日刊ミヤガワ

作家・表現教育者宮川俊彦によるニッポン唯一、論評専門マガジン。

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※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

※【移転のお知らせ】※

2010年03月19日 | Weblog
日頃の御高覧深謝申し上げます。

この度、日刊ミヤガワ(ブログ公開版)は
「有名人ブログ」に登録されるのを機に
ライブドアブログへ移転する運びとなりました。

つきましては、ブックマークを下記の通り
ご変更いただければ幸いに存じます。

http://blog.livedoor.jp/nikkanmiyagawa/


2010年3月16日以降の日刊ミヤガワ原稿に関しては、
上記のライブドアブログのみの公開となります。


尚、当ページは当面の間アーカイブ版として
2006年4月から2010年2月末日までの原稿を
そのまま公開し続けていくとともに、
ミヤガワ&作文研より講演会など重要なお知らせが
有る際には更新してまいります。

今後ともよろしくお願い申し上げます。



(財)国語作文教育研究所・宮川俊彦教育研究室
〒101-8428 東京都千代田区神田神保町1-24
Tel:03-3293-1818  Mail:mygw@din.or.jp
http://www.miyagawa.tv/

3月24日~ 第72回春季特講のご案内

2010年03月16日 | Weblog
第72回とっちゃまん春特講

 分かりやすく伝えられればいいだけの作文は結局表現と思考の水準を下げます。それでいいという作文とそれを凌駕する作文と。勉強には標準があると思われていますが、そこに個別をはめ込んだら退屈でしょうね。
 損得勉強。役立つ勉強。結果を出す勉強。・・・。浅い勉強が機械的に進展しています。
 作文研・・。それに寄与しているかもしれないし、全然異質かもしれません。ただここでの刺激的な体験で変身した子たち、いい顔になった子たちが大勢います。
 目からウロコ。覆される常識。思索の最前線。・・。この空間が定式と正解訓練の子たちに与えた影響は多大なものです。そしていくつになって顔を出しても同質の刺激の場だといいます。
 それがどれだけ子たちの思索と成長に重要なことか。ボクはあえて言う言葉を控えます。
 なぜ楽しいと言い、欣喜雀躍し、表現が変わるか。また来たいと駄々を捏ねるか。その秘密をご自身で確認してみませんか。
 さて春。スマートとっちゃまんの登場。今回の特講はシャープだよ。刺激と攪拌を。
 今すぐ予約を。


受講要領
・日程3/:24.25.26.27.(28休み.)29.30.31.4/1.2.3. 合計10日30クラス
・クラス編成 対象は小1~一般 
 A 10時~12時 基本・初級
 B 12時~2時  練成・中級
 C 2時~4時  上級

・受講の申し込み手続きについて
基本的にメールだけの申し込みとします。受講する日程とクラスを決定してメール送信してください。
mygw@din.or.jp
予約メールに対して「了解」の返信があったら受講料をご送金下さい。
・日程・クラスの変更はできるだけお控え下さい。
・本来学年でのクラス分けなどさしたる意味はないのが表現教育です。よって高校生がAに来ることも良いことです。
・最低6クラスからの受講です。追加は一クラスにつき7000円申し受けます。全日程とクラスからチョイスしてください。
・会場  神保町 国語作文教育研究所  (東京都千代田区神田神保町1-24ハクバビル6階) 
・受講料  6クラス 38000円
送金先・三井住友銀行
神田支店 普通7971259 国語作文教育研究所
    尚、受講票は発行しません。

・講義内容
基本としては読解と作文、課題作文。自己表現形成。講義と意見交換など毎回適宜組み込みます。
ノート持参。サインペン持参。細字は不可。鉛筆やシャープペン、ボールペンも不可。
講義→執筆→個別指導→直接返却→終わった人からの退室。この流れを堅持します。

その他
諸連絡、ご相談はメールで。mygw@din.or.jp にて受け付けます。
尚申し込みに際しての必要事項は下記に準じてください。
開始日が近づきましたら、入金確認の意味も含めて「受講の要領」をメールします。

・申し込みに際しての必要事項 携帯からでも結構です。
・受講者氏名      
・学校学年
・保護者氏名
・ご住所
・緊急時の連絡先電話番号
・メールアドレス
・受講日とクラス
・後は受講者に関しての理解の一助となるべき事柄などご自由に。

mygw@din.or.jp
へお送りください。

財団法人国語作文教育研究所
http://www.miyagawa.tv

3月15日 不惑

2010年03月15日 | Weblog
日刊ミヤガワ2255号 2010/3/15                   

「不惑」

結構イチョウが話題になっている。
生徒たちも何かを見い出そうとしている。
千年・・・。武士の時代を見てきたのだ。西行も。
そこには源平の合戦あり。頼朝は無論政子も、その子たちも見た。義経も梶原も見た。
北条の天下も見た。時宗も見た。新興宗教も見ている。末期元寇で慄く人々を見、新田義貞も足利も見た。きっと尊氏が弟を殺すのも見ている。
戦国の世を見て、平天下を見た。江戸時代を見た。維新を見、近代国家作りを見た。千年・・・。
そうだ。この国の武士の台頭からその終焉を見た。確かに千年。ついこの間まだサムライはいた。
戦後の復興の意志は武士のものだ。
それがこの国から去った。右顧左眄の小商人の全盛になった。
イチョウはもう「見るべきほどのものは見つ」の心境かも知れない。
あるいはもう見るに耐えられなかったか。終わりたかったのかもしれない。
「命を絶った」と今日誰かが書いていた。その一文が目に焼き付いている。
そうか。イチョウの自殺、自死か。そんな観点でこれを見ている子がいることに唸る。
実にエコ的発想だ。木の意志。そうしたことをいつしかボクらは忘れている。
感情移入と云わば云え。それで成り立つ世界観ではなかったか。認識はこれをも包含するのだ。
予兆だと考える見識の浅さをその子の前で恥じる。木に木の歴史と視座と見識がある。意志だと。エコ的だ。
そこには人より遥かに長く生きられるという事実がある。きっと嫉妬している。
彼らから見たら人間の営みやチャンバラなど笑い種だろう。中生代の名残りだもの。

