日刊ミヤガワ

作家・表現教育者宮川俊彦によるニッポン唯一、論評専門マガジン。

5月15日 作家・評論家宮川俊彦講演会のご案内

2009年04月30日 | Weblog
宮川俊彦・第71回表現教育自主講演会のご案内
メインテーマ  「子どもの「感動」の内奥」

 前回お約束しました通り開催させていただきます。今回は主に「感動」を巡って現場的に捉えたことや思索したことなどをメインにします。やたらと「感動しました」という文を書き、書くことを求められ、あるいは「感動を貰った」「感動をありがとう」的な言辞が蔓延しています。生徒の一人は予定調和、儀式と喝破していますが、そうした子はまた感動を抑え、感動することを敗北のように思ったりもします。尊敬する人を挙げたり、褒めることが負けるようで嫌だという意識とも通底します。
 これは子どもの固有の傾向ではなく、日本社会の持つ現実と見ていいでしょう。感情を煽られそれを語ることが自己の表現のような現象も随所見受けられます。少し切り込んでみたいと考えています。
 前回語り切れなかった、近代日本の失敗の三つ目についても二月遅れで言及します。これは無論感動・感情と連動しています。
 わんぱく宣言やエコ大賞、12歳の文学賞で見え始めてきた傾向、あるいは学力調査のボクなりの分析など語るべきことは多くあるように思います。
 例によって思索と言葉のシャワー空間を作ります。薫風五月の爽やかさに身を委ね、ふらりとお越し下さい。
 バリバリいきます。お誘い合わせの上、ご来駕下さい。
 
             ≪記≫
期日  2009/5/15 金曜日 午前10時~12時
会場  学士会館(一ツ橋) 320号室  神保町・竹橋下車 
参加費 無料
講師 ボク 宮川俊彦

席の都合上、事前に参加のご連絡を戴けると助かります。
mygw@din.or.jp

国語作文教育研究所
101-8428 千代田区神田神保町1-24
電話03-3293-1818 ファックス03-3293-5038
http://www.miyagawatoshihiko.com
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4月30日 墓前の娘

2009年04月30日 | Weblog
日刊ミヤガワ1946号 2009 4.30

「墓前の娘」

亡父の墓前で自殺する娘。傍らに要介護の母。これは地獄絵だとボクは思う。しかも云いにくいことだが、母は生き延びている。そこに救いがあるという人もいる。そうは思えない。娘はひょっとしたら無理心中をしようとしても仕切れなかったのではないか。自己としての介護の全うが、自己のみの自殺という帰結。ただ疲れではなく、負う者の自死、責任を過剰に担う生き方と心情を持つ者のひとつの必然をボクは見る。墓前での逡巡とあるいは母を死なせられない苦悩の光景が浮んでしまうのだ。鬼気迫る。万一認知ででもあったら尚更悲惨だ。
介護される者は決して至れり尽くせりではない。それに満足しているのではない。諦めることを知っている。求めて得られぬものを蓄積し続けそれを握り潰して生きる。どこで日々を生きられそうな納得の波長を見い出すかだ。そして模索して思い込む。時々の甘えや子ども還りなど可愛いアクセントだ。
真面目過ぎ、愚直過ぎる娘は背中の荷物を重くする。これを「過ぎる」と評するのは潮流を憚ってのこと。本当はこれが人間としての原風景たと思いたい。楽になりなさい。あなた自身の人生だ、、制度を使えばいい、何か方法はあったはず、と人は云う。そこに原罪を感じる者にその言葉は救いにはならないのだ。それよりいつも関与し介入して世話する人々の何気ない手や思いが幾許かの心の軽減になる。それとて心の持ちようでは枷になったりする。
かつて家族が、主に主婦が介護せざるを得なかった。その各家庭の重い空気を知る身として詩、現今の介護施設は有り難いことではある。現実の問題としてそれは助かるし、解放はされた。それで「よかった」とだけ思う者と、「だからこそ」と思う者がそこからは分かれる。
委ねるときに「しかし」の展開言語を持たぬ者は本当はいないと信じたいが、話を聞けばそうでもなくて意外とスッキリサッパリしている向きが多いようだ。合理的といっても自己に都合よい合理で割り切る意識性の作られ方とそれがそのまま罷り通ることは、やはり忸怩たるものがある。
少しばかり、形だけやって、やった振りをする人が目に付く。抱え込んで日々を忙殺されることを思うなら、軽減された分何をすべきかは当然考えられてもいい。それこそ墓前自殺の娘の志を1%でも汲めるなら。
つくづく介護施設のスタッフは偉いと思う。毎日が年寄りの世話に明け暮れる。割り切ってなどできるものではない。生身の人相手。しかも言葉は悪いが家族からは切り離されている人たちだ。体も弱い。賃金など当然反映していないが、そうでないところでの報われ方も疑問が残る。「看ていただいている」後ろめたさと言葉にならぬ感謝は何より優先する。
高い金を払っているのだから、相手は仕事だから、などという論理は全く通用しにい。金に替えられぬものを替えている無理の埋め方を忘れてはならないと思う。
人に「忍びない」「偲びない」心情がなくては。情美は世に不可欠と思いたい。それは割り切って割り切れぬ領域のことだろう。
そこに墓前の娘の情愛と抱えてきて為遂げられぬ弱さ脆さがある。分かるだけに一層切なさがある。
委ねてこの身の情なさと罪に慄いて、苦悶と切なさを背負うこともまた抱え込み方だ。意志と意地で強くあろうとする生き方は好きだが、狭隘になる。追い込む。程度ということをどこかで覚えなくては難しい。
それでも・・・、この娘の壮絶さには黙して一輪の花を贈りたい。

