日刊ミヤガワ

作家・表現教育者宮川俊彦によるニッポン唯一、論評専門マガジン。

8月31日 選挙講評

2009年08月31日 | Weblog
日刊ミヤガワ2069号  2009 8.31

「選挙講評」

一揆である。革命の前章とは思えない。平和なコップの中の嵐である。無血クーデターというほと゜どのこともない。
国民のバランス感が機能したとは思えない。むしろ全て予定調和のように思う。従順な国民性を示している。
「人」よりも「党派」になった。選挙制度の傾向というのは一面の解釈。人そのものが政治舞台から後退している。金太郎飴は愈々国会も覆うことになる。前回選挙の際のキャリアふー万やブランド刺客は衰退し、所謂偉そうで生意気そうな人たちは落ちている。泥臭い等身大でありつつも、真面目要で元気のいい若手が伸びている。
変動を見るならそこだろう。過去キャリアなど大臣だろうが党首だろうがご利益は落ちている。
権威の相対化は当然のことだ。しかし、それもまた選択肢の並べ方の帰結。
驚きもないが、少しばかりの感慨はある。
マドンナ旋風のときは結局山は動かなかった。新進党のときも長くは続かなかった。しかし漸く確実に自民は敗北した。メディアズ興奮する気持ちも分かる。
国民は政権選択をした。分りやすい選挙になった。今後こうしたテーマ選挙になるのだろう。選ぶことの素朴な行為が選ばせている。
それ以上でも以下でもない。
自民は解散したら負けると分っていたから、ギリギリまで選挙を延ばしてその關に懸案処理をしたらいいと、見ていたが何もできなかった。混乱と醜態だけを見せていた。・ここには基軸が曖昧なことと強力なリーダーシップがないこと。崖っぷちの危機意識がないと思った。点数は上げられないでいた。普通の計画楽章をしていただけのこと。安部、福田もいい球だった。しかしボクがしっている過去のリーダーのような腹の括り方は乏しかった。麻生も軽いが、育ちのいい裏のない質はあった。活かせはなんとかできた。これは人がてないということ。ボンとジョーの集団になっていた。
公明は抱き合い心中につき合わされている。昨年辺りから連立離脱や距離を置いてもいいと思っていたが、支えていた。自他の客観化はもつと冷徹であるべきだった。これは路線の大変革を余儀なくされる。
民主は重い責を負う事になる。この付託への応え方で、国民意識の練り方が変わってくる。政権党として試練はきつくなる。攻撃も多くなるが、いずれ再編成はあるだろう。

政治というより議会は国民に近くなった。そうか。これで官僚支配と腐敗や格差社会は是正されるか。政策の転換があるか。そうか。そしてうまくいったら国民から次に丸を貰い、駄目なら変えるか。
交代になるか交替なのか。ここから暫くガ国民が本当に注視しなくてはならないだろう。
期待しつつ今度はどうなるかと不安になるのが国民心情。そこをどう汲むか。どう民心安定に向けられるか。
政治に左右されることなく着実に培わなくてはならないものが国家にはある。根底的対峙は一層深化する。
距離を余計に感じなくてはならない夜。

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8月30日 シュ

2009年08月30日 | Weblog
日刊ミヤガワ2068号  2009 8.30

「シュ」

名前はよく知らないが、消毒剤で迎えられるようになった。ハエのようにスプレーを掛けられてから家に入る。
過剰反応とボクの機嫌は悪いのだが、何日かやられているとこれが癖になる。ないととうも気持ち悪くなった。見えないウイルスの群れがうじゃうじゃ蠢いている気分になる。
清潔思想とは怖いものだ。衛生は洗脳しやすい。やはり健康ファシズムは容易に形成されるものと確認できる。
理屈ではない。この感覚、気分として、・・、それが大きく機能する。手洗い、うがいも朝シャン、も習慣だが本質としては気分の問題としてある。生理的に嫌悪することは決定的でもある。
非論理的なことが、一番説得力がある。論理の無力をふと思う。
手をシュシュをして上がり、着替えてまた、石鹸で洗う。二度手間ではないかと面倒に思ったが、これも数回のうちに習慣になった。
特講中ボクは早く帰宅していた。予備校が居場所になった娘を迎える側になっている。そこで書斎の方に顔を出したら、シュをすることにした。これが大騒ぎになる。
そこはよせよ、やめろよと玄関でわーギャーと騒ぐ.スプレーの奪い合いになったりする。そこそこ溜っているものもあるのだろう。稚気稚気バンバン、じゃれ合っている。
これが消毒だからいい。水鉄砲ならストレートすぎる。もったいないと叱られつつも興じている。こんなどうでもいいひと時が楽しい。
水溜りで遊んで叱られると分ってもやりたいように、どろんこ遊びがうらやましいように。これは解放の時間になる。
夏が終わろうという時に大流行とか。夏のはじめに云えば、行楽は激減か。選挙も盛りレ上がらない。発表の時期を操作したらしい。潜行し蔓延していたのなら、この間は怠慢と云うべき。ワクチンが足りないなどと惚けたことを云うべきではない。
またぞろ国民の危機意識を掻き立てる。今度は死者も出ている。医療先進国もないものだ。ただの怠慢。準備不足。国民をいいように操作している。
感染し重症になりやすい傾向に、妊娠中以外の項目は全て当てはまっている。医者にも気をつけてねと云われている。
そう云われたって・・・。
せめてシュか。消毒とファプリーズと間違えるが、並んで玄関に置いてある。そのそばには緑の石のシーサー一対。かなりの防御。異様な組み合わせ。・・効くのかな。