不惑の講義をしていた。人は惑い迷うものだ。40になったら惑わなくなるのではない。むしろ而立から10年。最も惑う時期だ。そこでしかし心のままにしたいことをしたら実は何も残らない。
そこで絞り込むことだよと話した。惑わないようにすることだと。そんな主体の判断の言葉だと解釈して見せた。体験からだ。そして知天命、耳順、従心と生きていく。それなら分る。
不惑は意志なのだ。「不惑なのにフラフラしています」という言葉を聞くと、それを云うなら一生だよと云いたくなる。
だからこそあえて定めるのだ。いずれ大惑は人の必然だ。
定めて生きるときに根が張る。だが・・。それはきっと最終面で倒れる。使命をそうして全うする。
イチョウは役目を終えたのだ。


3月14日 テン

2010年03月14日 | Weblog
日刊ミヤガワ2254号 2010/3/14                   

「テン」

万全を期すということが分かっていない。
ちゃんとやってたんだけどなは一人ぐちるものでいい。何を云おうが死んだものは帰らない。万全の上にも万全を期すこと。ありとあらゆるケースを想像すること。そり基本がなってない。
ここまでやりました、など誰に向かって云う言葉かだ、甘い。また仕入れればいいとか、次はちゃんとやろうとか。そんな感覚を苦々しく思う。
トキに対しても人でも、何についてもそうだ。敬虔さや自己への厳しさが希薄になっているのが現代ニッポンだ。
そして何かに頼ろうとする。被害者を装ったりする。狡さだけが目立つ。
しかしテンだったか。なかなかのものだ。どこから侵入したか知らぬが、何やら「いたずらネズミ」を重ねてしまう。
ホラホラ無防備だよと知らせている。テンが襲うことに問題があるのではない。守れないのに問題はある。あるいは純国産でないのをテンは知って攘夷を決行したのかもしれない。
国粋的国産小動物の世界では、一躍ヒーローになったかも。
珍しいから保護する。ならボクらはなんなんだと、この行動で主張している。
それでも悪か。排除されるのか。テンは多分悶々としてこっちの出方を見ているだろう。
人の恣意的保護に対抗して、今後は一斉駆除、撲滅を誓い合っているかもしれない。
一方に目が行き、そっちの論理が全面化することをボクは恐れる。
トキの悲劇は悲しいがテンの行動にも切なさが感じられる。
これでテン悪者論が台頭するのをボクは警戒する。多様な生物の共存。防御の網の中でしか生きられないものは、所詮滅亡の憂き目に遭う。
いつも保護者がいるとは限らない。つきっきりで守るわけにはいかない。
そこは自ら戦うしかない。自己防衛を学ぶしかない。襲われぬ自己を作るしかない。
この保護は正しいか。
もしテンが絶命危惧種ならどうするのだ。
人は身勝手なものだ。好みで動く。
パンダもまた仕入れるとか。保護し過ぎて弱くなっていないか。種を強くする保護ならいい。しかしきっと倫理が邪魔をする。弱いから滅びるのだ。
誰かに強くしてもらうのではない。過去そのためにどれだけの生物が死滅したか。
冷厳な事実を曲げることこそ倫理に反していないか。
日本から愛すべき生物が消え、移入しないとならないとして、それで何だというのだろう。無理をしても駄目なものは駄目。
乏しくなったら日本人は嘆いたらいい。そうしてしまった罪を悔いたとして、何ができるかだ。
飛来するツルも激減だとか。魅力がないから来ないのだ。
日本が生物にも人にも魅力あるなら何もしなくても来る。一体何があるというのだろう。
経済と効率を優先した。その反省は保護下。これは福祉の思想だ。補完でしかない。
近代合理主義の外延だ。
この際だ。遺伝子操作で強い種を作ったらどうか。そして繁殖して今度は希少動物の敵になったら、人は適正数にコントロールするか。
その程度の知恵だ。テンはいい問題提起をしている。
テンに作文を書かせたいと痛切に思った。そっち側の論理が語られていない。


3月13日 雑念日

2010年03月13日 | Weblog
日刊ミヤガワ2253号 2010/3/13                   

「雑念日」

公暁が隠れるにしては当時の幹は細く見え見えだったのではと思っていた。
その大銀杏が倒れたとか。そんな年代ものの樹木の奇禍があちこちあるのだそうだ。
やはり天変地異の予兆。大変動の前触れかと、眠っていた見えぬものへの畏怖の念が頭をもたげてくる。
嫌な仕事を外国人にさせていて、彼らは頭がいいからいずれリーダーになる。そして日本人は使われることになる。
小学校の卒業を控え、誰がどこに入ったかだけを気にしたり、逃げたりしている親がいる。まだやってる。フライパンの上で踊っている。もう遅れているんだよ。付き合う人を変えた方がいい。レベルダウンしたらお友達は増えるものさ。
素直でないと点は取れない。従順であることさ。自分を持ったら苦労する。疑わない者が伸していく。だからどうするかだ。それは個々に問われる。何も一つに選択することはない。できないならその器というだけのこと。素直だから坂は転げやすいさ。
御苑の桜木を見ていた。まだ先だ。後十日もすれば咲く。近所の人は隠れて、飼い飽きたカメや金魚を放しに来る。これがワニやピラニアだったら。熊やら虎や猿や・・・。想像してみた。都心の公園が世界の動物に占拠される。その内ヤギや羊や牛が混ざったりして。隣接するボクらは双眼鏡が手放せなくなる。声も凄いだろう。しかしそこで果して闘争になるか。秩序が保たれるか。興味はある。そんな放し飼いの、というか放したままの多様生物の営みを見てみたい。
自制の節度を確かめてみたい。
子どもの頃、祭りでひよこを買った。家の中でトコトコ歩いていた。目を離したら消えていた。未だ消息不明。きっとヘビか猫だ。そのほんの少しの行動でひよこは消滅した。儚さと稚拙なボクの動機を恨んだ。以来ひよこは買わない。本当は成長させて卵をふんだんに産ませたかった。鶏を飼うべきだった。しかし祖父はよく肉にしてしまっていた。抵抗だった気がする。病棟の大部屋では隣り合わせてもろくに話もせずカーテンを引きっぱなしだと聞いた。暗いのだという。大部屋の意味はない。そんなものなのかと改めて聞き入った。
職場で地味な事務方ができる者はやはり力をつけて伸びるという。できる奴とはそんなものだ。下積みを馬鹿にする者に未来はない。下積みのままでいいという者もよくない。目立たぬ地味なことをしている者がボクは好きだし、すぐ見つけられる。勉強も実践も同じだ。蓄積が人を底上げしていく。踏み台にしている者はきっと崩れる。見えてしまうから。
知り合った元社長氏。多くの負債を抱えつつ従業員の落ち着き割きょ決め、裸になって面倒を見た。従業員は呼び方を急に「・・さん」と変えたという。それ以来人間の豹変に寡黙になった。よく分る。やって貰ってラッキーの人たち。一宿一飯の恩義など微塵もない。何がそうさせるのか。簡単に被害者になってしまおうとする姑息。悲しい矮小なプライドに縋って生きている。真剣に身を投じて人のために尽くす人は本当に食物にされている。善意ではない。生き方の信念。その実行の勇気。萎えさせる矮小人。いずれ跳ね返る。