敬愛する従兄が褒賞を受けた日。嬉しい。嬉しいのに世界が遠く見えた日。

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4月29日 脱物語

2009年04月29日 | Weblog
日刊ミヤガワ1945号 2009 4.29

「脱物語」

わんぱく宣言で感じたことは物語である。個人的ストーリーが背全盛だということ。こういう形で自己を語るようになったのだと、かつての政治的主張作文からの脱却を思った。しかしこれは同時に自己の場面化、客体化、風景化も招く。手法としてはいいが、それは一手法と思わないとならない。
無難で、分かりやすい。そして皆が自己の物語へ入り込みやすくなった。12歳にはそれは云える。
読む方も批評しやすい。文学の醸成として評価するのは吝かではない。
ボクは25歳から約四半世紀その物語を主としてやってきた。「事件簿」シリーズでも各紙誌でもほぼエピソードを書き綴ってきた。主張も見解もそこに溶け込ませていた。最近少しづつ見解を述べるようになったが、これはまどろこしさに飽いたせいでもある。山ほどあるエピソードで語ることをそろそろ返上したいと思った。しかしそうそう簡単なものではない。第一イメージが確定されやすい。巧妙でいくのなら死ぬまでエピソードを語っていた方がいい。あえて踏み込んでみたのは瀬踏みでもある。試験段階は過ぎたから、次の戦術に向うしかないが、この国の自己表現はまだまだ重ね着姫を執拗に求めていかなくてはならないことは再確認できた。共感のために差し出す素材は用意周到でなてはならない。
類推される作家像は漠としながら好感と認知がなくてはならない。
ただ思うのだ。本当は飽きたのではない。可能性の開拓だった。物語の限界はある。それはまた共感を求めて差し出す以上自ずと桎梏もある。そこに腐心して見せるのも意味はあるのかもしれないが、何かすっきりはない。予定調和のごっこをしている気がする。正解はそこからの練り上げと敷衍だろう。この国にまだ個人の本当の主張の文化は定着していない。胎動は物語からということになるか。
裁判のようなもので事件に直近の素材を集めた場面かになる。予め設定がある。根源や起点はさして意味はない。切り取りだ。そこに忸怩たるものはあった。
これは深くしまい込まないといけない。物語は聞きたい。しかし意見には興味はない。カラオケ陶酔と同質だ。
表現教育者は異質異次元を意図的に提示して、触発する。それは教室に於いてこそ肝要なのだが、かつての作家たちのように死んでみせるほどの気概は書き手になくなっている。自殺した子たちの遺書にそれを探索したことはあったが、次第に深度は浅くなっていった。
物語にを記す者はシナリオライターでもある。自作自演だ。そこにパフォーマンス文化の停車場が出来たのかとも思う。主語の「私」そして近接する家族友人。舞台はそこだ。そこにあるのは、だいたいよくやっているぞ、という自画自賛の匂い。悲痛な叫びも意識的な露悪もない。探求などもない。
自傷は自愛でデコレートされた。「見方」を都合よく手にした。
これは個々の会話にもある。直言はなくなった。キャラを交えた個のエピソードを語っている。聞く振りをして聞いていない時代らは適合している。口に苦い良薬は不要なのだ。
表現が重ね着され、いつか割って出たくなる。それは黙殺に遭う。それすら個人のエピソードにされていく。熾烈で緩慢なこの表現の世界。気味が悪くすらなる。表現は促され続け、自己は試された。
心の砂漠に自分で慈雨を降らせるか。そんな雰囲気があちこちにある。そこで完結されたら困る。

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4月28日 世襲好み

2009年04月28日 | Weblog
日刊ミヤガワ1944号 2009 4.28

「世襲好み」

未だにこの国は律令段階から脱却していない。血統・家柄が好きなのだ。それはその他に人物査定の基準を持ち合わせていないことを示しているように思う。
幕府変革があっても維新があっても戦後革命があっても、時期が来れば世襲は首をもたげる。そんな形で「家」は残り、復活している。一方で家族の崩壊などといいつつそれは所詮は思想と恣意とトレンドに振り回される人々の話であって、残すべき価値と必然のある家は過去の栄光にしがみつくだけでなく、積極的に系脈を形成して行く。個人個人と標榜しても実際としてはバックグランドはそれを飲み込んで゛余りある。
70バーバとバブル女ほを筆頭に女たちはそれが好きだ。実家や一族自慢が自己のアンデンテティであったり、人を測る指標だったりしている。会話が下品で教養がないのはそれで、如何に庶民とは異質かを殊更に喧伝する。曰く土地持ちだとか、買い物をどこでとか、学校がとか。こうした付帯条件への過剰な反応はそもそも「家」存続の素質があるというべきだろう。
そしてもっともわかりやすくてもっともやりやすい。リアリズムというべきか。何々の子孫。それがものを云う。単に似ているというだけでも意味がある。芸人の世界もそれだ。七光りはますます健調だ。それがどうしたという言は何やらやっかみにすら聞こえてしまう。
相続税の軽減を語りつつ、世襲制限。無理がある。確かに政界のボンボンやお譲ちゃんの跳梁跋扈は苦々しい。サラブレッドなどという云い方も見識がない。
下らぬことだ。ボクはどんな出自であっても何をするかの努力の幅で違うのだと今でも思っている。世襲を批判する気はない。持たぬ者への阿りの感がある。口惜しいなら努力して成り上がれと思う。乳母日傘に安住しているだけで愚かなら一朝で資産はなくす。維持だけでも大変なことなのだ。
医師の子が医師になるのもいい。医家としての先祖代々は悪いことではない。そこに一子相伝の家訓も哲学も技術もある。教師の家もそうだ。技術職も警察も弁護士も無論商家もそうだ。しかし力量がなければ衰退する。断絶もする。そこでの努力研鑽は並々ならぬものがある。それは継ぐ者の自由だが有形無形の資産は少なくない。簡単に個人と割り切れる安易なものではない。
保守の中にある個人の捉え方で多く問題は見えていく。理念か現実か。何を主としてていくか。これはしかし当事者の問題としてある。世間がどうこうと云うべきものではない。政治家の世襲に関して制限制度を設けるのも一興だが、見定めるべきは国民の世襲への意識だ。秋田も佐竹知事。かつて熊本は細川だった。そうでなけれぱメディア知名度。そこにあるのは、そういう程度の国民規範であるということ。識別基準をただ把握していたらよろしい。
今日高三の女子が本を読んだと電話をしてきた。どう生きたらいいかと苦悩しているという。進路を決めろと云われて混濁している。ボクはただ悩んでいろと云った。死ぬまで悩み続けろと。彼女は電話口で笑い出し、講義に顔を出すと云った。名も聞かなかった。18歳を生きている。その鼓動が伝わる。
継ぐほどのものでもないなら、親は継げとは云わない。そこに全身全霊を注いで道半ばだから親は子に託そうとする。そこに利権がとかメリットが、というのは穿った見方だ。それを批判する気はない。
組織人と個を生きた者との違いはそこにある。
既得権益を崩せないのは、崩せない力量であるからだ。現に崩れた者も山ほどある。崩れないものがあるとすればの強靭さをこそ学ぶべきだ。自由社会とはそうしたものだ。制限すべきは別なところ。根幹にある。

しかし最近の突然浮上する政策や現象、事件は何か慌しく、焦りが感じられる。また場当たり的だ。ブタインフル・・。連休だというのに。これで海外は足止め。水掛だが異様にメディア言語機能はふる活動している。意識変革を企図しているか。それにしては短慮さが目立つ。

