よろず放談

日頃見聞きする種々の事柄に対しての独断と偏見による辛口批評

鮮度と確率

2005-08-01 16:54:32 | 言葉
聞えは科学的だが、内容は空虚な言葉に鮮度がある。

”この魚は今朝とれたばかりで鮮度抜群だよ”などと

言っているのを聞くと”じゃー何度だい”と聞き返したくなる。

速度、温度、湿度、高度、緯度、経度、震度と並べてみると、

度の付く言葉は数値で計られる性質の度合いをいう言葉である。

鮮度は数値で計られるものではなく、単に新鮮さをあたかも

数値で計られるかのごとく勿体ぶって言っているに過ぎない。

”今日雨が降る確率は40%”というのもおかしい。賽子を

振って6の目が出る確率は1/6であるというような場合にだけ使う

べきで、一度だけしか起こらない事象の確率を論ずるのは

お門違いというものだ。こういう場合に格好の”見込み”という

言葉をなぜ使わないのか。勿体がつかないから駄目だというなら

”公算”という言葉だってある。いや、公算ももはや死語に

なってしまったのか。

梅雨ともったいない。

2005-07-20 16:28:17 | 言葉
このごろの季節になると、梅雨明けだの、空梅雨だのと

マスコミがうるさい。梅雨などというものは気象学者に教わるまでもなく

この瞬間に始まりこの瞬間で明けるという性質のものではない。

何時とはなしにはじまり、何時とはなく終わるものである。

決めることができないしその必要もないものである。

なぜこんなことを公共機関が決めて宣言しなければならないのか。

不思議である。聞くところによると業績が天候に支配される一部の

事業者が、公のお墨付きが欲しいらしいとのこと。そんなもの自分

の頭で考えて判断しろといいたい。

これに関連して思いつくのは”もったいない”という言葉の流行である。

この美しい日本語は、”物を大切にし、同じことをならなるべく少ない資源

とエネルギーでせよ”と言っているので、ノーベル章受賞者のマータイさん

の取り上げに関係なく永遠の真理である。ところが偉い人のお墨付き

を貰うと一斉に騒ぎ出す。なぜ自分の頭で判断してこの真理を実行に移そうと

しないのか。まあ自主的ではないけれど、おそまきながら正しい判断にたどり着いた

ことで善しとするか。


口癖

2005-07-08 17:49:16 | 言葉
ここで口癖というのはいわない方がいい、無意味な音声や意味のある短い

文言をいう。”えーと”や”あのー”がもっともありふれた例である。

故美濃部東京都知事は知識人にしては珍しく”あのー”を連発した。

故大平首相は”うー”というので有名だった。故福田首相は”そのそのー”

というのが可笑しかった。将棋の羽生さんは何か質問されると必ず”そうですね”

と一旦答えてからやおら質問の答えを話し出す。外の点では文句の付けようが

ない彼にとってこれだけは頂けない。まあご愛敬として勘弁するか?

アナウンサーやリポータの中には、”マア”とか”マッ”とかいう

雑音を乱発するものが少なからずいる。これはどういう心理なのだろう。

自分の発言しようとする言葉に自信がないので断言を避けて曖昧化しよう

というのだろうか。これでは折角の報道もその価値が半減する。

要するに、発言しようとする内容が、頭脳の中で十分編集されないままの

状態で見切り発車してしまうからである。発言が文章として纏まらない

中は決して発言すまいというぐらいの覚悟を固めるべきである。

外の項でも書いた”話し方”の訓練の一つとして取り上げたい。

10年ほど昔、故黛敏郎氏は日曜日の朝のテレビの人気番組”題名のない音楽会”

を司会して名声を挙げていた。”独断と偏見”という名言をふりかざした

人を食った論説が売り物だった。若者向けの音楽がリズムだけが突出して

いてメロディとハーモニに乏しく、歌は無教養丸出し、国籍不明の英語

混じりの歌詞で聞くに堪えないと罵倒するのが痛快だった。しかし筆者が

本当に感心したのは、その言葉使いの美しさである。本項で挙げた

無意味な音声は全くなく、その発言はそのまま印刷にすれば立派な文章

になった。これほどの言葉使いの名人にはその後お目に掛からない。


報告されます。 えっ!?