いろんなことがあり、いろんな人と話していた。活気がある。頭も回転する。
木の芽時だ。おかしな話も多い。別れさせ屋はよかった。夫婦じゃなく国や政治や異次元でやって欲しかった。
愛子内親王問題で皇室にゴマをする言論人。そうして自己の延命を図ろうとしているんだと、西日の縁側の乾いたとうもろこしを浮かべた。



3月12日 霙

2010年03月12日 | Weblog
日刊ミヤガワ2252号 2010/3/12                   

「霙」

やはり策士もいなければ見識もない。トップなど何だっていい。谷垣だっていい。
所詮リーダーシップを取れる器でないし、無難な調整型だ。誰かいるだけでいいのを云わば押し付けた格好だ。誰も期待していない。
今時強力な個性のリーダーは求められても足を掬われる。謝罪でもして回る程度でも御曹司なら大事にされる風土だ。担がれ捨てられる。
この時期に必要なのは強力な軍団を形成しつつ広汎に勢力を浸透させて尚且つ脇を固めていくことだ。
指導部を批判し離脱、新党を匂わせる手法はメディアは喜び、退屈と倦怠の芝居好きは歓迎も期待もするが、この国の現状からすればまたぞろ停滞と混乱を招来する。
危機と混迷の次代は分裂と再編をもたらすというのは一面の見方だ。本当に乗り切ろうとしたら不抜の強力な陣形が必要なのだ。
ロシア、中国。結局は独裁的傾向の国がしぶとく力を温存しつつ伸長している。
批判するならそれ以上の国力を得てからしたらいい。日本の一党独裁は戦後思想からしたら批判はされる。学校的民主主義観点。しかし現実はそうであって強力で安定した国力増進に繋がった。そんなことは口ではワイワイ云っても本当はみんな分っていた。形だけ体裁を整えてごっこを演出していただけだと。
投資先としても安定しているのがいい。それは本音だ。実利と利害で成り立っている。
政治思想は大義名分だ。また道具としてある。
ストイックなものだ。いつからこんなに理念を掲げて支持を得ようとする手法が前面化したのだろう。層を愚直に追求するのは好ましい。しかし現実の国際環境のなかでこの国がそれでやっていけるほど世界は寛容でないし成熟もしていない。
もっと泥臭くもっと巧妙でなくてはならない。
小粒の小利口者が潰し合い、囃し立てられているのは本当の安定と不抜を手にしてからの寸劇だろう。
国民がそうしたことを今望む状況ではない。危機に煽られてまたぞろ浮き足立ち軽躁になるのは戒めないといけない。
本来保守二大政党は一党独裁からの演出的深化として位置づけたものだ。国際世論も躱せる。
ストイックだ。なんと忠実なものか。従順なものか。そこで優等生になって何を得たと云うのだろう。
腐敗と硬直を打開するのはいろんな方法はあった。この程度の規模の国としては再編の仕方はそう難しいものではない。
受け皿を、と云う。きっと政界再編のシナリオが既定としてある。断末魔の自民は昔日のパワーはない。そこに重厚はなくなり、人がなくなり、浮薄に踊っている。
本来はじっと勢力温存して敵失に備えたらよかっただけのことだ。桝添も与謝野も力を蓄えて脇にいてそこに集団体制をただ示して幅と安定感醸すべきだった。
国民は気紛れだ。かつて指摘したように期待して失望してを繰り返して、虚無になり、芝居見物になっている。世論調査の数値信仰は感覚的表現の最たるものだ。それに左右されるのでなく政治はそれを左右していくものとしてある。
消極的選択として、まだこっちがいいかも、と支持行動に向う。
我慢が足りない。思想でなく国力なのだ。何をしなくてはならないか分かっていて有効打を積めないのは視点が低位にあるためだ。
政治がお調子とお先棒だけ目立つ。今泰然自若として動かざる大志の傑物は見えない。