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4月27日 漢検受難

2009年04月27日 | Weblog
日刊ミヤガワ1943号 2009 4.27

「漢検受難」

世間が云うほど漢検に問題があるとは思わない。経営者の質は確かに良くない。使い道を知らない。品と教養はない。その辺の餓鬼、我利亡者の類だが、それこそ今日の主流であってその典型を見せているたけのこと。それはしかし別次元の問題としてある。
ボクは漢検は擁護したい。漢字漢語をなくしていくという戦後の風潮にあって、意図的弍その必要と教養土台を培おうとしているのは賞賛さればこさ、何らの批判されるべきではない。英検より更に強固に浸透すべきだったし、今後も展開の意味はある。徒に難解だとか云うが、それでいい。本来学ぶとはそういうものだ。世間で役に立つかどうかではない。役に立たないとすれば世間が低次なのであって、漢字能力者が無駄な学習をしているのではない。
その程度の議論や報道があることは看過できない。ますます報道に知性はなくなっている。ボクが新聞などで漢語・熟語を使うと難解と云う。しかしガバナンだのなんだのというカタカナ言葉は容認される。この滑稽さを笑うか仕方ないとして見過ごしていることに根深い問題が口を飽けている。若い歌手の歌にもそれはある。熟語は減退の一途だ。洋魂洋才の政策は確実に定着し侵蝕している。
知的水準の低い階層にそれは歓迎されている。無教養な女たちの化粧ファッション言語はほぼカタカナだ。英語の点が悪くてもその種の用語は知っている。海外旅行だのブランドだのチャラチャラ人間の大勢はその文化のり申し子でもある。滅びそうな日本など郷愁はあっても踏み壊し、揶揄し、現実論としてトレンドとして文化を享受している。
上げ底教養人の本質もそこにある。素朴で単純で短絡的な連中だが、最近はそれを戒めたり苦言を呈したり水を掛ける者が激減した。
日本はこの漢語さえかつての先進中国からの輸入だ。今の米語などと変わりはしない。しかしだからいいのだということにはならない。少しは賢くなったというのなら、言語とその質の比較くらいしたらいい。日常会話ではない。高次の概念や哲理に関しての言語を見比べたらいい。その上で日本・漢語・米語を知って使い分けるなら結構だ。その機会や機運があるか。
無理に低からしめることはない。そういう議論さえ起きてはいない。
漢検。いいではないか。もっと内外の英知を糾合したらいい。全国民の必須にしたらいい。文部省が出来なかったことを民間でしたのだ。意義は大きい。国民の資格バブルにも乗った。箔をつけたいのだ。やったらよろしい。しないでいるよりはいい。思考や洞察や視点観点もあればいいが、これは難しい。文章検定もいまひとつパッとしない。手法に知恵がない。
この前経営者は展開がなかった。そこにビジョンと志の程度が知れる。つまりは洞察と戦略だ。稼ぐことは悪くはない。その活用なのだ。もっともこんな輩は数知れない。しかし一経営者の資質で漢検全体がマイナスになるのではない。新経営者たちが何を標榜するかは見定めなくてはならない。
こんなものがなくても皆が真摯に学んでいたらよいのだ。大衆教化の問題に帰結する。これも一つの民間主導への見せしめでもある。
今は臥薪嘗胆。百年河清の構えが肝要だろう。ただ待つではなく粛々と自己を保つことだ。

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4月26日 月よ。直れ

2009年04月26日 | Weblog
日刊ミヤガワ1942号 2009 4.26

「月よ。直れ」

泥酔全裸について研究生諸君は、行き過ぎ対応と狭量社会を指摘していた。意外と関心がある。その公園の近所の子もいる。親が反応していて「ストレスがあったのよね」ケとか同情的だとか。そやこれやで話題になりやすいそうだ。「あー、スッポンポン」というタイトルで作文を書く子もいた。李奈などは「山月記」を持ち出していた。そこに狂信性はなく乗りもなく、ただ距離を置いて対象化している。面白い子たちだ。何でも読解対象にする。
家の親たちの酔狂ぶりを語る子がいて、伝播していった。とっちゃまんは?と聞かれるから、ボクは飲まないといった。飲まなくても酔ってるよねと実に冷静に静かな口調で語る子もいる。しかもAクラスだ。それでまた笑う。
たまたま親や祖父を思い出していた。父の同僚教師たちが屯した我が家ではこれはほとんど乱痴気騒ぎだった。パンツ一丁で・・、当時はサルマタと称していた・・教師たちが踊る。寝ていたボクも起こされて踊れに加われと云われた。手拭いを頭に巻いて、鼻にタバコを差し込んで、アラエッサッサなどと手足を上げて卓袱台の廻りを練り歩く。全員が酔っていて、全員が機嫌よく、ただ無礼講で、大声で、磊落だった。突然ジェンカに変わったり、ただの行進に変わったり、そのまま庭に飛び出したりしていた。そして泥酔し、トドの如く寝て、翌日は何があったかを忘れていた。学校では威儀厳めしくしているから、ボクはその落差が可笑しくてたまらなかった。みんなそんなようなものだった。どこでも見られた。
酒乱の祖父は酔って道路で大の字になり「さあ、ひき殺せ」と怒鳴っていた。一度刀を持って夜中に飛び出していった。「叩切ってやる」と喚いている。祖母はオロオロしてした。なにをするのかと聞いていたら、月を切るのだと息巻いている。「そこへ直れ。動くなよ」と煌々とした月に向って声を上げている。しかも刀ではなく木刀だった。このときは父も笑いこけていた。近所の人たちも笑って眺めていた。
そんなものだ。酔人の奇行は日常のことで、面白くあったが、そんなに罪の感覚はない。人々も鷹揚だった。酔ってバカを出来ぬ者は土台信用されず、仲間にも入れてもらえなかった。
作文研のかつての助手たちもそんなようなものだ。酔って明治大学の樹に登り「コケコッコー」をやつたり、運転手の首を絞めて「苦しいと云ってみろ」とやったり。取材に来た共同の記者の頭にさけを掛け続けたり。そんな武勇伝は山ほどある。それこそ界隈で評判だった。面白がられ愛されたが顰蹙はさして買っていない。当時まだこの世間も鷹揚だった。
日本はきっと真面目になり、小粒になり、行儀良くなり、バカをしなくなったのだ。小利口の群れになった。そこが本音としてはつまらない。同じ真面目さでも凄みはなくなっている。もっと野蛮だった。それが許容されていた。
目くじらを立てるほどのことでもない。それこそ一つの敵失を執拗に責める卑屈な意地悪共の巣窟になった感がある。ほどほどになと笑えは済むことだ。
徒らにことを大げさにして行くのはそこに意図はあるのだが、それは当然としても取り合わなければいい話だってある。羽目を外す空間をなくしている社会と日常。精神衛生上も思索上も健全ではない。論作文を句読点も改行もなくただ書き連ねるものに似ていて、息が詰まる。
乱痴気騒ぎバカ騒ぎの空間はあっていい。迷惑であってもそれを微笑んで包む度量はあっていい。逼塞・閉塞の時代にボクは往時の面々が懐かしくなった。
教育者など行儀の悪いものだと思った。しかし怪気炎や愚行の数々は実に鮮烈で、子どもっぽくで味があった。
タバコの次は酒か。人を締め付けることには汲々としている。法でなく常識でなく人のその卑屈さがそれを促している。抑制策だな。
研究生は、いい問題提起だと喝破している。だんだん世情はヒステリックになってきている。さてさて次は何を槍玉に挙げるのかな。
・・しかし木刀じゃ月は切れないのにな。子どものボクは笑い転げていた。李白だって月を取ろうと溺死している。実は酔人は文化的だとつくづく思う。教室で一人思い出し笑いをしていた。