2005-06-24 12:31:38 | 言葉
パソコンを立ち上げると、OSの自動更新の準備ができているという。

指定どおりのアイコンをクリックすると、なにやら動きがあってから

メッセージボックスが現れて”処理が終了した後、報告されます”という。

えっ! なんだって?

しばらく考えた後、ははーんと分かった。これは行為の主体を

明らかにしない無人称的な英語の受身文を直訳したのだ。

しかし現在の場合にはおかしい。パソコンが話しかけている、といって

悪ければパソコンの中のプログラムが、といっても悪ければ、その

プログラムを書いた人間がパソコンにいわせているのだから

”処理が終わりましたら、お知らせします”と能動的にいうべきである。

英語を読んで意味が分かったらそれをわかりやすい日本語に直して

初めて翻訳といえるのだ。こういう調子だから、計算機のマニュアルが

読みにくいのは当たり前である。

発音が悪い!

2005-06-08 11:59:16 | 言葉
”発音が悪い”といっても英語のことではない。日本語の発音だ。

少々発音が悪くても聞いて分かればいいという人は

先を読まなくてもいい。

 デパートの女子店員の言葉は悪文の標本だ。”一万円からお預かりします”。

なぜ余計な”から”を入れるのだ。”以上でよろしかったですか?”。

”外にご用はございませんか?”といえ。これらは店員よりも彼らを

束縛しているマニュアルが悪い。しかし発音も悪いのだ。

”*リトー****ス。”何故はっきり”ありがとうございます。”

といわない。

釣り銭が多すぎたので、ご親切に注意してやると。”すみません”

という。こういうときは”ありがとうございます”というものだ。

 このごろ感ずるのはもっと微妙な問題だ。これも女性に多い。

”オ”の発音が中途半端で”ア”に聞こえる。”今週、今度”が

”観衆、感度”に聞こえるのだ。これは母音”オ”を発音するとき

に口の奥にグット力を入れなければならないのに、それを怠っている

からだ。この”オ”と”ア”の中間の音は英語にある。LARK という

煙草があって、一時テレビのコマーシャルにジェームス・コバーン

が出ていて ”ラォーク”と発音していた。日本語ではこの

”オ”と”ア”の中間の発音はぶりっこが気取っているように聞こえる。

女性諸君。もって如何となす?

名古屋弁

2005-05-09 13:10:34 | 言葉
万博に、中部国際空港に今や日本で一番元気のよい名古屋が注目されている。

名古屋の食い物の”ひつまぶし”(これを”ひまつぶし”と読み間違えない方が

おかしい)、味噌煮込み、味噌カツ、きしめんなどが喧伝されている。名古屋弁

も少しは注目されるようになったが、どうもその本当の姿が伝えられていないように思う。

名古屋弁を愛する名古屋人として発言したい。

 名古屋弁には「やっとかめだなも」(久しぶりですね)で代表される”なもなも”言葉

----料亭の女将などの階層に残っている、昔ながらの上品な城下町言葉の名残---と

タモリのからかいの対象となった「やろまえあか」(やりましょうか)で代表される

方言の集まりがある。その特徴は「アイ」「オイ」「ウイ」などの重母音と軽母音

の組み合わせの二重母音を、二つの母音の中間の曖昧単母音に転化する現象に

ある。「やろまえあか」は「やろまいか」の転化で、無理に「えあ」と書いた

のは正しくはアメリカ英語のhand のaの発音で,発音記号でǽと書くべきものである.

----東急ハンズは正しくはトウキュウハエンズ----------

タモリのいう「やろみやーか」では絶対にない.

「とろえーこといってれえあーすな」(馬鹿なことをいわないでください)の

「とろえー」は「とろい」の転化である。ドイツ語のオーウムラウトőと思えばよい.