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8月29日 最終日雑感

2009年08月29日 | Weblog
日刊ミヤガワ2067号  2009 8.29

「最終日雑感」

なかなか質のいい生徒が集まっていた。何回か来ている者はやはり掴んでいる。何をどう書いたら褒めて貰えるかという姿勢はなくなっていく。
一歩この空間を出たら洞察して勘㋾働かせて装えと、場の意味が分かってきている。今回はレポートも書かず閉じた。といっても聞こうとすれば隣室で聞いていられる。親も受講したし親子三代もいた。・
それでいい。本質は講義にある。
書くかどうか何を書くかはさしたるテーマではない。しかしそれが理解できずチンプンカンプンなのは親の側にこそあって子達はむしろ掴んでいる。ただ小さい子はそれを言葉として親に伝えられない。だから援助の意味もあってレポートを書いたが、分かる親はなくても分かるが、分からぬ親は余計に分からなくなるようだ。
そこには子育てということでなく、思考の基本の欠格を感じる。つまりは分かろうとしない。自己のささやかな価値観を絶対化して憚らぬ頑迷さ、そして現代の中間層倫理観の纏い、・・・。それへの信仰と云うよりしがみさきがある。
疑わず素直に真っ直ぐ伸びればいいという、スーパーに出荷して都会のブタのようなママたちに評価してもらえる大根やきゅうりにしたらいいとしている。規格のSML程度で、また産地で、作られ方で値を違え、規格外はくずとみる、そんな下損で愚劣で低次元の思想がも子にも人の見方にも当て嵌めている。
一色単の危険、一律の危険を唱えてきたが、分る人は分る。分らぬ人は分かろうとしない。最近では偏差値の高いと思っていね人の方がそういう頑迷硬直が見られる。そしてそれに憧れるしかないという人たちが群れとなる。
最前線にいる人や知性の高さやバランスをえて生きている人は、とっくに見抜くし、何がどう問題なのかも見抜いている。これは年齢は関係ない。読書量も関係ない。知的活動の基本サイクルを獲得している人なのだと思える。こういう人は実は一割もいないというのが実感としてある。その人たちがここでは大半になる。
それが痛快でもあり、ボクの緩みを許さないきつさの原因でもある。日々日刊を書き綴る理由の一つは間違いなくそこにある。
そういう人たちには分らせる努力は必要ない。ただボクが真摯な探求と展開と可能性を示すのを見ている。触発すると云うが、無論されている。相互作用だ。だから特講で゛一日いただけで思考はフル回転する。なけなしの蓄積など総動員したって足らなくなる。
そういう快感を快感と取るか、苦痛と取るかはそれもまた個々の力量、ギャパの問題としてある。しかし居やすくなったら、勝手に自分を大きくして行くものだ。
誤魔化しは効かない。それを分るのは他ならぬ自分。そんな空間があっていい。そして食いつき、考え、食い足らぬ自己を抱える。

楽しいものだ。感性が舞、い咆哮し合っている。そんな時は思う。論理など手続き人、要領人の規範だと。高度な知性はきっと論理を云うほど尊重しない。こうしたら分るんだろ、という視線になる。
しかしそれを求める社会や風潮は、彼らの自在な雄飛やも荒唐無稽を排除したいのだろう。
言葉も表現も制度だから、倫理人は畢竟制度人になる。だが自由という精度を信仰しつつそれを規範化する。
ここの思索と表現は前提も問う。問い続ける。それをしていくと、この人はどこでどう自己制度化しかたが見えてくる。世間じゃ通用しない。そんなことは知ったことではない。
だからこの空間はある。無理なく屹立している。プラトンはきっとここに来る。アカデミアの本義だ。

かなりのレベルになっている。今回は少し言葉少なに突き放したが、よく喰らいついていた。赤入れでなくコメントを欲しがるようになっている。
だんだん遅々たるものだが、山は登ってきている。
終わりだ。ご苦労様。ビデオもテープもなし。記録は何もなし。ボクのビデオカメラも消えていた。
これからは本物の核となるチームがないとな。持続努力が才能だという軸を忘れてはいけない。

短いようで、しかし長い夏だった。何かもったいないと個人的には思う。秋に向ける。

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8月28日 指導者育成

2009年08月28日 | Weblog
日刊ミヤガワ2066号  2009 8.28

「指導者育成」

少しづつだが指導の方法を伝えようとしている。暫く一人で担ってきた。誰が指導しても気に入らない。形はできていて、ミーハーは誤魔化せたとしても、眼力鋭い親子は一発でて見抜く。
指導・・赤入れはそうそう簡単ではない。30年以上やり続けていてもこれでいいということはない。相手によっても全く違う。言葉が過ぎれば依存させる。足りぬくらいはいいかん゛、その際のコメントや渡すときの一言やアイコンタクトは瞬時に考え、対処しないとならない。
文や文字を直すなどの校正指導や、一般乾燥や、書き換えをするのが指導なら、そんな簡単なことはない。
編集者や作家などに過去させたことはあったが、これは全滅だった。自己の世界を持ち込み過ぎる。教師はもっと駄目。教師性の悪しき部分が鼻につく。自信ない指導者は遠慮だけになり、無難なところを突く。心理分析者は読み過ぎるが言葉の効果に途惑う。
指導をしようということがおこがましい。そんなものを浅く望むものに対応する必要はない。分ろうとする姿勢を示し続けることだ。
主語、主語性の確認。これが思考や視点観点に対応して行く。よって述部はよほどスットコドッコイでない限りは創り上げている。そのつくりに目が行く指導は校正指導。ボクの域とは違う。ボクは主語そのものと、その主語の展開、転移、分岐・・そこに目が行く。思考はそこに集約されていく。
接続、展開言語は当然次のポイントになる。改行だの段落だの構成、構築、設計・・これらはここに集約される。ここでも校正指導とボクとは隔絶がある。
ただチャックするだけでも、分かる子にはピンと来る。な、と見せれば、おっなどと目を剥く。それで指導は終わっていい。
充分だ。余計な言葉は要らない。この二つだけでも構造。骨格の肝要になる。それは分析的読解。指導者が読解なくてしどうできるはずはない。
指導しようとして読むのは土台立脚が異なっている。理解が表現を規定するという原作はここでも通底する。
感想ではない。指導者の個人感想に拠るなら、お前は何者だとボクは問う。
感想でなく、位置づけなのだ。読んでその書き手の背景や言葉の過程や知識や根拠の取り出し先や、素材の出典や、視点や、感覚性や、人格や全体の表現状況でのポジションや、それを掴めるだけの蓄積はなくてはならない。それは狭隘な学習歴では駄目だし、答え学習の経験でも駄目。素直で広汎で巨視去私の面が求められる。
自分であればとか、自己実現などを標榜している人たちはそこで欠格になる。指導者に癖は要らない。包含とただ受容とが着実に肥大していかないとならない。
この辺で現代の教養人・・あると思い込んでい流流行人は脱落する。
もっとそんなことを求めていたら、とんでもない修行僧の道になる。やろうと思っても溜息をついて、自分は何よと考え込んで、そのうちにわけが分らなくなる。
そんなことも考えない程度の指導者、停止してしまったり、放棄してしまったした指導者とつき合わされたら、書くのは嫌になるだろうし、間違った考えを植えつけられる。
それで満足している親子はそれでいい。その程度だ。悲しい現実だが表現や言語の教育は、力量実態が露呈する。
指導を少しとづつ教えていこうと思う。今回は何人かそのスタッフが生まれている。指導の観点など生徒の前で話している。まだ未成熟は当たり前だが、じっくりと獲得してもらおうと思う。
指導することが、またボクの教育の一貫になる。そんなに空間になってきている。
指導も学ぼうとしたら、来てみたらいい。かなり学べる。そこから書くこと、探求や読解も学べる.
指導者を育成しないとならないなと思う。雇うなどと云う発想はないしその能力をボクはきっと認めない。
赤入れ講座の常連の中から、参加者が出ていることが嬉しい。関連してくるものだ。

