万博に、中部国際空港に今や日本で一番元気のよい名古屋が注目されている。
名古屋の食い物の”ひつまぶし”(これを”ひまつぶし”と読み間違えない方が
おかしい)、味噌煮込み、味噌カツ、きしめんなどが喧伝されている。名古屋弁
も少しは注目されるようになったが、どうもその本当の姿が伝えられていないように思う。
名古屋弁を愛する名古屋人として発言したい。
名古屋弁には「やっとかめだなも」(久しぶりですね)で代表される”なもなも”言葉
----料亭の女将などの階層に残っている、昔ながらの上品な城下町言葉の名残---と
タモリのからかいの対象となった「やろまえあか」(やりましょうか)で代表される
方言の集まりがある。その特徴は「アイ」「オイ」「ウイ」などの重母音と軽母音
の組み合わせの二重母音を、二つの母音の中間の曖昧単母音に転化する現象に
ある。「やろまえあか」は「やろまいか」の転化で、無理に「えあ」と書いた
のは正しくはアメリカ英語のhand のaの発音で,発音記号でǽと書くべきものである.
----東急ハンズは正しくはトウキュウハエンズ----------
タモリのいう「やろみやーか」では絶対にない.
「とろえーこといってれえあーすな」(馬鹿なことをいわないでください)の
「とろえー」は「とろい」の転化である。ドイツ語のオーウムラウトőと思えばよい.
「あーす」は丁寧語「遊ばす」の簡略形。これには絶対の自信がある。少年時代、
お菓子やさんなどへ入る場合、「ごめやーす」といって入った。ところがおばさんや
おばあさん達は「ごめやーす」といった後にしばらくたってから「ばせ」
と付け加えるのだ。「ばせ」ってなんだろう。不思議に思ったがすぐには分から
なかった。どのくらいたってからかよく覚えていないが、これが天啓のように
「ごめやーすばせ」「ごめん遊ばせ」に違いないと分かったとき、子供心にも
大発見をしたと思い、うれしかった。
「どえらえあーうまえあーでかんわ」「どえらいうまいでいかんわ」
「どえらくうまいのでかなわない」は「でら----」とよく書かれるが
「で」と書いてしまっては駄目だ。非名古屋人に誤解を招く。
「ふーりゅーがや」「ふるいよ」の中間母音はドイツ語のü,フランス語のu,
中国語のyuに近い発音.
このように名古屋弁には標準の日本語には無い多くの中間的な母音がある.だから
名古屋人にとっては,英語,フランス語,ドイツ語,中国語の母音の発音は
何でもない筈だが,どうも簡単にそうは行かぬものらしい.
名古屋弁のもうひとつの特徴は,上の例からも分かるように,庶民的で,自然な、
謙遜(へりくだり)と諧謔(ユーモア)で,東京弁の流暢と気取りとは反対に,
大阪弁と通底するものがある.
八波むとし、由利徹と脱線トリオを形成した南利明は芸能人でただ一人
名古屋弁を誇らしげにまくし立てて名古屋人の心を引き立ててくれた.もう
二十年も前になろうか,テニスの仲間と伏見の御園座の近くの寿司屋で歓談
していた.ふと見ると南利明がカウンターで一人寂しそうに飲んでいた.こちらも
大分酔っていて,つい声を掛けたくなった.「南さんですね.いつも
名古屋弁を宣伝して頂いて心強く思っています.これからもがんばって下さい」
というようなことを二言三言いってすぐ別れた.迷惑だったろうがとにかく
聞いてくれた.
これもちょっと古い話.松坂屋本店のま向かいに朝日堂という小さいカメラ店
があって(現在も健在)安売りを宣伝し、テレビでひっきりなしにコマーシャルを
流していた.一時,今ではおばさんお笑いタレントの双璧の
柴田理恵と久本雅美のご両人が出演していて,名古屋弁でやりとりした後で,
「カメラもあるでよー」とポーズを作った.今ほど売れていない時に違いないが,
その生々しいど迫力に圧倒された.コマーシャルはあれでなくては駄目だ.
(某生命保険の何の魅力もない執拗さには飽き飽きする).
中丸明著「絵画で読む聖書」(新潮社)という面白い本がある.旧約と新約
の聖書の中で神様や預言者やキリスト---民衆に対する説教には,俗語の
アラム語を使ったという----が、なんと名古屋弁で仰せられるのである.
例えば,新約聖書「ルカ伝」第7章36節ー49節でイエスがマグダラのマリアに
「おまえあはいっぺえあ男を愛したったで,背負っとる罪はもうへあえ
(もはや)許されとるだがね.ちょこっとしか許されんもんは,ちょこっとしか
愛さなんだでなも.さあおまえあはもうへあえ許されとるで心配しなえーで
ゆくがえー」とおっしゃる.(原文一部変更)
同じく「ルカ伝」で「イエスいいけるは、さらばカイザルの物はカイザルに納め、
神の物は神に納めよ」とあるのが中丸さんの手にかかると「そんなら、ケアエーザル
のもんはケアエーザルにけえあーすがえー」となる。
”どえらあえーおもしろえーでかんわ.一ぺん読んだってちょー”.