「あーす」は丁寧語「遊ばす」の簡略形。これには絶対の自信がある。少年時代、

お菓子やさんなどへ入る場合、「ごめやーす」といって入った。ところがおばさんや

おばあさん達は「ごめやーす」といった後にしばらくたってから「ばせ」

と付け加えるのだ。「ばせ」ってなんだろう。不思議に思ったがすぐには分から

なかった。どのくらいたってからかよく覚えていないが、これが天啓のように

「ごめやーすばせ」「ごめん遊ばせ」に違いないと分かったとき、子供心にも

大発見をしたと思い、うれしかった。

「どえらえあーうまえあーでかんわ」「どえらいうまいでいかんわ」

「どえらくうまいのでかなわない」は「でら----」とよく書かれるが

「で」と書いてしまっては駄目だ。非名古屋人に誤解を招く。

「ふーりゅーがや」「ふるいよ」の中間母音はドイツ語のü,フランス語のu,

中国語のyuに近い発音.

このように名古屋弁には標準の日本語には無い多くの中間的な母音がある.だから

名古屋人にとっては,英語,フランス語,ドイツ語,中国語の母音の発音は

何でもない筈だが,どうも簡単にそうは行かぬものらしい.

 名古屋弁のもうひとつの特徴は,上の例からも分かるように,庶民的で,自然な、

謙遜(へりくだり)と諧謔(ユーモア)で,東京弁の流暢と気取りとは反対に,

大阪弁と通底するものがある.

 八波むとし、由利徹と脱線トリオを形成した南利明は芸能人でただ一人

名古屋弁を誇らしげにまくし立てて名古屋人の心を引き立ててくれた.もう

二十年も前になろうか,テニスの仲間と伏見の御園座の近くの寿司屋で歓談

していた.ふと見ると南利明がカウンターで一人寂しそうに飲んでいた.こちらも

大分酔っていて,つい声を掛けたくなった.「南さんですね.いつも

名古屋弁を宣伝して頂いて心強く思っています.これからもがんばって下さい」

というようなことを二言三言いってすぐ別れた.迷惑だったろうがとにかく

聞いてくれた.

 これもちょっと古い話.松坂屋本店のま向かいに朝日堂という小さいカメラ店

があって(現在も健在)安売りを宣伝し、テレビでひっきりなしにコマーシャルを

流していた.一時,今ではおばさんお笑いタレントの双璧の

柴田理恵と久本雅美のご両人が出演していて,名古屋弁でやりとりした後で,

「カメラもあるでよー」とポーズを作った.今ほど売れていない時に違いないが,

その生々しいど迫力に圧倒された.コマーシャルはあれでなくては駄目だ.

(某生命保険の何の魅力もない執拗さには飽き飽きする).

 中丸明著「絵画で読む聖書」(新潮社)という面白い本がある.旧約と新約

の聖書の中で神様や預言者やキリスト---民衆に対する説教には,俗語の

アラム語を使ったという----が、なんと名古屋弁で仰せられるのである.

例えば,新約聖書「ルカ伝」第7章36節ー49節でイエスがマグダラのマリアに

「おまえあはいっぺえあ男を愛したったで,背負っとる罪はもうへあえ

(もはや)許されとるだがね.ちょこっとしか許されんもんは,ちょこっとしか

愛さなんだでなも.さあおまえあはもうへあえ許されとるで心配しなえーで

ゆくがえー」とおっしゃる.(原文一部変更)

同じく「ルカ伝」で「イエスいいけるは、さらばカイザルの物はカイザルに納め、

神の物は神に納めよ」とあるのが中丸さんの手にかかると「そんなら、ケアエーザル

のもんはケアエーザルにけえあーすがえー」となる。

”どえらあえーおもしろえーでかんわ.一ぺん読んだってちょー”.


鼻濁音について

2005-05-08 10:35:11 | 言葉
美しい日本語の要素として鼻濁音があると信じている。もっとも鼻濁音ができない

あるいは知らない地域もあるということも承知の上で。

要するに、ガ行音は語頭にある場合を除いて、鼻濁音として発音すべきである。

主格の助詞”が”を初めとして言語ゲンゴ、権現ゴンゲン、銀河ギンガ、午後ゴゴ

などを発音してみればわかる筈だ。

そういう意味で並木道子のリンゴの歌は嫌いである。彼女はリンゴをローマ字で

RINGOと書いたものを読んだようにリン・ゴという。これが何度も何度も繰り返される。

小学校三年生のときの受け持ちの先生は新任のパリパリで、野球部の監督をしたりして

好きだったが、鼻濁音を無視し,釘をク・ギと発音したりするのが耳障りでいやだった。

若者の中には森永をモリナ・ギャと発音する人がいる。日本語を英語風に発音する

軽薄さが嫌みである。

ところが小学校時代,我が家の真向かいの八百屋の肝っ玉おばさんは蟹

のことをンガニといった。平家蟹ならまだしも単なるカニをである。

遙かな思い出である。

国語教育に「話し方」を課すべし!