目医者に行き始めた。思ったいたほど悪くない。まだ綺麗だそうだ。さて本でも書くか。


3月11日 ウロウロ

2010年03月11日 | Weblog
日刊ミヤガワ号 2010/3/11                   

「ウロウロ」

恐竜絶滅の原因が隕石の衝突だと。決着がついたと云う。
実証されたということだろう。こうしてひとつひとつが明らかにされていく度に、人の営みの心細さを思う。
儚さを嘆くのでなく、対応の時がもどかしく感じるのだ。
地球上げて人の延命と危機への対処を講じないとならないのに。
いち早くそっちに邁進していたら、いずれそこに集約されると思うのだが。
隕石が来たなら爆破するか軌道を変えるしかない。その技術はあるかと問わないとならない。どうせ主語は高次になっている。こんなことを世界の科学者は本気になって取り組んでいいし、日進月歩の成果は公表されていい。
飢餓問題もそうだが、どうも出し惜しみしている気配がある。つまり食料増産は克服しているのに、その結果としての人口爆発やシステムと思想がついていかないために、実現を猶予している感がある。
そこに国家のエゴや国際秩序などまだ遺物の利害が横たわっている。
飢餓はまだ必要だとそんな認識になってしまう。なんと遅いものか。
教育はその土台をいつでも形成して余りあるのに、まだ内政の主として位置づけられている。
アジアの歴史の共同研究でさえ混乱している。当然だがもっと視点を高位に置くことは出来る。
チマチマとしてせいぜいが経済のグローバリズムと云いつつこれもギクシャクしている。
ムカデの足の寓話のようなものだ。危機を素材としていくのなら、もっと提起したっていい。普天間などもそんな観点から別な意義が見えるかも知れない。
地球は最近の天変地異で人類に提起しているのに、そのための志向は生温い。
助け合いだけじゃ後追いだ。そろそろ未然策があっていい。そういうことに世界のシステムが動くなら、モルジブもパラオも活路は見い出せる。
先進国後進国などの対立など実に低次元の思想を提示しているからそうなる。
協調政策の足許を丸ごと掬う思想が用意されていい。
300メートルの津波がきても大丈夫。マグニチュード11であっても、巨大隕石が来ても、それでも大丈夫な態勢を本当は欲しい。
そうなったら人は慢心し、恐れと危機を感じなくなり、堕落するか。いや更に高次の問題に直面する。そうして階梯を登っていくのだと思う。
そんなことを日本が本気になって走り出したら世界は笑うだろうか。
先進性とはそんなことだと思う。
どの程度の隕石がどの地点でどう爆破できるか。軌道修正できるか。現時点の到達を知りたいものだ。自転公転の周期の変化、距離の変化。何にしても危機はそこにある。偶然を確定的必然にしていかないとつまらない。ボクは地球と運命を共にしたくはない。
だから星を見る。月も見る。50億年後に太陽は褪せるという。ならどうする。それを考える。
飛び立つしかない。イラクやアフガンでドンパチやってる暇があったら、失敗してもいいからどんどんあちこちに飛んでいったらいい。
JALの破綻などと云っている場合ではない。再建して宇宙航空にでもしたらいい。
太陽系は無論、別な天体に向ったらいい。冒険家の天地だ。
そのための母星での歴史ではないか。知はそういう収斂の場を展望しないと腐る。
大衆化などその辺の商人に任せたらいい。飛躍飛翔を遂げるべきは遂げなくてはならない。
焦ってもしょうがないが、そんなことを考えたら書斎の中をウロウロしている。両手を挙げて叫んでいる。
危機で萎縮させ依存させる手口は有効な者たちにだけにしたらいい。それで?と思う者たちには何を用意するのだろう。
そう考えると世界統治論は未熟すぎる。世界格差の是正など要らない。それぞれの視点で捉えるものがある。要は硬直の問題だ。
言語に貫徹する思想はそんな過程で検証されるのだろう。
日本人は専門として日本語の内包する思想を掴まえるべきだろうな。


3月10日 啄木

2010年03月10日 | Weblog
日刊ミヤガワ2250号 2010/3/10                   

「啄木」

春まだ浅く月若き命の森の夜の香に
憧れ出でて和が魂の夢むともなく夢見れば
狭霧の彼方その上の望みは遠くたゆたいぬ。
自主の剣右手に持ち左手に翳す愛の旗
自由の駒に跨りて進む理想の道すがら
今宵命の森の陰水の辺に宿借りぬ
聳うる山は英傑の跡を弔う墓印
音なき川は千載に薫る名をこそ流すらむ
此処は何処と我問えば汝が故郷と月答う
勇める駒の嘶くと思えば夢はふと醒めぬ
白羽の兜銀の盾皆消え果ぬさはあれど
ここに消えざる身ぞ一人理想の道に佇みぬ

啄木だ。前にも日刊に書いたことがある。何年前になるか。
たまに忘れていないかとこうして書いてみる。まだ記憶は確からしい。
これはボクの中学の頃だ。新任で新人の信州大学を卒業したての担任が教えてくれた。多分クラスはこの歌を全員が今でも覚えている。そう思う。
何回かの同級会で歌った。それぞれがどんな思い出どんなときにこの歌を思い出していたか、一人一人の歌っている顔を見詰めていたのを思い出す。
担任が実質として残したのはこの歌だ。これだけが鮮明なのだ。
時代遅れの昂揚感と云わば云え。少なくともボクら読解しようとはしなかったかもしれない。なんとなくカッコいいとは思った。一方でビートルズをコピーしていながら。
古いのに新鮮だった。自主・自由・愛。近代思想と兜・駒・盾・墓印・・。そして命・理想・夢・・。
混在のバランスが、芋のごった煮のような当時のボクらにはきっとよく分らないなりに浸したい気分があった。
そうそう映画「坊ちゃん」の中で確か坂本九が歌っていた二番だけだったか。
山嵐が剣舞をしていた。うらなりの送別会だったか。終わってから誰かがあの歌いいねと云い出し、担任が調べてきた。毎日歌った。
田舎の牧歌的な光景だ。それを親たちめいめいが披露して何がしかの賞賛を得ていた。そんな歌だ。
啄木は意気軒昂だったのだ。苦闘の人生の中でここに凝結している思いが儚く物悲しい。
やっと立っているときのつっかえ棒の感がある。ボクはそんな時この歌を思い出し口ずさんだ。
理想・・。なんと切ない言葉だろう。生の時を射程にして武装して歩もうとする。しかし夢は醒めると。
最近「君の夢は」などというが、理想とは云わないその巧妙な云い換えに遭うときこの歌をに軸にしたくなる。
なぜ理想を掲げないのだろう。それは夢ではない。
キング牧師の「夢がある」というのは理想の暈しだ。子たちから理想の文字を奪ってはいけない。それは思考の先にある。夢とは違う。
ここに言語計画があるとしたら、なるほど個人は翔び易い。空中ブランコの自己想定がし易くなる。
理想と現実。夢と現実。漠然度と自己の濃度が違うのに混同され、夢に傾斜した。
理想と云う言葉、寝入るのを起こしていい。個人も家族も、企業も、国も。それを高らかに掲げ、思い、その道に佇んでいい。
理を以って想うのだ。その過酷さと建設の志向は今を突きつける。
貧しく力量の不足も知って苦悶しつつこんな歌を描く啄木は背負いきれない荷物を課している。
その強がりと痩せ我慢がただの敗北主義でない光彩を秘めている。
「皆消え果ぬ さはあれど」胸が詰まる。「ここに消えざる身ぞ一人」そうだよ。それだけなんだよ。最初も最後も。
顔を伏して、次第に顔を上げて、星星に向けながら、涙を拭って、呼吸を確認する、そんな風情が浮ぶ。
狭霧どころか今は濃霧だ。四方八方が閉ざされている時代だ。気負いの昂揚感は身を崩しやすいが
かといってただ晴れるのを待つばかりでは身は持たない。
巧緻な言語計画に深遠な言語理想を対置しなくてはならない。