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4月25日 とにかく

2009年04月25日 | Weblog
日刊ミヤガワ1941号 2009 4.25

「とにかく」

何とかいう人気タレントが酔って全裸で騒いでいたそうだ。公然猥褻で逮捕。さして釈放。たいした事件ではない。しかしニュース速報になり、海外インタビューも入り、大臣もコメントし、ニュース番組はほぼトップの扱い。その上家宅捜査。なんともかしましいことだ。
鬼の首とでも云うべきか。失態一つへのバッシングはかなり強固になっている。酔って前後不覚。そのくらいのことはするだろう。酔客狂態。似たようなことはどこでもある。笑って見過ごすゆとりもなくなった。これで自粛か。酒や酔っ払いが好きではない身としては、知ったことではない。自制しかないのが生きることだ。まして人気あるタレント。耳目は豹変しやすいものだ。日頃面白くないと思っている連中もいる。
世の過剰反応も気になる。しかしそれよりもファンがやり過ぎを批判し、擁護に走ることが興味深い。そこにバランス感が働いているのならいい。ややゾクッとするのは、善のイメージであり、人気あることは、時として善悪規範など無化して、信仰に近い絶対擁護に向うことだ。
世の規範遵守を語ろうというのではない。むしろあってもそれを越え、かなぐり捨てて行動することは、歴史ではまま見られることだ。革命の契機になったり、要点を作り出したりしている。それは詩っている。だがどうか。メディアイメージが一人歩きして、判断能力が減退して、その分狂信性を持ったとしたら。
ボクは「とにかく」という言葉を好まない。論文を見ていてもそこで思索を停止させている。「信じる」もそうだが、語りつつも身と言葉をとりあえずの盾としておいて、考え続けるならいい。そのままだから始末に終えない。即座に「裏切られた気持ち」などというのも短絡的いい子ちゃんぶりっ子だが、とにかく信じているということでもなく、その何か悪いかと絶対的擁護に固まるのも短絡だ。はぁ・・とただ困惑していたら誠実だ。迷っていていい。
意志を鮮明にすることがいいのではない。それは求められても対応には熟慮句技巧は求められる。
信奉者とは有り難い存在だ。理知でなく多分に信仰の領域だ。だから理屈ではない。世間が非難したら一層信仰は強まったりする。そういう傾向があるから有り難いのだ。無条件の温度。包み込みがある。子に対する母親のようなものだ。世界を敵に回しても自分だけはの心情は、狂人のようでもあり、実は情の持つ本質でもある。
それ故にそのファンを得ている者はつ、それに乗ってはならない。感謝しつつ丁寧に根幹で切離しなくてはならない。商人の論理に似ている。政治の論理もそうだ。しかしそれを出来る者は極一部だろう。
乗せて乗ってまた乗せて乗ってをを積み上げて強固にして行く。そして自己もファンもそこに囚われていくことになる。
個人が脆弱で、教養や問題意識よりも我や感情や同一を強くしていく時は、よくよく注意しなくてはいけない。
世間はそれを好意的なファン。幸せなことだと判断する。危なさを含んだファンとは云わない。本当に対象を信仰しているのか、信仰自体に没入したいのかすら明確ではないはずだ。
好感度人気タレントは大変だ。万一ボクがそうしてこの界隈を歩いたら、「とうとう」と云われるか「お元気で何より」とか「服忘れてますよ」と云われる程度だ。想定すれば淋しくなった。
老いも若きも、この種の狂信があちこちに見られる。おばさんと娘の追っかけも珍しくはない。心情投射に前後不覚が見受けられる。それを量産再生産してきた。
感情露呈の大国になった感がある。ちょっと前は心理用語大国だった。相手がいなくて結局は徹頭徹尾自己がいるように思う。

Copyright(c) TOSHIHIKO MIYAGAWA All Rights Reserved. ※SMAP 草なぎ剛

4月24日 詩と写真

2009年04月24日 | Weblog
日刊ミヤガワ1940号 2009 4.24

「詩と写真」

まどみちおの「樹」という詩に対応する写真を5葉のなかから選んでその理由を書かせるという問題がある。これは先日の学力調査の中学のB問題の中にある。
実はボクはこれを気に入っている。思考の深度を測るという点では良問に属すると思う。本の一頁の上部にこの詩。下部に挿絵のように写真を入れようという目論見だ。
広義・高次の編集センスは問われる。また詩そのものの読解と写真そのものの読解も問われる。これは面白いと思って研究生ならどう考えるかを実験してみた。小二もいれば高校生も大学生もいる。大人もいる。
これに妥当はあっても正解はない。選んでその理由を何枚でも書かせた。また五葉の写真それぞれの傾向と特質を読解させてそれも記すようにした。むしろ心理テストにも近い。これで思考・読解の深度を見ることは充分できる。
五葉のアは木の上部と空を写している。イは三本の親子のような整った木の全体を写している。ゴルフ場の芝生のような背景だ。ウは一本の大木の全容を写している。エは大木の根を写している。土から盛り上がっていて光が差し込み下からのアングルだが空も葉の間に覗く。オは木というよりも森の上部を写している。葉が交差して雑然としているが脈動はある。
よくこの五葉を仕掛けたと思う。詩は「樹は樹で生きている」と結んでいるが、空に溶け、土を滲ませと述べている。根がある。歩けない。・・。など生命を持つ樹の孤独さと屹立、その人を圧倒する静かな躍動を捉えようとしている。
ここで考えなくてはいけない。詩が上位なのかということ。説明的なものでいいかということ。あるいは写真と同等なのかということ。そこでの統一を意図するべきかということ。それぞれの芸術家の表現を並べるのかということ。それがハレーションを起こしてもいいかということ。あるいはこの編集的目的はどこに置くべきかということ。写真が持つ視覚的作用の強さをどう配置すべきかということ。
それを明確にしないといけない。詩の意味に合致するものとか詩にふさわしいものという設定だとしたらこれはも詩人にも写真家にも失礼な話だ。
ボクなど毎小の連載にイラストを書いてくれる先生を尊敬している。添え物ではないる解説でもない。時に深部を抉って描き、時に読者との距離を演出している。独立し確立していながら並んでいる。
詩と写真はただの説明でも視覚イメージでもない。どちらが優位かという質のものでもない。独立している。
アは空に伸び、溶けることを強調する。イは詩のイメージとは離れるが、どう人の手が入ったとしても樹は樹として生きること一点は示唆する。ウは実に解説的で総括的だ。しかし全体を見せていて詩の鼓動と連動するが詩の下位につける。エは確かに樹の本質を示している。根の雄渾さその逞しさを強調している。しかし本質であっても樹の部分としての見方でもある。詩を決定付ける強固な主張がある。オは乱雑であってもそれが自然なのだという自然性の強調がある。樹だが森の先端という質がある。
悩む。どれも面白い。どれも詩の一端は抉っている。それを主とするか、適応を主とするか。個々の読み方とイメージに拠るか、好みか。
こういう多元的に分岐していく回答はいい。それを本当に希求しているとしたらこの作問者はたいしたものだ。しかし採点者、分析者は苦悩する。それでこそ全国調査の意義はあるが、さてさてどうなるか。ちなみに研究生諸君の大勢はエだった。アは極少数。イはなし。ウは二番目に多かった。オは極少数。興味深い。この諸君は根幹にストレートに目が行く。詩の持つどこか漠とした印象を写真の強さで楔を入れようとするかのような。もどかしさを強烈な印象で演出しようとするような。
この設問は出題者が問われている。また評価者はそれ以上に問われている。そこまで考えているとしたらたいしたものた。
読解と連環と目的表現と条件設定と思想と。こういう複合性は重要だ。これをただテストだけで終わらせるのはもったいない。しかしこれは点数化しようとすれば出来ないことではない。複雑なものをどう数値化するか。これも見物ではある。
世の中に考え過ぎということはない。停止させて済ませられるとしたら、停止させないで進展する力量はどこでどう測るのだ。優秀とは何かの観点はいつも突きつけられる。
何人かは「正解は?」と聞いていた。