読売は28日朝刊に出るとのこと。
来週はサンケイで書評掲載とのこと。
ご笑覧を。

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8月27日 反転

2009年08月27日 | Weblog
日刊ミヤガワ2065号  2009 8.27

「反転」

今回の特講は穏やかに進んでいる。指導スタッフも機能し始めた。言葉が多すぎるのを控えることに下。受講生も穏やかに過ごしている。
無理に仕掛けなくても理解する受講生たちだから、疲れ方が違う。日を追って親しくなる。今年もいろんな出会いがあった。今日で最後なんだという目は訴えている。
また来い、そう云うと涙目になる。言葉に関わる教育の場は、刺激的なのだ。教えられ続ける環境の者にとって触発は途惑いつつも快感になる。
ずっとここにいたいよと云う。そう思って、しかんしずっと年がら年中いたらよくない。居たい場に場に居続けることは逃避なのだ。
週一や年数回でいい。来なくてはならないと思うとき来たらいい。それは成長だ。中年になっても来る県中は来なくてはならない何かがある。来るのもそれけを我慢するのもそれも成長だ。
本を書き上げてここ二年を振り返る。かなりきつい、暗い日々だったと思う。思索が鋭角に突き進んでいく。
最近、そうだよ、ボクは元来陽気でワイワイやるのが好きだったと思い出している。気力が回復し、服装も変わり、杖もない。元気ですねと久々会う人たちには評する。なんでも極端に没頭する質だ。きりはない。
疲れ方が全然違う。過酷な自己追い込みが続いていた。暫くゆったりとしたいと思った。無理と知りつつ、ほどほどという言葉が沁みる。生き急ぎの必要を急に感じなくなった。
ペストを脱ぎ、つりベルトをやめたら、少し若返った。爺防衛を暫くしていたことになる。仙人暮らしからの復帰は一時大変で下らなかったが、慣れればどうということもない。こんなものだったかなと思えてくる。
反転法。ひらりひらり身を躱すのでなく、生きる現場と投影した自己に呼応して舞う。扇子で゛紙吹雪を舞わせるようなもの。
そしてきっとまた集めて舞わせる。自分の重さで舞って行く。

そう云えば今日は読売が全国学力調査の結果へのコメント取材に来た。記者はなかなか怜悧だった。質問の的と射程がいい。近々掲載されると思う。
言葉は舞わない。楽しさを創り上げてみよう。それこそ本当の戦いになる。

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8月26日 ポップコーン

2009年08月26日 | Weblog
日刊ミヤガワ2064号  2009 8.26

「ポップコーン」

議員の力を過小評価してはならないが、過大評価するのもいかがわしい・。
官僚悪者論、官僚支配打破でも語っていたら、国民受けはする。それを熟知しているのは当の官僚である。
政権交代に怯えるふりょしていたらいい。悪代官いじめで国民は溜飲を下げる。少しばかりの修正等どうということはない。そうでなくても政治介入で無理に変えられたものを是正していくいいチャンスでもある。
民主が勝っても新人は多い。むしろ手の上で躍らせられる。本当は官僚は今の政治家などてんで相手にはしていない。
小選挙区になって余計にそうなった。議員は身の安全が第一。政策通といったところで、原理は国民向けり人気を得ないとならない。
官僚はその本音に介入する。威張らせて米搗きバッタ然としている者が、一番実質権力を持つ。
従っている者、唯々諾々としている者、云われたことをこなして行く者、それが実力者になる。じゃやつてごらんなさいと引いたらたちまち往生する。
財務官僚の支配はかなり浸透している。かつての大蔵時代より強まっている。
族議員や大物がいなくなってきた。世代交代は一見政治主導を演じられるけれど、その実は煩い者がいなくなったことを意味している。
官僚腐敗や無駄遣いを流して、議員は人気が取れるが、官僚も却ってより合理的な改革を進められる。議員はそこでも走狗になっている。
国民はしかしそれによって少しでもいい世の中になると耳目と期待を引き付けられる。全体としてマイナスはない。
何人かの犠牲やもともと無駄な団体や制度の切り捨ては、予定のこととしてある。
官僚が全官僚を守ろうと思っているはずはない。官僚機構とそこでの実質政治性をこそ見抜くべきだ。
そして見抜いたとして、さてどうメスを入れられるか。改造できるか。本来すべきことは何かが聞こえてこない。
つまりは出来レースと見ていい。政権交代は内にはガス抜き、外には成熟民主国家としての表現。従来政策の集成契機。因習の崩壊。何も困るどころか、本質としては泰然自若だ。
時の政権政党の政策と実効の中枢を握っていたらいい。・保険くらい掛けるどころか、それをも運出して見せる。
頭でっかちのお調子者は、結局見せられるものに触れ回される。その程度の知識と感度で生きている。
そうである以上、簡単に御されていくものだ。知識と自己表現はかくして、頭を撫でられつつコントロールされる。
言語統治、表現統治の視点からでないと本質は見えないが、それを語る誠実さはない。
だから議員も御される。
そうか。云うべきじゃないか。知らない方がいいね。知ってもどうしようもないと思うのだから。
そうそう。触れないで鈍いふりをしていたらいいさ。御身大事。いつか誰かが何とかしてくれる。立ち上がってくれる。ドラマを夢見て、現実もドラマにして行く。
虚構の多重。政党の表現をよく読解してみたらいい。葉だ。幹や根は触れられない。こんなものはアンケートだろう。誠実さはない。しかし国民はそこに囚われる。こうなったらいいね、とか、なるわけないよ、とか。思考と言葉はその辺をウロチョロしている。
総体視座は弱い。語る物も黙している。やはり凡人の凡人による凡人のための社会。
深夜ポップコーンを放り投げて口で受けている。

