日刊ミヤガワ 1338号 2007.8.31
「夏の終わり」
そう云えば温暖化はCO2だけじゃないという説が強まっているのだそうだ。当然だろう。年代としては間氷期にある。氷河期の終わりに位置している。地球規模という表現も今はグローバリズムの枠に入ってしまいそうで使いたくないが、しょうがない。地球も生きている。今は冬から春へと向かっている時期なのかもしれない。
何がクールビズだ。クーラーの使用のための電力供給など更に強化していく策を講じた方がいい。でなければ体を地球変化に対応させていくしかない。地球に優しい、もいいが、身を守り順応していくために、人に優しい地球でもあって欲しい。お気楽で高慢ちきな地球上の高濃度微生物たる人間の知性は熱を冷や水にして少し謙虚にしなくてはならない。
季節がカレンダー通りにいくことはない。それでも四季ある国はちょっと見れば夏の終わり、小さな秋が覗かれる。これは作文などの絶好のテーマにもなる。
祭りの後のような虚脱と空ろな目はきっといつもは気にも留めないものを見つけていく。
今年は暑い。北海道の人が温暖化になったら田植えもできるし、りんごも成ると語っていたそうだ。生徒から聞いた。面白い。こういう果敢な思い切り、発想がいい。なら長野はバナナか。タロイモか。東京はパインだ。腰蓑つけた都民が溢れるのも楽しいかも知れぬ。してみればガングロだの下着のような女性服はそれを事前に予知した女たちの敏感さ、予見の能力というべきか。南洋から渡来した先祖の血が体内で活性化しているのかもしれない。
海に焦がれる人にはきっとその傾向があるとボクは実証なしに思っている。若い者が海に憧れ、海辺のロマンスなどに胸ときめかせるのは、祖先の血だ。北の寒海を知る者は却って恐れを強くする。
祖先。考えてみればヒトの祖先を根源を辿ればそれは海に行き着く。やっと海から途方もない進化を続けて、陸に上がり、陸で繁殖したのだ。血というよりも遺伝子が騒いでいるのかもしれない。母なる海への回帰。思慕。郷愁。若い者はそこに母の胎内の残像を見るか。進化を逆行していく情念に忠実なのか。
やっと陸に上がったのに、何も海に帰ることもない。ボクが泳ぐことが好きでないのはそのためかもしれない。ヒレもエラもとうに退化させた。今更という気がするのだろう。ましてや潜るなど無茶なことだ。そういうことは昔分かれた海洋生物に任せたらいい。そして時折食べては「いつも一緒だよ」と消化すればいい。
夏の終わりの歌もやたらと海が素材になる。場面素材・事例素材としても海が圧倒的だ。
「海は素敵だな」とザリガニーズは歌った。「思い出の渚」とワイルドワンズ。「青い渚」とブルーコメッツ。「夏の思い出」日野てる子。・・・。どうも古い。
「高原のお嬢さん」など陸ものは多くない。海洋民族ゆえというばかりではあるまい。唆されているという面も確かに見逃せない。海水浴なる風習は欧米からの移入だ。明治期のこと。先進的なファッションでもあったのだろう。それが戦後もずっと踏襲され強化され、歌で喧伝されたとも云える。
登山ですら移入文化。それまでは修験者や樵人の聖地だった。レジャーなる言葉もなかった。
そんな文化に泳がされて流されて夏は海の習性が身についたのかもしれない。海でなくても陸でもそうしてボクらは溺れている。
渚にはシンドバツトもいる。まだ古い。ボクは今の海関連の歌をよく知らないことに今気づいた。それどころか「宙船」などやっと覚えた歌も、船は空を飛んでいる風情だ。言葉も最近は葉から船になってきた。やはり温暖化なのだ。枯れて萎びるのも早い。照り返しもきつくなった。
アスファルトは古代バビロニアからあったとどこかで読んだことがある。暑かったろう。ヨーロッパの石畳の方が熱を吸収する。その文化の違いが歴史の違いと重なる。踏み固めた日本の道もまた比較してみると面白い。踏み固めた上にアスファルトを敷く。そのまんま今の日本だ。そして暑いと萎れている。
たまにど根性大根でも隙間から出れば、それだけでニュースになる有様。陸性生物としての文化遺伝子はどうした。
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「夏の終わり」