3月9日 四迷

2010年03月09日 | Weblog
日刊ミヤガワ2249号 2010/3/9                   

「四迷」

逍遥や四迷の志はわかる。言文一致は当時の必然だった。
そこでどこまでどう口語化するかに苦悩したのも必然だった。
現代の口語とも云えぬ喋り言葉がそのまま文になっていくことに、多分生あらば彼らはまた苦悩したに違いない。
口語文化を低く見たのではない。そこに練れた知があることを見たためである。欧米のただの模倣とは違う。
文語の格調とリズムは心地よい。それを排斥するのでなくもう一つの基軸を提起したのだと思いたい。
今日誰が文語調で書くだろう。書けるだろう。
その系譜は耐えている。
そしてますます「次元を低くして」などと云われて分かり易さを執拗に強要されている。
これは表現の定式化であり、実に統制と云っていい。天井と壁を予め作っている。
手紙など時には「候」で書いたっておかしくはない。どうせ言葉遊戯をしたいのならそんな文化があってもいい。
「しかるに」「されど」・・・。滅多に使わない。法律用語に少し残っている。
それも分りにくいから変えようという。ことごとく言語の大衆化は進んでいく。
それで誰がどう満足していくのだろうか。
一部の人しか理解できぬ文語と云うけれど、この教養国家。習おうとすれば出来る。元来学び取ることが自己育成ではなかったか。
言文不一致。多重表現は教養である。一元化していいとは誰が何のために語ったことだろうか。
それよりも疑わず調子に乗った者たちに問題の根を感じる。
志は文化の源泉だ。そこの原点は問いでなくてはならない。
迎合文化は決まって人も文化も衰退させる。
ますますテレビが劣悪になっている。BSは少しはいいかと思ったがやはり質はよくない。
こんなもので触発されるのはテレビ大好きの年配者か低教養のミーハーだろう。この連中はすぐ啓発され作用を受ける。
しっかり者は最近テレビに出なくなった。ブラウン管と共に消えた。
やたら喧噪で下らぬことに没入している。当然政治家や言論人も出るだけ劣化している。
マスコミ嫌いといのは一時文化姿勢としてあったが、それも無化されている。
媒体の持つ本質はかくして批判者も対抗者もそれ故に格好の素材となる。つまりは根底がそこに露呈するということになる。
むしろメディアを利用するくらいがいい。そんなしたたかな者がいそうでいない。
まして政権でも変われば一気に顔ぶれが替わったり。分かり易すぎる。
不抜の機軸など鼻先で笑うようなものに成り下がったようだ。
テレビに出てくれと云うから話す。すると言葉が難解だからおばちゃんたちに分らない。分るようにと云う。ボクはムッとするしお前は馬鹿かと云う。
何で合わせないとならない。人はその人の表現の牙城を以ってその人になる。この原則を無視して一般化するのは犯罪的なのだ。
かつて番組を持っていたときも当初編成の愚か者たちはイチャモンを付けていた。しかしその内に良心というようになった。視聴者の支えも多かった。つまりは低俗に飽きている人たちは少なくないということだ。
まだ草創期だとボクは思っている。静寂などではない。まだ幼稚の段階だ。
そこでの次を準備できないのは過剰適応しているからだ。
作り手がそうなのだ。ただ有名になりたいというだけのタレント志願者はそこに添う。
新鮮さは現今のテレビ言語からの脱却にある。そんな難しいことではない。しかし信念と専門性がないと崩れる。
新聞連載でも味わった。屈服して見せたり巧妙にやったり。その都度多重化は獲得してきた。
最近の毎小など読者がついてきているのは画期的なことだ。編集の人たちの気概が感じられる。
文化は志。例え小部数の本であってもいいものはいい。売れたかどうかは別次元の話としてある。
価値は読者が定める。
現代の文語があってもいい。復古ということではない。そんな表現を粛々と磨く表現者がいていい。ボクはそれを学びたいと思う。
俳句などももっともっと多くの変革があって流儀があっていい。この濃縮文学は日本の誇りだ。
作文研で句会や句賞を設けていいと考えた。サラリーマン川柳の無抵抗に抗して高次水準を獲得していいように思った。
もっともっと表現の大海原に漕ぎ出させてやりたいな。
よし。決めた。今年やろう。それを見ながら探求すべきものがありそうだ。
14日過ぎたらそれだな。