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8月25日 問いの問い

2009年08月25日 | Weblog
日刊ミヤガワ2063号  2009 8.25

「問いの問い」

通常特講にきている者が感想文特講に来るのはいい。的が絞られるし、肝要を掴んでいる。今回も赤羽や大地っちなど、普段来ている子は秀逸だった。文心を掴んでいる。
初めて来たのが感想文特講というのは、意気はいいとしても多分に力業になる。宿題佐引き受け講座ではない。
フーフー苦労していたものが、ここで仕上げられたらいいと参加者は目論むのだろうし、その動機は可愛い。何とか手伝ってやりたいとは思う。
しかし残念ながらボクは学校を意識していない。学校の成果も評価も、それは平均的国民形成の場と思うから、学校一義の人の素朴な発想は相容れないものがある。
そんなことを云っていては食べてはいけないから、ほどほどの対応はするけれど、その過程で何が自分にとって肝要かは、理解させたいとは思う。
まどろこしいものだ。何を読むか、と問えば、本と答える。この低次元が既に退屈だ。書かれてないものを読む、根幹のテーマを読む、読んでいる自分を読む、根源の問いを読む、・・・。・・・。山ほど答えは発せられていい。
要は自己が何者かであろうとするための学習ではない。担うものが自覚避されないと浅いパクリになる。これは結局は個人の理解や生き方や器量の問題でしかないのだが、そこにまどろしさを感じる。
弟子にもいろいろいて、その要領だけを掴んでただ自己実現や自分の売りに使う者もいる。その要領がどこから出るものかを悟って慄然として、ただ深部に留め置く者もいる。意識して別基軸を得て対照する者もいる。弟子だってそうなのだ゛から、教え子たちに多くを望むべくもない。
しかし見ているということは、その力量の出方でなく、力量そのものを見据えていくことになる。変化を求めるが、ほぼ小功に甘んじている。師匠の真似をしていても猿真似でしかない。これも結局は何を読んだかが問われることになる。
責め苛む文を望むのではない。しかしならば何のための文かを問われないとならない。・人と異質なことを探求したり書いて見せて悦を得ていてはいけない。そんなものはその辺のキャラ。その辺の個性。
所詮間っす句キューりのSMLでしかない。それは本人にとっての満足。決まって与太郎や伊勢屋の馬鹿旦那にはなれない。
問いの角度や感度や技法でなく、正対したときのその思索深度が最終的にはものを云う。
通常教室・特講の日常は重要なのだ。ささやかな当面具体目的への対応教育から、そこに動線を敷くのはきついことだ。
分らせて教え込む教育はなんと簡便だろう。訓練でもして努力したらいい。それは成果になる目。問いはその質では具現しない。
面倒なことはいつでも分りにくさつきまとう。力量ないものほど妙な自信を持っている。

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8月24日 遅い

2009年08月24日 | Weblog
日刊ミヤガワ2062号  2009 8.24

「遅い」

活力のない社会とはこんなものなのだろうと思う。頼んだ仕事、仕事になるかどうか分らないものであっても、これへの反応が実に鈍い。
その人とか会社のペースとやらもあるのだろうが、そんなことは理由にはならない。逆にボクがせっかちのように思われる。百も承知だが、果断速決、迅速、的確名人仕事。それを求めて何が悪い。
発注は慈善ではない。発注自体が共同戦線を組むのと同義だ。それを対の関係と勘違いしているから顧客に目か向くだけになる。狭隘である。
早急に考えてみてよ。早急にやってよ。ボクはそう云う。それが全てだ。正式に決まっているし発注書類などという意味のないものに関わる必要はない。呼吸というものだ。契約の前段階こそ全て。契約など仕上げの手続きだ。馬鹿はそこから始まると考えている。勝手に自分たちのルールを客に押し付けていたらいい。知ったことではない。
そんな大げさなことでなくても些細なことでもそうだが、気が利かぬ、その辺の偏差値秀才果てのように疲労しきった定式人は特に役に立たない。
話を仕向ければいつまでも喋り、自慢し、パターンと指示されたことだけを語り、柔軟な応用論はない。そして人格は劣化しているからすぐ表情に出す。愚かなものだ。すぐに煽てブタになる。
成績だけを気にして、そのためにしなくてはならないことを見い出そうとしない。すぐ行きます。すぐやります。何日の何時までに。こんなことはなかなか云えない。言質を取られたくないのだろう。そして安全を求める。少し無理をしてくれないかと思うが、聞かない。自分の生活時間はそうして守る。徹夜してもやりますなんていうのは見当たらなくなった。
それで不況も駒もないだろう。仕事がないということがおかしい。待ってていて来るものか。
云われたことをやって仕事になるのだそうだ。そんな不良が社会を沈滞させる。つまりは考えていない。それでは駄目だ。しかしどうもそんな不良が管理領域を牛耳っている。それなせそれでその種の連中の思考パターンと限界を読んで手を打ったらいい。そこまでやろうとしないからのさばらせる
ほんの数時間でできることでも何週間も掛かっている。とろいものだ。待たせるにも待たせ方がある。そんなものをなぜ客は待たなくてはならないのだろう。
官僚政治の問題は云われているが、それをのさばらせた責任はどこにあるかということも考えないといけない。相手の限界と様式を知って対処したらいいのだ。力関係を偏狭に考えていてはこの様式はからせない。
若くてボクよりせっかちてだいいはずの鉄砲玉であるべき者たちがゆったりしたている。これは苦い。イライラする。パッパッと要領よく出来ないものか。鈍なのだと思わずその辺のものを蹴飛ばす。
気配り自己計画などしてこなかったのだろう。扱われ方しか関心が向かない。こんな連中は正規社員から外したっていい。迅速人じんと入れ替えていい。
仕事など「分りました。やります」以外何もない。掛け引きするほどの相手でもない。手配師が必要なんだろうな。