今朝二年ぶりに短髪にした。背筋が伸びている。これで秋まで床屋に行かないでいられる。

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4月23日 山わろ濃度

2009年04月23日 | Weblog
日刊ミヤガワ1939号 2009 4.23

「山わろ濃度」

分析しながら、山わろ問題を考えていた。人の心を詠む山わろ。読まれる側はなぜ恐れるかということはもういい。そこにあるのは表現の虚構そのものだし、裏腹二枚でもない。率直で正直でということ自体への問いを持ては充分だ。しかも人は取り留めなく、朧げで、流動的なもの、混濁だと本質を捉えたら、何も恐れる必要はない。
むしろ「お前はこう思っているな」という山わろの指摘を、その程度なの?と笑い飛ばすことだってできる。云い当てることなどにたいした意味はない。八卦見の蓋然性の方がその気にさせるから言語作用としては教化的だ。カウンセリングなどもそれがある。あえてこう見ているんだよと示せば、その見方にしがみついて一歩前進するとか脱却することもある。ボクも確かそうやって当初の作文指導・レターカウンセリングはしていた。上手な文でなく、ホッとさせることで生まれる等身大の文を起点にしようとしていた。多分そういう方向は間違いではない。昨今流行の「作文教室」なのものもまともに追求すればそこに行きつくはずだ。
山わろが愚かだと思うのは、何で悟ったことを口に出して相手に伝えるかということだ。云えばそれも万全でなく相手に誤差を確実に示すことになるのに、なぜ語ってしまうか。ここに孤独孤立の社会不適応の存在が示唆されている。
悟って語らずただ内面とのギャップ・距離を考えていたらいい。やはり山わろは愚かだ。そんな者をなんで恐れる必要があるのだろう。
恐れた振りをして、相手の器と理解水準を逆に読んだらいい。
辛口トークと最近云われるようになった。かつてはそうでもなかった。同じことを同じトーンで語っていても世間的な見方がそうなっていることが興味ある。つまり心にもないお世辞煽て迎合がかなり高度を上げたということになる。それが気配りや気遣いになっている。日常生活国語がその域になったら、きっと言論は溶解する。
米長さんが面白い立ち話をしていた。50歳になる女流棋士を叱ったのだそうだ。そうしたら今まで親にも叱られたことがないと云ったという。互いに笑う。そういう現実になっている。
怖くて恐れていてだから厳しさを口に出来ない。その弱さが何を助長していくかを洞察していくべきだろう。
何事も行き過ぎる国だ。バランスがない。きちんと云うべきを云う。そうすると褒めるとフォローと評され、指摘すると辛いと評される。そこにあるのは相手の育成に関与する姿勢でなく、ただその場の感情への配慮でしかない。そんなことをしていたら本当に関係は遮蔽する。発する言葉にはその人の人生観や美意識がある。配慮や空気からの逆規定の言語はその場しのぎでしかない。
山わろはどこにでもいる。増えたか。衆口を恐れて埋没し沈殿して行く言葉を攪拌する促しの山わろにならないといけない。
思いを口にするのではない。願いをこそ語るのだ。表現濃度と高度にやはり着目しないとな。