そう云えば温暖化はCO2だけじゃないという説が強まっているのだそうだ。当然だろう。年代としては間氷期にある。氷河期の終わりに位置している。地球規模という表現も今はグローバリズムの枠に入ってしまいそうで使いたくないが、しょうがない。地球も生きている。今は冬から春へと向かっている時期なのかもしれない。
何がクールビズだ。クーラーの使用のための電力供給など更に強化していく策を講じた方がいい。でなければ体を地球変化に対応させていくしかない。地球に優しい、もいいが、身を守り順応していくために、人に優しい地球でもあって欲しい。お気楽で高慢ちきな地球上の高濃度微生物たる人間の知性は熱を冷や水にして少し謙虚にしなくてはならない。
季節がカレンダー通りにいくことはない。それでも四季ある国はちょっと見れば夏の終わり、小さな秋が覗かれる。これは作文などの絶好のテーマにもなる。
祭りの後のような虚脱と空ろな目はきっといつもは気にも留めないものを見つけていく。
今年は暑い。北海道の人が温暖化になったら田植えもできるし、りんごも成ると語っていたそうだ。生徒から聞いた。面白い。こういう果敢な思い切り、発想がいい。なら長野はバナナか。タロイモか。東京はパインだ。腰蓑つけた都民が溢れるのも楽しいかも知れぬ。してみればガングロだの下着のような女性服はそれを事前に予知した女たちの敏感さ、予見の能力というべきか。南洋から渡来した先祖の血が体内で活性化しているのかもしれない。
海に焦がれる人にはきっとその傾向があるとボクは実証なしに思っている。若い者が海に憧れ、海辺のロマンスなどに胸ときめかせるのは、祖先の血だ。北の寒海を知る者は却って恐れを強くする。
祖先。考えてみればヒトの祖先を根源を辿ればそれは海に行き着く。やっと海から途方もない進化を続けて、陸に上がり、陸で繁殖したのだ。血というよりも遺伝子が騒いでいるのかもしれない。母なる海への回帰。思慕。郷愁。若い者はそこに母の胎内の残像を見るか。進化を逆行していく情念に忠実なのか。
やっと陸に上がったのに、何も海に帰ることもない。ボクが泳ぐことが好きでないのはそのためかもしれない。ヒレもエラもとうに退化させた。今更という気がするのだろう。ましてや潜るなど無茶なことだ。そういうことは昔分かれた海洋生物に任せたらいい。そして時折食べては「いつも一緒だよ」と消化すればいい。
夏の終わりの歌もやたらと海が素材になる。場面素材・事例素材としても海が圧倒的だ。
「海は素敵だな」とザリガニーズは歌った。「思い出の渚」とワイルドワンズ。「青い渚」とブルーコメッツ。「夏の思い出」日野てる子。・・・。どうも古い。
「高原のお嬢さん」など陸ものは多くない。海洋民族ゆえというばかりではあるまい。唆されているという面も確かに見逃せない。海水浴なる風習は欧米からの移入だ。明治期のこと。先進的なファッションでもあったのだろう。それが戦後もずっと踏襲され強化され、歌で喧伝されたとも云える。
登山ですら移入文化。それまでは修験者や樵人の聖地だった。レジャーなる言葉もなかった。
そんな文化に泳がされて流されて夏は海の習性が身についたのかもしれない。海でなくても陸でもそうしてボクらは溺れている。
渚にはシンドバツトもいる。まだ古い。ボクは今の海関連の歌をよく知らないことに今気づいた。それどころか「宙船」などやっと覚えた歌も、船は空を飛んでいる風情だ。言葉も最近は葉から船になってきた。やはり温暖化なのだ。枯れて萎びるのも早い。照り返しもきつくなった。
アスファルトは古代バビロニアからあったとどこかで読んだことがある。暑かったろう。ヨーロッパの石畳の方が熱を吸収する。その文化の違いが歴史の違いと重なる。踏み固めた日本の道もまた比較してみると面白い。踏み固めた上にアスファルトを敷く。そのまんま今の日本だ。そして暑いと萎れている。
たまにど根性大根でも隙間から出れば、それだけでニュースになる有様。陸性生物としての文化遺伝子はどうした。
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