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8月23日 実は・・・

2009年08月23日 | Weblog
日刊ミヤガワ2061号  2009 8.23

「実は・・・」

この言葉がやたら耳につく。テレビの報道者がよく遣う。
実は、も何も子報道の真髄は、実はであるに決まっている。
この用法はどうもおかしい。ノリピーとやらのどうでもいい退屈な報道でも、何回と泣く使う。韓国の国葬についても、選挙に関しても。
実は・・。この言葉をなぜ使わなくてはならないか。こじつけ解釈はいいとして、その言葉をあえて使う意識が気になる。
実は・・。その後に続く言葉は信実らしいものであるような錯覚。実は誰も信用していない。そんな解釈もそんなこともあるだろうかという程度。
しかし語る者には固有の気負いがある。実はこうなんですよ。そんなものは実はでもないのに、一歩深みや高みや精度がありそうに装う。
コントロールが本質なのに、正直そうに。
ボクらはそれほど真実歩を尊ぶわけではない。つまらぬ信実より楽しそうな虚飾を好む。
かといって信実を拒否しているのではない。しってどうする。そんな思いがあるのだ。
真実を知れたい。暴きたいと、何かそれが正しいことのように思い込んでいる人たちがいる。それは万民にとっての真実なの?真実は一つで、真実は尊くて、真実は人を幸せにして、そうでない者はよくないものだよと、本当にそう思っているのだろうかと、この大の大人たちを眺めていて不信を覚える。
ならば子言葉とは何だったかだ。価値言語だから所有はある。誰にとっての何のための真実か。
実は、と語ることでそれに近づくのではない。らしさに近づけようとする。その言葉に人を寄らそうとする。
さの辺の親父が「実は頼みがあってさ・・」というレベルだというなら、メディア言語は一気に親父的生活語彙のレベルになったことになる。
実は、癖だろう。誰かが使って、気になって遣い慣わした程度のことだろう。しかしその感覚が虚構をより大衆レベルにしようとして、逆に大衆れべめの虚構性を強化して行くことになる。
気が付かないところでコトは勢いを持っていく。自然である装いで、虚飾を増していく。
メディア言語は要注意だ。統治は言語。メディアの何気ない生活語彙の振り撒きで、統治は促されていく。
その問題意識はメディア側にどう用意されているか。どこまでの認識か。
そんな目で眺めている。高校野球の褒め文化もその一環。
きっとひうやって一人一人を認めてあげるって大切ね、という頭の程度の人たちへの迎合だ。気遣いだ゜そこに本当らしさは感じられない。
その場しのぎの役割を演じるだけになる。それを求めそれを是とする者者にとっての文化が広がる。
禁煙も自己肯定もそうだろう。問いも批判もしないのもそれだ。

言葉はファッションだ。家にも似ている。かなぐり捨てて自己を表出できる者にとつては生き易い。逡巡ある者はいつもいつも生き難い。

虚構の自己証明。やるほど浅いと空転し露呈する。却って物足りないくらい、客観を装い、淡々と語る方が新鮮になる。似たり寄ったりのキャラなどもうマイナスだ。
さて、この問題に誰がメスを入れるかな。

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8月22日 感想文特講

2009年08月22日 | Weblog
日刊ミヤガワ2060号  2009 8.22

「感想文特講」

子どもたちとワイワイとやっていると時間はすぐ過ぎる。今日は感想文特講。
終日というのはいい。たっぷりとできる。二日で一作だ。贅沢な話だ。
勘のいい子はピーンと掴んでいる。頷き方で分る。元気よく発言している者は思索が活発ということでもない。
読みが足りないと思った。読むために読んでいる。求めるものがあって欲しいものだ。
もっともらしい芝居だって、文は書ける。何をどう読んだ巣。それだけの話なのに、何を読んだか、どう読んだかはなかなか把握されない。
感想文とは無茶なことをしているものだ。批判読みにでもあえて徹した方がよほど元気は出そうだ。褒め殺しの文だっていいが、これは疲れてくるはずだ。
素材が乏しい。本に囚われている。主語が転換していかない。本を開きながら書いているようじゃやはり読みは足りない。
そんなものはほんの一行だっていい。ひとことだっていい。こだわったら反応したらいい。
いろんな触発講義はしていたし、受けはいいが、本当に定着するためにはかなりの傾注が必要なようだ。
何年だっても展開はできない子たちが目に付く。いったいどんな教育を受けているのだろうと考えてしまう。
これはひとつには本がいけない。浅薄な本が子の前に多過ぎる。短くても深さの古思考を促しやすいものが、もっと準備されていい。
ボクは退屈なあるいは一般論を書かせる気はさらさらない。この問題を切り込んでみろよと云う。
その問題がなぜ思索のテーマになるのかがピンと来ないと感想文の根底は弱い。
何を書くかとは何を考えたかだ。そこが明確でないと書けるものではない。
楽しくワイワイやっているが、正直ボクは気を遣っている。それが本当の楽しさになり、しかし思索を進展させることは苦しいと思うようでないと深化しない。
更に厳しく気を遣わないとならないようだ。つまるところ勘だ。
それを磨き伸長させること、敏感にすることをやらないとならない。
これはほぼ体験だろうが、それを磨くに到るまでの蓄積は物足りないと思えた。
無難で安逸な日々を生きてい流、無理にでも危機意識を持たないと作家の軌跡は感じられない。
ミーハー作家の本に傾斜するのもわかる。子どもだましの本をやたら出さぬがいいと思うが、そんな本が売れる。審美眼を養いつつ耐えられるものを見い出す。その出会いをあれこれ工夫しなくてはならないようでもある。
感想文問題はやはり根が深い。完成主義では駄目になる。もっと異質でなくてはならない。読解はかなり踏み込んだ。感想文はまだまだすべきことが多い。