2005-04-26 12:41:26 | 言葉
戦前の小学校の国語には、「読み方」(講読)、「綴り方」(作文)、「書き方」(習字)

の三教科があった。しかし「話し方」(口頭発表)という教科はなかった。そしてその

悪しき伝統は今日まで続いている。いや、習字だけは、どうもおろそかにされているようだ。

その証拠に若者の書いたカタカナの「シ」と「ツ」は一見どちらだか区別がつかない。

あれは習字で書き順を習わなかったためだと思う。閑話休題。

国会の大臣の答弁や演説、学会の学者の講演などを見ていると、迫力が無いことおびただしい。

演者は原稿や映写画面ばかり見ていて、少しも聴衆の方を見ない。果たして聴衆を

説得しようとする意欲があるのかと疑いたくなる。これは温暖湿潤な気候と

集団活動に頼る農耕民族の伝統に基づく、断定を避け、ことを荒立てず、韜晦と曖昧

を重んずる国民性の表れである。こういう気風は日常生活の情緒的な会話ではむしろ

望ましいかもしれない。しかし、利害と意見の異なる相手を説得したり、論理をもって

自説の正しさを主張しなければならない場面では全く無力である。断乎として

優柔を捨て去り、堂々と聴衆を見回して、腹の底から音吐朗々と発言すべきである.

この日本人の口頭発表の拙劣さをそのまま放置しているのが悲しい現状である。

打開する方策はただ一つ。小学校のときから「話し方」の教科を課して

徹底的に教育することを置いて他にはない。なにも難しいことではない。

要点は次の二三の項目に尽きる。

1.一人の相手と会話をするときには、相手の目を直視して話せ。

2.多人数に対して話すときには、人数と会場の広さに応じて

  声の大きさと、話の速度を調節せよ。勿論、人数と広さが大きくなれば

  声を大きくし、ゆっくり話さなければならない。ボクシングやプロレスの

  リングアナウンサーのアナウンスを聞け。「アーカーコーナー。ヘービー

  級チャンピーオーン。モーハーメッドーアーリー。。。。」狭い部屋で

  数人を相手にあんな派手な発言をしたら,それこそ狂人だが、広いスタジアムと

  喧噪と騒音の中では、あれでなくては隅々まで徹底しない。誠に理に叶っている。

3.聴衆を見渡せ。頷く人が数人見つかればそれは成功のしるしである。

4.常に聴衆を楽しませようと努力せよ。話の中に少なくとも一カ所、さわりを設けよ。

  読書にはげみ、見聞を広め、教養を深めて置け。

以上のような趣旨の教訓を旧制中学生の私に教えてくれたのは、国語の先生でも

漢文の先生でも英語の先生でもない。なんと軍事教練の担当で陸軍退役中尉の

尾関慶十郎先生だった。部下に号令をかけるときの心得として教えて貰った。

級長---今は学級委員というらしい---をしていた関係で特に目を掛けられていた

ので、先生の教えが身に沁みた。先生はいつも軍服軍帽に身を固め、いかつい

顔をして,ときどき面白いことをひょいひょいといった。

軍隊ではやたら難解な漢語を使い、あらゆることが決められていた。まじめな顔

をして「睾丸(コウガン)は袴下(コシタ,ズボン下)の左に入れろー」といった

のにはあきれた。

三年生になると銃をもたされた。有名な三八式歩兵銃である。部品の名前は全部

漢語だった。雨が降ると銘々が銃器庫から銃をとりだして雨天体操場で分解手入れをした。

撃鉄(引き金)を引くと留め金が外れて、発条(バネ)の力で飛び出して弾丸の底部

の信管を衝撃する細い棒のような部品がある。「これは撃茎(ゲッケイ)だ。

おもしろーいーかー」といってにやりと笑った。

姿勢の悪い者がいると必ず「ひかがみを延ばせー」といった。「ひかがみ」は

「ひきかがみ」のつづまった形で,美しいやまと言葉である.膝小僧の裏側の

のっぺりした,人体の中でも最も美しい部分をいう.現在では全くの死語で

これがわかる人は,百人中一人もいないであろう.漢字では膕と書く.

