローマ字で書くことができた。

中学校に入って初めて英語に接したが、ローマ字の下地のお陰で少しも違和感

がなかった。英語の時間は楽しくて、進度の遅さにいらいらした。

四年生のときだったか、副読本にジャガイモの話がのっていて、その中に

pomme de terre ポムドウテルというフランス語とErdapfelエルダッペル

というドイツ語が出てきて、その目新しい綴りと発音に興味をそそられ

早くいろいろな外国語を習いたいと思ったことを、しみじみ思い起こす。


棋士雑観

2005-05-06 11:13:11 | 将棋
テレビで将棋の対局を見るのが楽しみである。いろいろな棋士がいるがどの棋士

にも共通するのは、負けたときの態度の素晴らしさである。心の中は屈辱と

後悔の念で煮えくりかえっているに違いないが、それを少しも外に表さず,平然と

局後の研究を続けるあの抑制は見事である。以下は諸棋士の印象に残るスナップである。

桐山清澄九段:以前は燻し銀といわれたが、このごろはもっぱら激しい喧嘩将棋。

どうも年を取ると持久戦型から急戦型に移る人が多いようである。中原永世十段然り。

閑話休題:相手の強い駒を取るときの仕草が魅力的。舌なめずりをして、駒を何度も

撫でさすりながら取り上げて、愛おしむように駒台にのせる。よほどうれしいのだ。

羽生善治さん:この人は何段だか分からないし、しょっちゅうタイトルを取ったり

取られたりするから、なんと呼んでいいか分からない。とにかく強い。滅法強い。

駒を打つときの手つきが凄い。一旦横から大きく手を回して打ったり、ここぞという

とき相手の急所にねじ込むように打ち据える。そしてハブ睨み。相手にあたえる

ダメージ甚大。

森下卓九段:勝負師とは思えない端正謹厳の紳士。棋風は守り主体の堅実派。

相手の突いたり、打ったりする歩をことごとく取り---「取っても利かされ、

取らなくても利かされなら取れ」という格言の信奉者----気がつくと駒台

にはいつも歩がいっぱい。今度はそのありあまる歩を使って、ネチネチ攻める。

中川大輔七段:長身痩躯。口ひげをたくわえ、ジムで格闘技を鍛える。

精悍な風貌通りの目一杯の熱闘。この人の対局を見ていて期待を裏切られたことは

一度もない。筆者お気に入りの棋士。

畠山鎮六段:畠山成幸七段とは双子の兄弟。名前とは正反対の攻め将棋。

駒の置き方に特徴がある。駒を升目の底に並べるので有名なのは有吉九段、島八段。

この人はすべての駒が少し傾いている。しかも駒を打つときも斜めにもって

押すように静かに置く。内藤九段,田丸八段の華麗な手さばきとは対極的な地味な

手付き。

太った体にピンク色のスーツを着てテレビの司会者顔負けの手八丁口八丁

の神吉(カンキ)六段、テレビゲームのスーパマリオそっくりの武者野六段など

多士済々だが、今日はこの辺で。

将棋のつぶやきことば

2005-05-05 11:54:52 | 将棋
高島俊男さんが著書「百年のことば」の一節「ははアーの三年忌」で碁

を打つ人が対局中に無意識にあるいは意図をもって発するつぶやきことば

について述べておられる。そのお相伴をして将棋のつぶやきことばを紹介

する。以下は筆者が小学生時代に大人達が将棋を指すのを見ていたときの

記憶からの抜粋である。中には間違って覚えているのも無いとはいえない。

「お手は?」「駒台、駒台」(駒台付きの盤で差しているとき)

「手に?」「歩ばかり(柴刈り)山のほととぎす」

「手は?」「金銀財宝山の如し」

「手は?」「金鶏鳥(金桂香)は唐の鶏」,「金鶏銀鶏は唐の鶏」

「手は?」「三桂あって詰まんことなし」

「ははアー」「ははアー(母)の十三年」(高島さんの例と少し違う)

「王手!」「逢うてうれしや別れの辛さ」

「なるほど!」(そんなもの想定内だよ!)「成るほど千切る初茄子」

「そうか!」「草加煎餅練馬大根」(創作かもしれない?)

 (角を成りながら)「斯くなり果つるは世の定め」

 (相手の狙いを見抜いて)「その手は桑名の焼き蛤」

 (長考の相手に)「下手の考え休むに似たり」

 (連敗して)「また負け(渡辺)の綱」

(圧倒的に優勢の方が相手の無理攻めを受け流すのを見て、観戦者いわく)

  「金持ち喧嘩せず」

まだまだあるが思い出せないので、今日はこれ位で。