日刊ミヤガワ

作家・表現教育者宮川俊彦によるニッポン唯一、論評専門マガジン。

1月11日 プアゾン

2009年01月11日 | Weblog
日刊ミヤガワ1837号 2008 1.11

「プアゾン」

突然のことだったけれど、その名前の香水の匂いを思い出していた。多分二十年前。作文研にもその匂いがいつもあった。新幹線の中にも飛行機の中にもワシントンDCにも、どこでもその匂いが感じられた。匂いを思い出したらそれに連れて場面があれこれと思い出されてきた。やはり連結しているのだ。
ポイズンというのが英語読み。「毒」という名前だった。そのインパクトもあった。
世界のあちこちで同じ匂い。不思議だと思った。それこそボクがその匂いに憑依でもされているのかと真剣に考えたほど。強烈過ぎる匂いの記憶を随所で反芻していたのかとも。
そうでもないらしい。本当に世界で流行していたのだそうだ。20年後の今知った。年末にそんな話をしていた。講義でもしていた。資料ということでもないだろうが、スタッフがデパートで紙に匂いを染ませて持って来た。三枚あって、そのどれかと云う。聞けばみんなプアゾンなのだ。進化もしているらしいが覚えている匂いは一番オーソドックスのものだったようだ。
恥ずかしい話だが、朝机の上でその匂いを少し嗅いで元気がでていた。匂い一つで他愛のないものだ。何人かの子たちは嗅いで「ママも持ったいてような」にどと携帯で尋ねたりしていた。たかが香水一つで妙なネットワークが繋がる。無縁の人もいれば、そういう質のものは好まないという人もいる。しかし知っていた。ポピュラーだったのだ。随所で嗅ぐわけだ。
この匂いは強い。今日もまだ匂っている。つまりは二週間。確かに強烈だ。
しかしなぜか再会した喜びで胸が熱くなっている。そんなに好きだったわけではないのだろうが、懐かしさがそうさせる。行動的にはバリバリだった頃。その過去の記憶の中の自分を遠く眺望している。
匂いに満ちていた。
最近、香水をつける人は激減したのではないか。外国人はまだ健在だ。体臭でも強いのかもしれない。それはわかる。日本人の女たちが、あの頃のような香水文化から撤退しているように思える。何か理由でもあるのだろうかと、あちこち聞いてみている。
どうも強い匂いは敬遠されるらしい。陰口が多いらしい。タバコの匂いも敬遠される時世だ。世の中から匂いは消えて、淡い石鹸などの自然な匂いが蔓延しているとも云う。
とすればあの時期は、過度的実験、試用の段階だったということか。今はその種の香水などはダサイとされるものに成り果てたか。
やや淋しい気もする。タクシーの運転手氏もそれを指摘する。40年間のベテランが云っていた。匂いってのは大切ですねえなどと語り合い興じていた。
いつも思うのだが、ソメイヨシノの文化と同質だ。この国は成熟でなく爛熟し衰退していくことに、淡さを醸し出している。
個人が個人として生彩を放つ。匂いを発する。そういう個人ではない。同質的匂いに同化していくことでささやかな自己を示し続ける。融和した淡い埋没の匂い。しかし・・、それを云うならばかつての世界同時流行を纏った時代の個人も身やはり同質なのだと気づく。
匂い袋やお香の文化もあった国だ。日本の匂い。振り子のようにそこに還るのか。もうそれすらなくしてただ同調の淡さにあり続けるか。
暫くこの匂いに包まれたいと思った。買いに行こうと思う。その間の時代を総括してみたい。匂いは記憶の扉、その時点の原点を見極める装置だ。

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