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8月21日 家

2009年08月21日 | Weblog
日刊ミヤガワ2059号  2009 8.21

「家」

記者や編集者が家に来たがる。こんな老朽ボロマンションを恥じる気もないが、髭を剃ったりシャワーを浴びたり、何を着たらいいかと迷う。あちこち片付けも掃除もしなくてはならなくなる。それに思い悩んで沈んでしまう。
頓着しなかった時期はあったが、そこそこの歳になったら学生気分ではいられないことを恥じる。
教え子が来ることでもやはり気を遣う様になって来る。そんなに怠惰に過ごしているわけではないが、それでも緊張感が緩んで過ごすことが多くなった。
家庭外交は確かに効果的だ。来る方は興味津々らしい。そしてこんなものかと値踏みをされる。全部の部屋を見せることは礼儀のように思っていた。しかも事務所とは異質であることが必要だと思っていた。それが誠意と云うものだ。また自宅であるべき根拠にもなる。
高一で三畳の間借りから始めた自活だ。一畳一間増えるごとに実感を得てきた。些かの感慨はある。
ボクはまだ落ち着かないのだと思う。書斎仕事が多くなっても落ち着かない。故郷ね駄目だ。作文研は生きる拠点。落ち着くとかいう水準の場とは縁遠い。うちこち家はあっても流浪なのだ。
先生の家に行きたいと云われる。いいけどきっと期待には応えられない。家なのかなと首を傾げる。君にとっての言うの概念とは違うよと、方丈の庵とも違う。機能A・B・・というようなものか。
安らぎの場などありはしない。本来はそうしたものだったのではないかと思う。思索のばというまは実際の身の置き所ではない。新幹線の中でも、その偏のデニーズ辺りでも、歩きながらでもいい。
安らぎとは何だったかと、つい考えてみたくなる。「子どに夢を若者に希望と老人に安心を」毛・・。つまらぬコピーを語るものだ。老人に夢と希望を持たせないでどうする。子たちにはむしろ安心を、だ。希望を胸に死んでいくくのはあるいは幸せだろう。お心安らかに、とはそのまま死ねよというに等しい。
老人は慌てる。そして波力を失い掛ける。だから夢と希望なのだ。それを持たせないと賞味期限切れ扱いになる。
家とか身の置き所に少なくとも達観を持っているはずだ。老人たちが家や心の安らぐ場をどう考えるものか。興味がある。
たまたま長くそこいただけのことかも知れぬ。家で何をしていたのだろう。住宅ローンとはよく考えた。債務奴隷化。家たけでなく固定収入の場を得なくては成らなくなる。私有の幻想に憑依されたらそうなる。そしてそれを信頼のバロメータとして評価する文化をつくってあけばいい。土地はかつては値上がり必至だから、それなりの効果もあった。米国低所得者の戸建幻想を射程に入れて頓挫した。土地や不動産にしがみつく意識は滑稽ですらある。ル世界を買い占めたとして、。そしてどうするのだろう。制度崩壊したら誰のものでもない本来の形に戻るだけだ。
だから現状維持、制度補完の思想は堅固に作られる。そして気が付いたら債務奴隷諸君は、奴隷根性を身につけ始めた。つまらぬことだ。
全て肯定。そして少しばかりの改革。弱い自己の認め合い。それで得られる心の平穏はポーズだろうに。
思考停止と思考放棄とは違う。求めたものを得て充足するなどありえないことと思う。
「財源は」という意見や批判は更に教養が感じられない。生み出すに決まっている。ゼロから捻出するのが知性だ。やはり改革論者は規定の仕組みもに依存する思考の限界がある。それを現実路線などと称している。この程度の知性が政治表現の前線というのき寒い。
これは民主が勝っても「一揆」。国民のガス抜き。世界的には成熟民主国家の表現。そのくらいだろう。
世界並みの常識国家を歩きたいのだ。亀のようにゆっくり。
夢と希望とやらで唆され囃し立てられた子達は、自分を熟慮する暇もなく、その場もなく、煽られている。きっとそのまま大人になり親になる。
与えられた範囲の思考。子のうちからせっせと設えられている。

