日刊ミヤガワ

作家・表現教育者宮川俊彦によるニッポン唯一、論評専門マガジン。

1月23日 評判・・か

2009年01月23日 | Weblog
日刊ミヤガワ1849号 2008 1.23

「評判・・か」

人の心には無数の自分がいる。それは無数の他者を宿しているからかも知れない。統一した自己は見せるものだし見られるものだ。誤解は招くものだし招かれるものだ。
それを怖がるのだ。なぜなら人は誤解こそ強大な波になることを知っているから。評判がいいとか評判が悪いとか、そういうことばかり話したり気にしたりする人がいる。
自分が無限なのだから、人は分かりやすく分かろうとする。それを確めるほどの真剣さなどない。悪意の評判など意図的ならば面白がって尾鰭がつく。褒めたいよりもやっかみが人を突き動かすものらしい。
相対化していきたいのだろう。している自分は密かに樽の中で絶対化している。それに乗る連中も単純に信じる人もいるが、似たような絶対化を図ろうとする人もいる。
自分で判断するほどの必要も、必然もないのなら、適当に話を聞いて、不思議とそう云う話は耳に残るものだ。
ボクはそういうのがトコトン唾棄していて、昔から指弾されるような立場の人たちを却って擁護したり、付き合ったり、いずれにしても世間の評価などの逆を覗こうとしてきた。
この世に生を受けて、それなりに真摯に生きている者を、指弾して手にするものは何か。幼いと思うし、下らないと思う。
人が人から離れるときは、離れたいからだ。その意志を持てば、意志を合理化する材料を無限に探すものだ。そして心を捻じ曲げ、統一して決断を遂行しようとする。人にも云う。人はそれを面白がって支持するものだ。
評判が悪いと云われるときの、発端や種となった人をよくよく見つけ出して精査したらいい。意外と近くにいて、何かの事情で離れたような人がいるものだ。
これは本当の人の怖さを知らない。判断した自分が逆に追い詰められるときもいずれ来る。波紋というのは、岸に着いたら返ってくるものだ。そのときにもみくちゃに合う。
人のことは評判を貶めるべきではない。健全な批判と異質の悪口は最終的にはろくなことにならない。これは子どもたちの世界にもある。母たちの世界にもある。老人の世界にもある。男の世界など日常茶飯事だ。
その種のことしか云わぬ者は、無視したらいい。どこにだっているものだ。そして仕掛けて困った顔でもしたら溜飲を下げる。時にはカサにかかる。
弁解や自己正当化などするのも無駄だ。いずれ泣き喚いて縮んでいく。
卑屈を知るのは己自身。闇の笑いはその程度に自分を囚われさせる。自分が情けないと知らないと阿鼻叫喚に溺れていく。
水浴びして溺れた子を旅人助けるか。イソップは問い詰めている。旅人はお前が向こう見ずだからいけないと諭す。しかし子は説教は後で聞くから先ず助けろと云う。イソップは嫌な奴だ。グイグイと痛いところを突いてくる。
助けたらこの子はまた繰り返すかもしれない。それどころか助けた人を悪く云い、逆に川に突き落とすかもしれない。
聞こえぬ振りをして通り過ぎれば、しかし罪の意識に生涯苛まれる。救うのは手を貸すことではない。そこで泳ぎを教える手もある。必死に覚える。あるいは浮くことを教える。それだけでも恩人だ。黙って上流に行って筏や大木でも流すか。偶然のようにして。
手を貸せばしがみつき、離せば恨む。どうも面白くはない。人の善意を逆手に取る人はいつもいる。
見解の相違にしているのは、それも善意なのだ。
数なのか。質なのか。ひどく単純に還元すればそうなる。

戦うってのはそういうことでもある。戦線放棄したらそいつらと同類になる。
水浴びしてはいけません、という看板にロープでもつけて先端を子に投げるか。無条件に救うのがいいと心底思っていながら、何か釈然としない。それを口にするときっと評判を落とす。善意の行動の根拠は何だろうなと、考えていた。

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