掲載はサンケイだけだったのかな。今夜は寝られる。

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4月22日 学力調査

2009年04月22日 | Weblog
日刊ミヤガワ1938号 2009 4.22

「学力調査」

何だかんだと忙しい。溜めてしまった分析の合間を縫って作文研。滞在三時間。全国学力調査の問題分析を依頼されていた。もう三年になる。子どもの作文を診るような気分になるもので、今年はどんな問題かと、期待感がある。
60億も掛けて無駄だという意見も多いようだが、ボクはまったくそうは思わない。もっと掛けてもいいと思っている。子どもたちの学力実態を把握しないで教育など出来るはずもない。それが点数崇拝とか競い合いになるからおかしいのだ。秋田が一番だから凄いのではない。なぜ一番かをただ分析したらいい。東京はまあまあだが大阪は低い。だから頑張れと、そういうことでもない。現在この面の学力能力はどうなのかを把握するためのものだ。当然結果は刺激にもなるし発奮材料にもなるのだろうが、それは個々の問題で、模擬テストや点取りが目的ではない。
偏差値社会に毒されている者はこれだから始末が悪い。満点だから「でき」という水準ではない。それならそれで別にやったらいい。教育政策上の実態把握は何よりも前提となる。結果公表だってするもしないも本義としてはたいした意味はない。どうもそういう制度論に目が向くこと自体ボクはこの国の教育事情の貧困さを感じる。
見るべきは内実だ。作問と観点、基準、目論み、予見・・。そういう内容こそ本当は考えていくべきだと思う。何々すべきだという主張はもううざい。それよりも教師を育てていくように、この国の息切れしている教育を叱咤激励したり乗せたりしながら、まともに育て上げていくことを国民はしないといけない。ダメ教師でも尊敬しその気にさせれば人格教養共に育つ。潰したり攻撃するのは簡単すぎる。そして何も生まない。そんなことはもう実証済みなのだ。
というわけで楽しみにしていたテストを熟読し解析してみた。確かに観点だ。難易度としては低い。しかし小中共にA問題は今まで以上に勘案があり、充実していた。濃縮した感がある。また基準が明確になっている印象だ。B問題は散漫の緘があった。意欲的で他ジャンルにも翼を広げる意気込みはある。ただ生活国語、リテラシーに必要以上に傾斜している。これはきっと議論があったに違いない。アイデアも出典もいい。しかし的が不鮮明だ。分量は以上に多い。読ませ把握させる力を今回は重視している。時間を考えるならば速度と理解力が問われる。しかしそのためか深部には行かない問題図多い。これだけの出典でこの程度でいいの、という拍子抜けの感はあった。多角的弍設問を繰り広げているようデモどうも一次読解水準に留まっている。表層解析であつて、分析的な深みはない。
まどみちおの詩、銀河鉄道、徒然草、モナリザ・・。なかなかいい。しかし設問は物足りない。分量の割りに意図が見えすぎる。
せめて一問でいいから、思索の深度、洞察・読解深度、を問う問題が紛れていてもいい。今後の政策上の種子になる。真に思索していく子たちの隠れて見えない学力を見い出すことを企図しないといけない。
思考・表現・理解・関連・言語・・。要素は多くあるのになぜか実用生活国語に偏している。これは前回も指摘していたが、今回はむしろ強まっている。生活国語実態調査になっては本来の学校国語の意義はどうなるか。ここは検討しないといけない。
ボクならこんな問題にするだろうなといくつか考えていた。これによって明らかになる正答と誤答と幾多の傾向は凡そ予測できる。
まだ過度期。しかしどこか羅針盤の不安定さと混乱がいつも付き纏う。それはそのままこの国の教育政策の惑いというべきか。
制度論と外聞と国際比較。それを勘案過ぎると大本が脆くなる。確固とした基盤と基軸があっての幅と柔軟性だといいのだ。その点ではまだまだ成熟感がない。
次は深度。そこでは過去の国語教育の伝統の土壌に立脚していいものもある。教育政策は国語政策だ。本義を明言せずとも深く認識して構想しなくてはならない。
心情把握、人物考察、言語や一文の探求などやや希薄だ。もったいないと思う。ちょっとしたことで分析の質は高まるものなのに。そういう意味では60億はもったいない。ボクに作らせてくれたらいいのになと思った。しかしそうしたら講評はできないか。今の立場は気楽だ。しかしそれゆえの負荷は嵩む。
連休前は何かと仕事が溜る。久々の徹夜が続いている。これが常態だった。髪を切ろう。

22日のサンケイと読売多分コメント載ってます。ご一見を。

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4月21日 非イケメンユニット

2009年04月21日 | Weblog
日刊ミヤガワ1937号 2009 4.21

「非イケメンユニット」

イケメンばかり見続けているとこれは飽きる。大河ドラマもそうだし新番組など見てもほとんどそういう連中が大勢を占めている。かつての醜男。不細工な顔の男たちはいつの間にか消えている。これは個性というべきで、寅さんも決して美男ではない。イケメンなどドラマでは極一部で、本当の二枚目は主役も張ったろうが、今日云うところのイケメンは、チンピラかスケコマシの役だ。
どこを見てもそればかりだと、うんざりする。それが流行なのだろうし、こういう顔を見て楽しんでいたいのだろうが、さもしくなる。
可愛い子ちゃんブームもあったが、これもいずれ飽きが来た。美人の顔は逆に見慣れると飽きるものだ。「顔だけ人間」が量産されている。もっともそうなればなったで「ぶおとこ」は希少価値が生まれるから、取り立てて問題にすべきではないのかも知れない。
幼稚な好みと美意識が蔓延している。男の見初められる文化を生きてきた女たちの復讐でもあるのかと一時は思ったが、これは本性らしい。江戸の芝居狂い。女形人気。宝塚男役人気。女はどうも男に女を見ようとしている。
女顔がイケメンの主流らしい。男臭さは随所で影を潜めている。男を売り物にするなどアナクロもいいところだと思われている。それでいて強く逞しい男を渇望している。妙チクリンなことだ。
若いママたちが「そんなことしてるともてないよ」と子に云う。「清潔に、行儀よくね」と云う。何十年も掛けて男の子を好みで作り上げてきた。マー君よりはハンカチ王子なのだ。そこにある女の趣味。スマートで可愛くて清潔で礼儀正しくて成績がいい坊ちゃん。ついでに音楽もスポーツもできて。
これは人形だな。願って得られぬものを、得られるようになった女たちの、歩留まりがそこにある。なって欲しい人間になってはいけない。設計通りにしてはいけない。計画しても願っても、それと齟齬をきたしていくことが子育てだ。育成ということだ。思いに反しているから気持ちで捨てたり、嘆いたり、愚痴を云うのは根本が分かっていない。その上自分を裏切り、捨てていく子の芽を摘もうとする。
望み通になるものではないのだと、親が悟ることが大切なのだ。
今の若い男たちは、みな俄かイケメンのスタイルになっている。意識するなら自分の独自のスタイルを持てよと云いたくなる。やって中年になって「ちょいワル」などと気取ってもサマにならない。自分の文化、自分の固有の様式、文体を持てよ。それをしてこなかったのは何故かと問うといい。休日のパパファッションなどもほぼ定式だ。国民服の伝統が脈々としている。
武骨で不器用なイガクリ君はいなくなったか。きっと不器用ゆえに逼塞するか、無難を纏う。そんなものはかなぐり捨てたらいいのに。自分で自分を鍛えていくものだ。母親の望みに応えることに疑問を持たぬようでは先が思い遣られる。
買うことと飾ることくらいしかすることがなくなっている群れの子育てはそうしたものなのだろう。一時期流行った「親父の会」などはどうなったのだろう。お嬢様奥様か蓮っ葉なOL上がりの奥さんの趣味や現実論にきっと言葉はなくしているに違いない。そんな姿をよく見る。
テレピを不細工顔が席巻したらいい。男はもっと元気が出る。顔でない魅力で圧倒したらいい。
人形の社会になってきた。
ジャニーズ事務所は冗談半分で、武骨不細工チームを作ったらどうか。意外と人気が沸騰するようにも思う。