3月8日 啓蟄

2010年03月08日 | Weblog
日刊ミヤガワ2248号 2010/3/8                   

「啓蟄」

春一番の後に啓蟄が来るのか。今年改めて確認した。
季節がぐっと迫ってきている。日々の変化をこんなに身近に感じることは今までなかったようだ。
虫はどうして春を知るんだろう。何をどう感じ取るのだろう。あのグロテスクな面持ちの生物の摂理。見事な適応だ。
奴らは地震に強いんだろうなと思った。
小さくても飛べるものは瞬間飛ぶ。そうでないもの俊敏に動く。
地震があっても虫の被害は報告されない。躱し易いのだ。
四川、だのハイチだの、チリだの。大地震が気になる。平成の混乱が雲仙普賢岳に始まったように、動物的感覚に忠実なら、そこに世界の啓蟄が感じられる。
天変地異は必ず政治や経済の変動を余儀なくする。ドバイもギリシャも、あるいは更に来るだろう変動の前兆のようにも思えてくる。
まだ無力すぎる。虫に比較して人は弱い。地震で何百万も死ぬべきではない。地震で死ぬのでなく、建築物が主因だ。
無茶な建物に帰属している。分っていて何で繰り返すのだろう。
地縛を促すものに無抵抗すぎる。本来の知性で云うなら既に虫程度の回避機能は獲得しなくてはならないはずだ。
生徒たちと話していた。昔デパートの屋上にアドバルーンがあった。あれを一人に一つづつもっと小型で高性能にしていつも背負ったらどうか。
錘をつけておいて危険なときはそれを調節して少しだけでも浮き上がったらいいと。
爆笑でいろんなアイデアが飛び交った。しかしボクは馬鹿話のようでかなり重要な発想だと思う。
重力制御はまだならその間できることをしたらいい。
何ならランドセルに着けてもいい。
学校ごと持ち上がることも考えたらいい。
せいぜいが耐震構造と云うけれどそんなものは当てにならない。もっと素朴な路線もある。
車だって水陸空走れるものを開発すべきだ。本来そういうものだ。何でそっちに向わないのだろう。
たった数センチ地から離れれば被害は免れる。空中は安全圏だ。後は家も都市も球体にしたらいい。
地に根を張らぬ構造が地震には強い。一緒に揺れたらいいのだ。
津波にも強い。水に流されたらいい。運動の原理だ。ドバイの高層ビルを眺めてバベルを思う。
これが長くもつはずはない。人の慢心と知への傾斜はそういう方向に向かう。どこが未来都市なものか。砂漠人の未成熟な悲願を感じるだけだ。
金があってもそういうものしか作れない。天変地異を想定しない俗悪な知性の傑物だ。
地震列島日本。アジアの出島。そこにあることを僥倖として、独特の「コンクリートから人へ」のプロジェクトを進められないものか。
対岸の火でなく、そこに燭光を掲げられぬものか。
受験だのなんだのと丸くなって勉強している子たちがいる。思うところはあるけれどこのひたむきな健気さは愛でる。ただそれが一瞬の地震で瓦礫に潰されることを想像したら胸が痛む。
彼らは無力だ。瓦解する構造に翻弄されている。
こんなことを考えていると個人の自由だのというのは小さいものに見えてくる。こういうことは国家プロジェクトでないと無理だ。治山治水が強権を生んだという歴史はそれを示している。
春闘の集会は戦国時代の合戦のように幟旗を掲げている。そんな段階なのだ。
あれが個人の気球だったら示唆的なのに。
他所の国に義捐金を気前よく払っている場合ではない。
球体住宅でも開発して何万個も送ったらいい。世界の都市と住宅は一変する。
世界はまだ危機の共有という素材で世界言語を獲得しようとしている。教化なのだな。
ということはまだまだ危機で多くの人は悲劇に見舞われることになる。
人を何だと思っているのだろうか。温暖化や環境も協調政策だしね。
地震に強い個人。目的としなくては。


3月7日 おやおや

2010年03月07日 | Weblog
日刊ミヤガワ2247号 2010/3/7                   

「おやおや」

ずるいね。学校で問題があるから行かない。行けないと機関発表する。
多くの子たちは日常茶飯事だ。そこで苦悩してもなかなか公的な発表はしない。出来ないでいる。
乱暴な子などどこにもいる。大人もそうだが子の世界にも少なくない。
それも含めて人間社会の学習だ。そこで自分はどうするか、相手をどうするか、クラスや学校をどうするかが本当は問われる。
乱暴な子がいたらどうするのだ。謝らせるのか、処分するのか。
それが日本の実態であることを踏まえて入学し、そこで過ごすのだ。病気や不安を盾にして何をしようというのだろう。
これを機に教育改革でもするか。東宮敬慕の念のない親子は退学してもらうか。
乱暴な、という子を袋叩きにするか。
この場合の学校の対応に興味がある。守られる子は幸せだ。多くは一人傷つき、苦悶し、時に親子で苦しみ、それでも自分で打開していくしかない。自己武装もそうだ。活路を見い出すために居場所、居方を模索する。
ここは相互に考えないといけない。一個人の理由が特別に一人歩きして行くことは危うい。何者であったとしても子たちの世界では社会を学ぶことを怠ってはならないし、特権があるべきでもない。象徴の系譜におわしますなら余計にそれは求められる。
帝王学の基軸のひとつはそこだ。
国民の中に皇室敬慕は必ずしも浸透しているとは云い難い。こういうことが続くと、何をわがままなという本音が湧き上がる。
こんなときはそういう事態を克服して姿を示して、多くの子たちのモデルになるくらいの姿勢をもってもいいほどのことだ。
発表した以上国民の耳目は集める。そこを認識しての発表だとしたら、次の対応を当然準備していないとならない。
そうでないなら、自らを貶めることにもなりかねない。憂慮すべきことだと思う。
表現の社会化により高度な腐心が必要なのだ。
誰かを悪者にする。そしてそれ自体が既に攻撃ターゲットになる。ましてや権威も権力もある。そこをどう考えたのだろう。
学校、教育側の思慮分別がどう出るか。暫く注視してみたい。
子どもの虐待などの報道が多い。春は子の事件が多くなる。こんな時福島大臣などはもっと踏み込まないとならないが、あまりそっちに向いていない。普天間もいいが、この日本の子たちの奇禍に言及はあっていい。
子育て支援しても、行くべき教場がしっかりしていないとどぶに棄てると同じになる。
どうもあっちもこっちもギクシャクして、トンチンカンになっている。
ヘタなものだ。どこをどうしたらいいかが見えていない呈だ。
一体この国はどうしたというのだろう。常軌を逸している。堅固であるべき上層がこれでは一層拍車を掛ける。
しかしそれでも多くの国民は風景として模様眺め。平成になってからの頂上崩壊り連続はますます燎原に拡大している。
尊敬と云う言葉はあっても心性が乏しくなっている。言葉でなく心性の崩壊。日本語の崩壊などもう過去のこと。今時ブームになっている。
鈍すぎる。
感動だけを欲しがっている。これは心の飢餓だ。