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8月20日 連鎖

2009年08月20日 | Weblog
日刊ミヤガワ2058号  2009 8.20

「連鎖」

相撲取りがマワシを締めて、立体マスクをしている。奇妙が光景だ。インフル予防なのだろうが、当人の自覚は是とするも、気になる。
長野は要注意地域なのだそうだ。夏に人は動く。この時期感染は一気に拡大しやすい。避暑地長野は学校保養施設が多い。ありうるんだろうと思う。現地の知人風が抜けずにレントゲンを撮りにいくと電話してきた。互いに触れないが気になる。行けなくてよかった。
喉もと過ぎてフラフラ動いてしまう。忘れやすいその場しのぎの国民性だ。
その知人は園芸会社を経営している。最近は経営状況を点数化されて役所の受注工事の資格に反映するのだという。なまじの規模だと借金もある。それは点数に響く。個人経営の小規模の方が点数は高い。こんなことやつていていいのかなと役所の点数主義を批判する。その場しのぎで近視眼。まとねな経験ある業者の誠意はきっと反映されない。顧客との個別で濃厚な関係は寸断される。嫌な仕組みだと嘆く。これも気になる。
到るところで、狭い専門枠内の整合を求めている。拡がりを捉えて構造を踏まえない。
株価の数値読解を実験的弍してみた。メディア発表が如実に反映している。ゲームだが、文学ほどの複雑で深遠な読解とは云い難い。意外とチャートがある。そこに意志や希望は介在しにくい。「可視化」論はそこで実証されると思った。ブランド論や見てくれ論も分る。きっとこう動くんに違いないという憶測を原理的に裏切らない。のして米国や中国の動向が要素になる。言葉は専門的であるけれど、構造を見たらさして難解とも思えない。また確実に操作はあり、関連機関の意図は見えている。これは流れを作るし流れを制御する。ゲームと云えばやはりゲームだろう。便乗しかない一般人にしたら、動かされ方を全員が冷ややかに見ながら、そこにコミットするという質になる。
言語統治の発想からしたら、これは分りやすい。数値統治は確かにグローバル化する。
子どももこのゲームに参画しているという。そうだろうと思う。主体的であるのは便乗参加。傾向予測のチャートができている。興味対象としては次第に減退している。知ることと関連と応用と瞬発判断と欲の制御はあったとしても、偏執や骨格還元乗り力量はむしろ判断の邪魔になる。なるほどこうして経済国家の大衆形成は作られるものらしい。
しかも一色単になる。国力としては結果としては危ういが、近視眼としては効果的だろう。飴だな。それで大衆は動く。この動線の敷き方は深遠な戦略図とは思えない。・
専門家には嘲笑されるだろうが、どうも一月足らずのボクの読解としてはそんなイメージがある。
仕組みに思考が整備されている。もう少し専門家を招いて勉強会でもしてみたいと思う。
30年使っていたソファーを交換する。前夜その古いソファーが突然壊れた。不思議なこともあるものだ。思いが構造を繋いでいたらしい。気になる。

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8月19日 窓

2009年08月19日 | Weblog
日刊ミヤガワ2058号  2009 8.19

「窓」

夕景は秋めいている。今年の夏は短い。ボクには快適だった。
御苑のセミの音がヒステリックではない。大人しくアルトで合唱している。
盆を過ぎたら秋風。信州はさうだった。だから夏休みも短い。
暑さを感じなくなったのかもしれないが、いい夏だった。今年はどうかなと一年毎が貴重になる。なんとか今年も越したなと、山場がここに来る。
20年の付き合いのテレビを替え、30年の付き合いのソファーを替えた。惜しみがなくなった。何を処分してもいいような気になってきた。
セミの脱皮のようなものか。セミが抜け殻に愛着を持たない。動かない方がいい時は臆病に亀のように過ごしていたがいい。それは快感にもなっていた。
人はそうもいかない。人は変わる。変わろうとしているうちは変わるものだ。子の成長のようで、変化を見ているだけで楽しい。
縁切りなど簡単なことだが、当人が思い詰めるほど吹き差しならぬものでもない。在りたい自己と在るべき自己と在るじことをボクせは混同してしまう。・
当人が思うほど特別ではないものだが、特別とどこかで思わないと味気なくなる。モノや人との関係もそうなのだろう。意味やいわれや筋書きを求めようとする。体系を拵えてその繭を生存の巣にする。
物惜しみは貪りの一つだ。人惜しみも多分そうだ。昂じてしかし虚を悟り、しかしその分水嶺に居座ることもまた境地。境地は境界の接点でなく、開拓の起点なのだ。
読解無限なら何も記憶に規定されることはない。記憶は読解の主対象だから、安直に体験を経験化することはない。その洞察の深度が現状とそこからの展望の羅針盤を創り上げる。
書物も過去の言語記憶、言語遺産。ボクらは遺物に囲まれている。
東海地震の際に「本は凶器」という報道があった。意図的で興味深く、暫く目が離れなかった。それは積み方、整理の仕方なのだと云うは易い。しかし本質としてこのコピーは正しい。示唆的だ。本は凶器になる。凶器にもなりうる。生活語彙がそうである通り、教育言語がそうである通り。繭は作り、その中にいて、時期が来たら破砕しなくてはならない。外からの刺激に呼応する、なんらかの契機があるものだ。

話は変わるがインフル死者。流行報道。選挙戦に合わせたようなこのタイミング。いつもこうした材料が注がれる。刺激はそうしてふと過去の遺物の思い出させる。
満ちている。感度がよ過ぎると却って取り込むだけになる。限界は閉ざす。意地を持てば歪曲する。
クリントンで拉致問題の画期的ポイントを上げたかったのだろうが、どうも予測は甘かったように見える。大きな潮流が水面下で動いている。

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8月18日 十秒

2009年08月18日 | Weblog
日刊ミヤガワ2057号  2009 8.18

「十秒」

どえ考えてもボクは百メートルを九秒ちょっとでは走れないなぁと感嘆する。
十メートルだってそれくらい掛かりそうだ。百メートルをよく一気に走れるものだ。途中で水を飲んだり一休みしないと駄目だ。
できないから云うのではないが、そんなに速く走ったら体にはよくないだろうと思う。
古代など野生に近いほどひょっとしたらもっと速く走った人たちもいたに違いない。
忍者はどのくらいで走ったのだろう。目立たない異能が、現代はスターになる。優れた忍者が目だったら洒落にならない。
しかし人々は素直だ。世界最高記録に狂喜している。その素朴さがやはり人の良心の形成要否なのだ。泣いたり、怒ったり、ジャマイカ国民が誇りと思ったり、たった十秒のドラマが世界を席巻している。
速さに目を見張り、華やかさ溜息をつき、困っている人に思わず手を差し伸べ。そこにいくらでも意地悪い分析はできるとしても、しなくていいこともある。ただ素直に眺めていることに、共感することに、甘んじていいのだと思う。必要以外は封ずる。閉ざすことを本気になってしていかないと、どうも居心地を悪くさせてしまう。
傍若無人のがさつな者の方が生き易い。飴をしゃぶらせられたら素直にしゃぶっている。それもまた知っていてやるなら面白い。
知らなくていいことというのはあるのだろうかと思う。知らなくてはならないと思うのは個々のテーマ。知って開花する者もいれば潰れる者もいる。
学問が遍く行き渡ることは危うい。結局は分ろうとする人は求めていくだけのことと思う。無理強いさせてはいけない。
大衆教育はその本質を見極めないといけない。それは選別になるのは仕方ないことだ。それに囚われると大衆教育の大衆的な傾向に陥る。
示されたものを学ぶだけなら飼育だろう。野生はそこで摩滅する。ママたちの好み程度の人になる。しかし人は競いたいものらしい。自慢を手にしたいから競うのも活力。それに興じ合うとき、それをしながら観客になる。
急速に世界は一元価値になろうとしている。地球儀、時間、この記録もそうだ。世界はますます統一言語に向おうとしている。
競い合いはそのためには格好の材料だ。世界大衆化。グローバル化などと与えられる程度の知識で知っている気になるのは愚かなことだ。
時流に流されるのはそれを作っている大衆の意識だ。
クーベルタンはしたたかな計画者だ。スポーツを触媒としている。
柔道も空手も相撲も国際化しているめけれど、そこまでのしたたかな戦略展望は準備していたかと、つい考える。
普及促進でない、創造性が孕まれないと広まるだけになる。そして統一言語の質は低次になる。