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4月20日 わんぱく御礼

2009年04月20日 | Weblog
日刊ミヤガワ1936号 2009 4.20

「わんぱく御礼」

19日にわんぱく宣言2009が行われた。早いものでもう6回目。初めから参画してくれている人たちは、今回が一番落ち着いていて、爽やかで、安定していた。いいイベントだと語っていた。楽しんでもらえたらいい。それが実質には作文・表現教育の根を張り、胞子を飛ばすことに繋がる。
「頑張る」というテーマ。書きやすそうで踏み込もうとすると途惑う質のものだ。ついつい頑張ったことを紹介してしまう。今回は18000余名。の参加。これは過去最高だった。昨年が12000名程度だったからかなり増えた。団体応募も多くなった。埼玉のはなまる学習会などは2000名近く参加した。学校単位もある。こういう動きがますます広がるといい。
レベルが高くなり、作文もスピーチも格段に上手くなっている。かなり練ってきている感触もある。それはまた次への波及になる。
わんぱく・非優等生的を標榜している。多分にこれは見果てぬ夢でもある。世間の流れはそっちに傾いている。それはこのコンクールとして埒外ではない。次第にわんぱく度は低下している。いい子、素直な子、真摯な子、情のある子・・、が今回も決勝に進んでいる。破天荒な突拍子もない思わず目を見張る子はいない。そんな声も聞かれる。それは正直、そうだとは思う。ただ考えてしまうのだ。果してそれを見い出せるか。
今回もじっくり読み込んでみた。こうは考えられないか。つまりわんぱくをその子の中に本人も気がつかぬ、隠れていたり、逼塞しているものを、逆に見つけて、光を当てられるかではないか。
見る側の、評価の側の試金石と。
ボクは今年もあえて辛口コメントをしている。それはイベント的効果もあるのだが、実は意図的弍その照射をしているつもりなのだ。言葉の作用を意識している。
褒めることの効用はある。今はそんな時代だ。しかしそれで伸びる子もいれば、もうそれに麻痺している子もいる。慈父でなく、厳父の要素はときとして必要だ。使い分けられなくてはならない。
実は大人も子も本質はわんぱくだ。隠れわんぱくの群れだ。それを抑えて誤魔化して「普通適合」の振りをしている。
そこに気づかせれば、なんのことはない。わんぱく宣言は自己内の自己発見・再生の場になる。
子の作文に笑い、共感し、涙する観客は知らず、自己を重ねる。ほのぼのしてくるのだろう。そんなホッとする空間は、一方でサッと緊張が走る空間を必要とする。空気を読むのではない。空気は作り上げるものだ。
米長さんは丸くなった。小倉さんはスマートで声がいい。郁恵ちゃんは包む。中田社長は螺子を持つ。石井さんがいないのは淋しいが、今回の面子はいい。それに司会の那須嬢はやはり安定している。女の人はわんぱくをやんわり包む雰囲気があるものと見た。
会場は満席。これも過去最高だった。関係者の諸氏の尽力には頭が下がる。定着した。ドラえもん・12歳・エコ大賞も順調に生育している。
真っ当な教育的姿勢と基軸があれば伸びる。今文春の「文の甲子園」や仏教会の「花祭り作文コンクール」があればと思う。いずれも10回少しで止めになった。もったいなかった。
子の成長の過程で得る契機。それが人生をも左右することはある。主催は心しなくてはならない。経済事情ではない。やはり素朴で強固な志だ。理屈などどうとでもなる。
来年は二万越え。文部大臣賞は欲しいところだ。
ステッキなし、帽子なし。意志は健康の源泉でもある。更にボクは元気になっている。
問題は視野の限定だ。家族や日常周辺にしか目が向かぬ傾向をどうするか。しかもよく見ようとする観点とその思考で糊塗して行く傾向。これは全コンクールに通底している。安逸の日常で楽しさに楽しさを重ねるだけではものは見えない。子たちの思索と感性の刃がもっとあっていい。それをどうするか・・。また深刻な課題を貰っている。

みんな来てくれてありがとう。応募の諸君もありがとう。また来年もね。生涯書き続けよ。

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4月19日 素敵な三人組

2009年04月19日 | Weblog
日刊ミヤガワ1935号 2009 4.19

「素敵な三人組」

トミー・アンゲラーという作家はなかなかだと思う。絵本としても面白い。これが低学年などに向けられているとしたらもったいない。大人も真剣に吟味していい。
読んだことがあると何人かの子たちは云う。それはそうだろう。しかし読んで知っているだけだ。施策してはいない。それもまたもったいないと思う。きっといつも次のページに行こうとする。親もそれでいいとしている。熟読・精読などはよしとしていない風だ。そして筋だけを追う。
今週は少しこだわってやっていた。ティファニー嬢の「で、どうするの」の一言にこだわったのは春の特講の段階。もうそれは一つの提起として置いておこう。むしろ泥棒論・・奪う、ということに着目しみたいと思った。これはスズカケの木以来、気になっていること。「
見返りの問題だ。何かをしたのだから感謝くらいしろという考え方。無償の行為というテーマ。グリムの「星の銀貨」もまたその延長にある.勝手に寓話を作ったりしていた。
どこまでも与え、捧げ、尽くし続けるのか・・、ということへの根本的懐疑があった。
泥棒三人組は馬首を襲う。脅して金品を奪う。大切にして盗られたくないものを強引に盗る。だから武装するし黒装束になる。そして盗ることは快感で盗ることは目的になる。しかしティファニーは自分が盗られることを喜んだ。ここで泥棒の論拠は覆る。行為の意味は無残に喪失してしまう。
「寄越せ」「いいよ。あげるよ。持ってきなよ」。これはプレゼントの論理だ。悪であると自覚している相手を無化してしまう。警察に捕まって「お前が盗ったんだろう」「いや、それがどうもわからなくて・・」になる。盗られた側が「そうです。盗られました」と云えば泥棒になる。「いや、あげたんだよ」と云えばそれまでのもの。この泥棒君の運命すら握ってしまう。そういうことに面白さがある。
結局ティフアニーに三人組が支配されるのはそこだ。論理の欠落でなく、論拠を喪失してしまったからだ。
こんなことを思った。宅間や宮崎の死刑に関して。書いた覚えはあるが、ボクは死刑に処した意味がわからない。それは死刑を恐れ、怯え、阿鼻叫喚する犯人にこそ効力はある。お前はそういう目に遭わせたのだ。罪を知れ、と説得力はある。そして多くの人に「死刑だ!」と指弾される辛さも罰として受ける。そういう時なら効果はある。しかし本人がそれを望み、反省もなく、死への恐れもなく、早く死刑に、と語っているときに、なんで死刑を執行するかということ。なんの意味もない。望みを叶えてやってことになる。このどこが法治国家かとボクは疑問なのだ。むしろ死刑より重く本人も最も望まぬことを課して罪に慄き、生涯を贖罪に向ける方がどれほど意味あるか。そこに浅はかさが覗く。やたら「死刑だ」「極刑だ」と叫ぶ人たちの気持ちは忖度しても、その言葉の成立する環境と相手かを更に考察しないとコトは捻じ曲がってしまう。
泥棒は盗る。盗られたのでなく「どうぞ」ということだったらどうか。論拠を奪われる。奪うと与える歯同義に思えてくる。
最後は三人組は尊敬される。多くのティフニー的孤児を救い、子たちを集め、自発的に集まり、それは村へ町へ国へと発展する。場とはそうしたものだよと作者は語る。これだって理不尽な迅雷や環境から子を盗み出している。優しいのでも素敵なのでもないだろう。奪わなくても集まる。目的があれば自発的に集まるものだ。社会的能力とか成功とはこの「集める力」に集約されるといってもいい。
わんぱく宣言の作文を全国から集める。会場の参加者を集める。特講の参加者を集める。選挙もそうだ。社会活動や戦争や政治や商売の基本もそこにある。人か金か英知か技術か知恵か知識か・・。畢竟「集め」が核になる。
勉強ができても、そんな奴は山ほどいる。もっと優れた人がいたら「君退いて、ご苦労様」になる。集める力量は簡単なようでそうでもない。それだけの魅力も意義も目的もなくてはならない。いろんな人を見てきたが、結局この力を持つ者は凄いなと感心するし、なかなか学んでできるものではないなとも思わされる。そんなことを少しばかり生徒たちに話していた。
このストーリーの種子は「集める」「集まる」にある。宝を集める→集まる、への転化。これが黒マントから赤マントへの変化にも象徴される。
単純に「泥棒はダメよ」の既定論理でだけ読んでいては、これき深耕できない。価値の移動・移行なのだと原理を掴むことだ。悪意とか善意とかはさしたることではない。それは付帯している。