3.14学士会館・210に正午ご参集を。子たちの力作に耳を傾けて下さい。ちょっとした飲食も用意しています。ご家族でお越しを。何名かをお知らせ下さい。練り上げて。

3月6日 三寒四温

2010年03月06日 | Weblog
日刊ミヤワ2246号 2010/3/6                   

「三寒四温」

毎日寒暖が繰り返す。三寒四温とはよく云ったものだ。こういう熟語のセンスはほとほと感心する。
何気なく使う気象言語はその背後にどれだけの月日を経ているだろうか。
人の知の営みは地味な蓄積だ。それに圧倒される。
そこには前例を真似る→学ぶ集積だ。それだけでも積み上げられた知にはなる。
考え、思い巡らし、あるいは偶然の果実はそれを劇的に進化させる。
学びて思わざれば即ち罔し。・・・含蓄ある。無論孔子だ。要領を語っている。
罔は冥ではなかろう。むしろ囚われて身動きできないことに近い。「くらい」という日本的意味にきっと縛られている。それこそ罔い。
問うことだろうし思索だろう。疑いでもいいし想像でもいい。思うことは広大無辺の感がある。思索は技を伴った手法だ。
真似と踏襲だけじゃ駄目だよと云っている。
ふと思ったが。賞味期限の日付が過ぎていたら迷うことなく棄てる人たちがいる。この従順というより盲信は一体何によるものかと思った。
自分の判断をまったく従属させている。きっと高いものは価値があるとか、行列の店は行列する。規則は守る。こういう種族だろう。決まって煽られて消費大衆になる。
定価を買う。ブランド志向もそうだろう。作られた水路を疑いなく疾走する。そして競う。
これは「思う」ことをしていない。「学ぶ」だけ。それを信仰している。そんな人たちがバブル世代に多く、次の世代はむしろ問いの世代が増えている。
この国の面白さでもある。ボクはそんなバブル世代を非難してきたが、若い世代はそれと袂を分っている風潮は見えた。
二極分岐でもない。表現教育者としては問わぬ者は論外だ。盲従を生む。70バーバは走りだ。
作文を見続けたから余計に敏感になっている。何で同じことばかり何年限らず書いているんだとボクは問い続けた。
評価されりゃいいという観点は孔子的ですらない。考えることを取り上げられたのだ。親や教師や観点として。そして中年期になって混乱し始めている。混乱するだけまだいい。トコトン信じている者もいる。ゴミの分別も何も云われるまま。コンプラ社会は異常に現出した。
縛りを求めている。これは寛容に甘えて境界を越し、却って窮屈にする回路を進む。
せめぎ合いがない。模索領域がない。空白地帯もない。それでいて息ができないとかストレスとか叫んでいる。
観察している分には興味深いが、伸しているのは気分が悪い。
エコカー減税に買い、エコポイントに踊る。そこに素直さはあってもこだわりは見受けられない。
流れに添う者は栄えるか。そんなことすらきっと考えはしない。
学ぶ対象は過去だ。どこまでの過去か。そこに人のスケールや土台が培われる。
三寒四温。ただの時節言語ではなさそうだ。人の思索・思考の言語でもある。自然から知を得ている。ただ状態を置換しただけとは思えない。
本当の光はいつも囲みと網の中にある。ホラそこに光はあるよ。しかし多くの人は光を解き放たない。それは自己の姿でもある。

3月5日 武士西行

2010年03月05日 | Weblog
日刊ミヤガワ2245号 2010/3/5                   

「武士西行」

西行は最後まで武士であった気がする。
この素朴さ。混乱の世相との対峙を非難でなく、坊主的説教でなく、諦念でなく、自己の素朴な心の吐露を歌にして根底で対峙していた気がする。
堂上歌人とは違う。なんだか心に迫るが上手いかどうかを技巧として考えるとそうでもない。
ただこの人でないと作れないだろうという名人の域にある。
真似ができそうでできない地点に静かに安座している。そして自己と対象を見詰めている。
山の中の庵の佇まいが感じられる。
確かに
「願わくば花の下にて春死なむ その如月の望月の頃」などという歌はいい。そのままだ。しかしあえてルールを崩している。そこには人の一個の生への誰にも関与させない眦が感じられる。
この冷静さは歌に生きた人のものではない。思索と観察と洞察をしていた人が、ふと歌にして時々を描いて見せたという風なのだ。
混乱を避け、人の世に嫌気がさして出家したというのは頷けない。
人を見つつ、そうじゃないだろう、と身を以って生き示す気概が覗く。頼りなく苦悩し葉のように揺れる一個の個人をそこに見ていたと思う。
800年を越えて現代にファンを持っているのも分る。この貫き方は尋常ではない。
出家の動機は失恋だの兵乱だの・・そんなもののはずはない。感受性の鋭敏な青年は、直観で掴んだのだと思う。
きっと気の遠くなるほどの時間を生きている。庵にいるのは問い詰める時空の必然からだ。
鴨長明の傍観論とは違う。あくまで主体感覚だ。誤魔化せないから勢い素朴になる。
気取り高尚であろうとする歌人の利下腹に目を向ける。
芭蕉のような天才とは思えない。ただ彼しかできないかという名人、静かな枯れそうで枯れてない豪勇の感がある。
こんな歌を読んで見たいものだ。