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8月17日 不器用論文

2009年08月17日 | Weblog
日刊ミヤガワ2055号  2009 8.17

「不器用論文」

丸々お盆の間は論文分析で過ごした。表現の海山を書斎机で堪能するのも乙なものだ。ここ数年は決まって同じ企業の論文が恒例となった。じつくり見るにはいい時期だ。
流麗な文の書き手は得てしてそのために作りと流れに関心が向く。訥々とした書き手の方が実務的だが構成は不得手だ。
どちらがどうということでもないが、現場での評価が髣髴とされる。上手いが奥がない。上手くはないが愚直だ。それらを着実に評価したとして、どう現場的弍反映される物かと考えたりする。
文はそれ自体は完成品になりうる。それを用いて、といったところで稚拙ならば「惜しい」ということにでもなるのが通例だ。
実務論文はあれこれ条件はつけてはいるが、評者の本音としては、通常の文では図れぬ潜在性を見ようとする試みとしてはある。
かつて知識だけでなく、と論文試験を採用した大学の当初の誠実な姿勢に近い。だから上手で万民に理解されるというだけの文章条件だけでない面を分析したいのだ。
それを望むところもあれば、文そのものだけの精度を評したいところもある。主催する企業によってそれはまちまちだ。それはそれでいい。そうでなくては困る。
ただ本来こんなに力量はあるのにな、という人たちが本人の不器用さだけでなく、対象外となりやすいような評価体系は本当は是正されるべきなのだがと、思う。学校もそうあって欲しいが、心許ない。せめてホンチャンノ企業はそういう評価観点を持たないとロクなことにはならない。
不得手でも誠実な者の文は、伝わる.時に企業全体をも変える。不得手である者がその誠実愚直なままに書き続けていけば、境地は開かれる。
上手いと自負していたら、そこだけに気を取られて姿勢を忘れる。トリッキーに成る。しかし実勢社会は条件と要領で糊塗した文は手続きにしかならないものだ。
試験に出るから学ぶという質では上辺でしかない。それは文なるがゆえに如実に心底は割れる。
上手くて中身もあるという文にはなかなか巡り会えない。しかしそういう書き手は不思議と文字にも知性が感じられる。いい字だなと思わせる。薫ってくる印象さえ受けるときがある。
手本というのでなくその書き手ならではの文字。格があるものだ。だから自筆の論文審査が面白い。情報量は格段の差がある。読みにくい物はやはりそういう格なのだと思い知らされる。
それやこれやで気が付けば丸一日没頭してしまっている。。思ったことを文にできたらいいと云う段階ではまずい。子どもの時分ならまだいい。作文研はもうそんな段階ではないが、世間的にはそれを目指している。大人はそれではまずい。書くべきことをどう書くかに向けられないと文そのものを貶める。
問われる自己、示すべき自己、ちょっと隠しておくべき自己、滲む自己。自分は自分だいっなどと☉云ってる場合ではない。
多面体の雲のような自己を形にして行くことは並大抵ではない。作文研の人たちは慣れている。子ドミノ内から慣れている。知性の高さはそういう行為に向えるかどうかでもある。
要領だけの者は馬脚を現す。中身に要領が付いて回るものだ。不器用を自覚した後の不器用は傲慢と云うものだろう。そこは鍛練し研鑽しなくてはならない。中藻をだ。
活かす場がないと嘆くより活かす場を創り上げないとどこにね場はなくなる。それは冷徹な事実だ。評価してくださいでなく、評価せざるを得ない者にならないといけない。誰にどんな観点でかは別問題としてある。そのままでいいんだよと云うのはカウンセリングであって、その域でのものだ。
生きていることは退路を断って発光することだ。生まれたときから全ての人は退路を絶っている。今いる場での覚悟や在り方はその根幹が堅固でないと中身の構築の土台は出来ない。
努力しない頑張らないのがカッコいいいうのも、社会的カウンセリングとしてある。そこにしがみつくのはそれだけのものだ。垢を落とすだけの効用だろう。意義はあるがそれは結局は基軸にはならない。

自己を殊更鼓舞するのは、そうして見せるのは自傷だ。無理して首を絞めて背伸びをする。早稲宇人は笑えばいい。ボクは頑張る人を頑張らぬ人が笑うことや論うことは下品だと子どものときから思っている。
論文にはそんな生きる意志が見えるものだ。健気さも調子のよさも。文の流麗さや作りに囚われると言外に悟られる。読むというより感じるものとしてある。
書くことは多分に自傷だろう。書き手が誠実なら自分の血肉を掴みだすしかない。安楽な椅子に座して評しているだけの芸人は多くなったが、そんなものと思ってはならない。
不器用にひたむきな自己を示していくのは不器用なのではない。誠実に正対している。出来不出来以前の問題だ。
しかし論点を明示して実証的に書くということはなかなか出来ないものらしい。みな意見や思いを綴っているばかり。そんな段階に表現環境はまだあるんだと痛感する。

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