 誰も教えてくれなかった「話し方」を、ただ一人みっちり教えてくれた今は亡き

先生の面影を偲んで筆を置く.



名は体を表す?!

2005-04-25 13:03:13 | 言葉
つい先日バス停で市バスを待っていたら、目の前に洋菓子店があった。

店の名前は"Plaisir". このままにして置けばよかった。ところが

ご丁寧に間違ったふりがなを付けてしまった。”プレジュール”。この語が

英語のpleasureプレジュアと同根だと分かってのことか。勿論”プレズィール”

でなければならない。こういう例は時々見かける。ドイツ語Inselインゼル(島)を

”インジェル”と思っているパン屋さんもあったっけ。

商品のイメージ作りのために、関係のある外国の名前をつけるのは少しも構わない。

しかし、それならそれで、正しい発音を確かめるために、信用の置ける人に

相談する手間を惜しんではならない。そうでないと肝心の商品まで”訳あり”

ではないかと疑いたくなる。

 Plaisir ですぐ心に浮かぶのはクラシック歌謡の”Plaisir d'Amour"

(愛の歓び)である。”愛の歓びは束の間の歓び、愛の悲しみ永久(とわ)

の悲しみ”と歌うあの有名な歌。原歌詞はフランス語とイタリア語の両方があるが

フランス語の方がしっくりする。作者はGiovanni Martini というから

てっきりイタリア人かと思うと案に相違してフランス人のペンネーム。こういう例では

あの宝塚少女歌劇の名歌”すみれの花咲く頃”の本歌"Quand refleuriront les lilas

blancs" (白いリラの花が咲く頃)が作詞者Fritz Rotter、作曲者Frantz Dölle
 
というドイツの歌の替え歌であったり、シャンソンの”ラストダンスは私と”

がM.Schuman作曲のアメリカの曲であったりする。最後にデカイのをもう一つ。

フランク・シナトラの熱唱で有名な”My Way".ポール・アンカの作詞で

人生の終盤を迎えた男が”おれはやったんだ。とことんおれ流でな。”と

胸を張り、誇り高く聳え立ちながら雄叫びを挙げる。アメリカ気質の標本

のような歌がもとを正せば、シャンソンの”Comme d'habitude"(いつものように)

の替え歌で、しかもその歌詞は、しがない共稼ぎのサラリーマンの冴えない一日を

自虐的に歌ったもの。”目が覚めた。あいつはまだ眠っている。揺り起こすと

背中を向けて知らん顔。いつものように----いつものように----いつものように”

という調子。こんなうらぶれた歌が歌詞を変えると途端にあんなに勇ましい歌に

変身する。いやはや!





”ツーナウト”とは何事ぞ!

2005-04-12 12:09:54 | 言葉
 プロ野球のテレビ放送を見ているとアナウンサーの中に

 ”ツーナウト”という人がいる。one out を”ワンナウト”というからといって

 two の語尾にnの音がないのに、”ツーナウト”というのは、聞いているこちらが

 恥ずかしくなるほど、見苦しい、いや、聞き苦しい。美しい日本語の模範たるべき

 アナウンサーがこれでは情けない。自分で変だとは思わないのか?近くの同僚など

 がなぜ注意してやらないのか? 不思議である.(気を付けて聞いていると

 ”スリーナウト”というのもいる.いやはや.)

こういう無神経な輩(やから)に贈る格好の言葉がある。フランス語特有の

 リエゾン----普段は発音されない語尾の子音字が、つぎに母音が来ると復活して

発音される-----に関してpataquèsパタケースという語がある。大型書店へ
 
行ってロベールギランの大きな仏和辞典をヨッコラショと引くと、(Je ne sais)

pas à qu'est ce(ジュヌセ)パザケースという文章を読むとき、pas とà の間に

誤って t を入れて パタケースと読む愚を揶揄したものだという。この言葉の

響きは東京の「馬鹿」、大阪の「あほ」に相当する名古屋の「たわけ」そっくり。