心を奪われておいて「恋泥棒」と云うのは人聞きが悪い。少年犯罪でも極刑を以って臨むというりは聞こえはいい。果断のようだ。しかし犯罪に赴く意識や論理を抜き去ったらどうなるかだ。脅したら相手は手を挙げるというのは、この泥棒と同等の手口になる。まだその段階なのか、だ。
サンタとテイファニーは似ている。すっと登場して君臨してしまう。心を支配する。
武装泥棒撃退団とどっちかが効果的か、高次か。
アンゲラーのメッセージとささやかな悪戯が読める。家にあるなら一度そんな観点で読んでみてもまた楽しからずや、だね。
素敵な読者組になりたいと思う。

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4月19日 わんぱく宣言ご来駕願い

2009年04月18日 | Weblog
わんぱく宣言。いよいよ明日。

かねてブログなどでお知らせしていましたが、明日は第六回わんぱく宣言・全国子ども作文・スピーチコンクールです。
全国18000余名から選抜された小中学生15名のステージ発表と審査があります。
恒例イベントとしていつも盛り上がります。会場に来て熱弁を応援し観戦してください。何かきっと掴めます。
通学生などは招待券を配布しました。まだお持ちでない方は当日受付で「宮川俊彦の関係者」と言って券を貰ってください。
12時半に開場です。
場所 大手町サンケイプラザ 4階大会場

お待ちしています。  宮川俊彦

<事務連絡>
・例年通り4/30 5/1.2.は連休谷間ですのでお休みにします。五週目の休みに充当します。お間違えなく。
・PHPから「中学受験で迷う親たちへ」が刊行されています。ご一読を。
・4/21に全国一斉学力調査。その分析を依頼されていますので、多分22日の辺りの読売やサンケイにはコメントが載ります。
http://www.miyagawa.tv

4月18日 クレーン横転

2009年04月18日 | Weblog
日刊ミヤガワ1934号 2009 4.18

「クレーン横転」

無理して荷重を掛けると危ないものだ。離れた対象を持ち上げようとしても下手をすれば横転する。経済もそうだが、教育もそうだ。
麹町のクレーン事故の教訓としたい。幸い迂回していたが、その道と時間帯は通勤路だった。大丈夫だったかと二人からメールを貰った。四ツ谷を曲がってよかった。
重いものが自分から起き上がってくれたらいいが、往々にして持ち上げてセットしないとならないものだ。そのために無理をする。
怖いことはそれが当たり前でそうしないとならないと云う考え方が定着することだ。荷物にも意志があるか自分を動かす動力が付けられるといい。持ち上げるより持ち上がるといい。自己を浮揚させたり、鉄骨が自分で歩いて所定の場所に収まったらいい。組み立てはかなり楽になる。ロボット大国ならそういう技術を獲得したらいい。稲も麦も自分で実る。無機物を転換さぜることが出来たらいいのになと思った。
言葉に命を吹き込むのは人の技だ。同じ言葉でね生きたり死んだり裏返しになったり消えたりする。初めから言霊があるのではない。過去の民話でも忘れられた神話もそうだ。
ましてや人。1しかない力を強引に引っ張り上げようとしたらそれは大変なことだ。言葉を吹き込むのだろうが、結局は自己を動かそうとしないとダメなものだ。自分で考えて、やろうとして、計画を立てることから動かない者はやはり覚束ない。周りが計画を立てて乗せてもそれは見続けないとならなくなる。人の育成としてはよくない方法だ。リモコンになる。そうしないとやらないと悩むのは人を洞察していない。親が引っ張ろうがなんだろうが、やる子は自分でやる。それが遅々としたりまどろっこしいものであっても、その萌芽を見つけて育むしかない。時間がないとか要領が悪いとか追いつかないと廻りが羽交い絞めしたくなるものだが、それはあまり効果はない。見ていれば、このままじゃダメだなと自分で考えたり焦ったりして、計画して実践した子が伸びている。賢い親はそれを促す。
そこにはその子なりのやり方湯速度がある。大切にしながら少しのサポートを注力したらいい。子のためを思う言葉が、子を止めてしまうこともある。自主性という括りになるのだろうが、そうまとめるとなんとなく当たり前のように感じられる。もっと至近距離の言葉と見方であるように思える。
意欲をなくしたらそれまでなのだ。子だけではない。生き物は本質としてそうだ。肝心を育てないでおいて、負荷を与えるだけなら、ロクなことにはならない。もっともその結果が今日の中年にも具現しているのだが。
ボクが牧歌なのではない。単純に視野狭窄になって走れる者が素朴で単純で牧歌なのだ。
この国の景気対策。米国の刺激策。一時は動く。しかしそうそう簡単ではない。胎動に光と栄養を与えることを着実にしないとまずかろうと思う。人の意識の動線だ。機能論的な施策が気になる。
社会現象・自然現象は常に示唆を与えるものだ。それを解く者は古来より巫女のように思われる。それは巧妙な啓発であったのだろう。こじ付けだったり、予見だったりしても、そこにひとつの解釈は成立する。牽強付会は世の常だ。
雲仙普賢岳の頂上崩壊も示唆的だった。デジタルも、サリンも、外国人横綱も、大麻も、崖っぷちの犬、根性大根、耐震偽装、感染症、お詫び・・・キリはないが象徴的だった。これを神の意志とか啓示として古人は教訓化して、民衆を教化していた。それは意味ないことではない。共通項を見い出す眼力や思考力を発揚させていい課題としてある。
だから時代の要素は充分に作文課題にもなる。当局発表だけを正解としていくのは知性がない。
クレーン横転。どう見るか。そんな会話があちこちで巻き起こっていい。

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