名古屋の食い物の”ひつまぶし”(これを”ひまつぶし”と読み間違えない方が
おかしい)、味噌煮込み、味噌カツ、きしめんなどが喧伝されている。名古屋弁
も少しは注目されるようになったが、どうもその本当の姿が伝えられていないように思う。
名古屋弁を愛する名古屋人として発言したい。
名古屋弁には「やっとかめだなも」(久しぶりですね)で代表される”なもなも”言葉
----料亭の女将などの階層に残っている、昔ながらの上品な城下町言葉の名残---と
タモリのからかいの対象となった「やろまえあか」(やりましょうか)で代表される
方言の集まりがある。その特徴は「アイ」「オイ」「ウイ」などの重母音と軽母音
の組み合わせの二重母音を、二つの母音の中間の曖昧単母音に転化する現象に
ある。「やろまえあか」は「やろまいか」の転化で、無理に「えあ」と書いた
のは正しくはアメリカ英語のhand のaの発音で,発音記号でǽと書くべきものである.
----東急ハンズは正しくはトウキュウハエンズ----------
タモリのいう「やろみやーか」では絶対にない.
「とろえーこといってれえあーすな」(馬鹿なことをいわないでください)の
「とろえー」は「とろい」の転化である。ドイツ語のオーウムラウトőと思えばよい.
「あーす」は丁寧語「遊ばす」の簡略形。これには絶対の自信がある。少年時代、
お菓子やさんなどへ入る場合、「ごめやーす」といって入った。ところがおばさんや
おばあさん達は「ごめやーす」といった後にしばらくたってから「ばせ」
と付け加えるのだ。「ばせ」ってなんだろう。不思議に思ったがすぐには分から
なかった。どのくらいたってからかよく覚えていないが、これが天啓のように
「ごめやーすばせ」「ごめん遊ばせ」に違いないと分かったとき、子供心にも
大発見をしたと思い、うれしかった。
「どえらえあーうまえあーでかんわ」「どえらいうまいでいかんわ」
「どえらくうまいのでかなわない」は「でら----」とよく書かれるが
「で」と書いてしまっては駄目だ。非名古屋人に誤解を招く。
「ふーりゅーがや」「ふるいよ」の中間母音はドイツ語のü,フランス語のu,
中国語のyuに近い発音.
このように名古屋弁には標準の日本語には無い多くの中間的な母音がある.だから
名古屋人にとっては,英語,フランス語,ドイツ語,中国語の母音の発音は
何でもない筈だが,どうも簡単にそうは行かぬものらしい.
名古屋弁のもうひとつの特徴は,上の例からも分かるように,庶民的で,自然な、
謙遜(へりくだり)と諧謔(ユーモア)で,東京弁の流暢と気取りとは反対に,
大阪弁と通底するものがある.
八波むとし、由利徹と脱線トリオを形成した南利明は芸能人でただ一人
名古屋弁を誇らしげにまくし立てて名古屋人の心を引き立ててくれた.もう
二十年も前になろうか,テニスの仲間と伏見の御園座の近くの寿司屋で歓談
していた.ふと見ると南利明がカウンターで一人寂しそうに飲んでいた.こちらも
大分酔っていて,つい声を掛けたくなった.「南さんですね.いつも
名古屋弁を宣伝して頂いて心強く思っています.これからもがんばって下さい」
というようなことを二言三言いってすぐ別れた.迷惑だったろうがとにかく
聞いてくれた.
これもちょっと古い話.松坂屋本店のま向かいに朝日堂という小さいカメラ店
があって(現在も健在)安売りを宣伝し、テレビでひっきりなしにコマーシャルを
流していた.一時,今ではおばさんお笑いタレントの双璧の
柴田理恵と久本雅美のご両人が出演していて,名古屋弁でやりとりした後で,
「カメラもあるでよー」とポーズを作った.今ほど売れていない時に違いないが,
その生々しいど迫力に圧倒された.コマーシャルはあれでなくては駄目だ.
(某生命保険の何の魅力もない執拗さには飽き飽きする).
中丸明著「絵画で読む聖書」(新潮社)という面白い本がある.旧約と新約
の聖書の中で神様や預言者やキリスト---民衆に対する説教には,俗語の
アラム語を使ったという----が、なんと名古屋弁で仰せられるのである.
例えば,新約聖書「ルカ伝」第7章36節ー49節でイエスがマグダラのマリアに
「おまえあはいっぺえあ男を愛したったで,背負っとる罪はもうへあえ
(もはや)許されとるだがね.ちょこっとしか許されんもんは,ちょこっとしか
愛さなんだでなも.さあおまえあはもうへあえ許されとるで心配しなえーで
ゆくがえー」とおっしゃる.(原文一部変更)
同じく「ルカ伝」で「イエスいいけるは、さらばカイザルの物はカイザルに納め、
神の物は神に納めよ」とあるのが中丸さんの手にかかると「そんなら、ケアエーザル
のもんはケアエーザルにけえあーすがえー」となる。
”どえらあえーおもしろえーでかんわ.一ぺん読んだってちょー”.