3月4日 書斎改造

2010年03月04日 | Weblog
日刊ミヤガワ2244号 2010/3/4                   

「書斎改造」

まず机の上に50型のテレビを置こうと思う。それをパソコンとしても使う。
いよいよ臨戦態勢だ。ちょっと顔を上げる格好になる。無論このパソコンモニターも使う。
椅子が座り心地が悪い。クッションで足りなく座布団を敷いているが、何せ尻に肉がない。常に痺れる。そこで考えたのはマッサージチェアー。寝室から移動は骨が折れそうだが、これはいい。常に揉んだり叩いたり。足も揉んでいる。リクライニングになり、そこで寝ることも出来る。一番いいのは胡坐をかけるということ。ただでかい。背後の書棚など全面移動しないと機能しない。
電子拡大機は必須だ。今は昔のコピー台の上に載せて自在な動きをさせている。これはこれでいい。
机が少し狭くなるのと、手が届かなくなる可能性の問題を日々考えている。
書斎は狭くはないが、あれこれ考えると狭くなりそうだ。その方が思索に適していると茶室の思想のようにいう人もいるが、さてどんなものか。
椅子が回転しないとまずい。動きがきつくなる。
椅子の下に回転補助グッズを入れないと。
今後のこともある。書棚などの下にも軽く動かせるシールのようなものを貼っておこう。
まだファックスも必要だ。出来れば冷蔵庫も置きたいが、本当のものぐさになりそうでやや躊躇する。
トイレも風呂も傍で・・。そう考えると便利だが、家とは何かに行き着く。
服の整理もしないと。20年前のものも吊るしている。サイズは大きい。直して使えるものなら使おうと思った。今着ているものはそんなに多くない。手間が掛かるからどうしても安易に数着に限定してしまう。これは洋服屋に見て貰おうと考えた。事務所に運ぶ。
すると書斎の押入れは機能的なクローゼットになる。大学の寮のような仕掛けになる。
人が日々生きる場などそんなに要らないものだ。古人の庵の空間はきっとそんなものなのだろう。
文机と万感の書。琴でもあって、花を生ける気の利いた花器でもあれば。
そんな暮らしをそぞろ羨ましいと思う。やはりゴチャゴチャと細かいものがあり過ぎる。
棄てられないから箱に入れて物置に積む。
コックピットだな。
家で一番長い時間を過ごす空間。ここは本気になって機能の贅を凝らそうと。
新生活プラントやらに便乗してみよう。机の足りぬところは大工にでも頼むか。
あまりたばこを吸わなくなったから、なんとなく綺麗だ。介添え人が来ても牙城は守れる。
散逸の場は落ち着かない。体内浄化はこうして対外居住空間の整備に赴く。
しようともしなかったここ数年はなんだったのだろう。
病魔退散は空間浄化も必須だ。かつては毎日雑巾をかけていた。
そんな気になったりが嬉しい。春も到来。
誓って云う。机は大きいほどいい。部屋の半分あってもいい。そこは実質の創造の舞台だ。
事務所の机は大きい。しかしボクにはまだ狭い。風呂敷に似ている。大風呂敷。いいではないか。
包めなかったらもっと大きくしたらいい。なんなら地球を包むくらいに。
石屋を見掛けた。いい大黒様が並べられていた。これはいい。小槌をペンに変えて、文大黒。
そんなものをつくってどこぞに安置しようかと考えた。
書斎もいいが目の前に大黒様の掛け軸がある。失礼な気がする。そうか。テレビを置くとこれが見えなくなる。さてどうしたものか・・・。
のほほんとした春宵一刻値千金。

エコ作文感謝。賞が決定した。14日には学士会館で式とパーティをする予定だ。全員家族知人くるみで参加して欲しい。学習会も兼ねようと考えている。

3月3日 雛

2010年03月03日 | Weblog
日刊ミヤガワ2243号 2010/3/3                   

「雛」

今年は雛が微笑んでいる。昨年は眺めていても心に残らなかった。
さすがに全部は出せない。二人雛のまま。官女や左右大臣たちには申し訳ないが、もう少し休息していて貰おうと思う。
来年は久々に飾りたいと箱の中に声を掛けた。
これを購入したのは15.6年前か。「己が生を宝とせよ」などと書いている。
当時ボクは今に至る病の走りだった。娘が成長するのは見られないと本当に思って日々必死で生きていた。
人はしぶといものだ。これは偏に闘争だったと思いたい。
この雛はそのボクの毎年の思いを見ている。人並みなことをしたかったのではない。人には格があることを伝えたかった。身分ではない。格。それによって座が定まり、そこからの視野があるのだということ。そして責務があるということ。
ただの憧れやきれいかどうかどどうでもいい。女こそ身が問われることをただ伝えたかった。
ボクの701のピアノの上に置いてある。娘は試験勉強とやらでたまにちょこっとしか雛を見ない。しかし眺めていたら拝んでいた。まあいい。そんなものなのだろう。あまり信仰心があり、依存度が強いのも困る。
カメの甲羅の如き化学式を書いては悦に入っている。この血を分けた雛はこの子なりの山を登っているようだ。ボクの出番はない。
踏み込めないものが日に日に感じられる。それはボクの照れなのか。子は少しづつ遠巻きに後退りしないと全体が掴めなくなっている。
当時いい値だった。よく買ったものだ。記憶と記録を残したい未練の産物。ボクは自信がなかったのかも知れない。
車に積んで長利に運び奥座敷に飾った。そんなごっこをして見せたかった。父母は喜んだ。小さかった娘はうっとりしていた。畦道から落ちたり、蕗の薹を摘んだり。膝くらいしか背丈はなかった。孫の手を引く父母は晴れやかだった。
一般論の幸福を運んで見せることが必要だった。それだけで親たちは何ヶ月も話題になる。ボクの信念等たいしたことはない。
まだ建て替え前の家。今はビデオの中にしかない。雛が運ばれる場でもなくなった。そこには誰もいない。家は記憶だ。関わった人にとってのみ、そして絶える。
ただ執着し何代もそこに居て維持し拡大して行く思想があればそれはそれで楽しかろう。
しかしそれには条件が多くなった。過度期を生きた。日本人が迷走しているように、この一世紀半はなんだったのかと本当は全員で省みていい。
ただ邁進して突っ込むだけなら成熟はない。
どうも日本は実験のモルモットになっているようだ。70バーバもそうだが、あのやたら口先だけの馬鹿バブルの連中も、近視眼で競う連中も、こうしたらどうなるかの国家規模の実験に遭っている。
ここまで見てくれだけで品がなく云いたい放題と立ち往生している国民も珍しい。教養だの教育だのは見てくれだけになった。
劣化は甚だしい。予定のことだったのだろう。ここからどうするかまた予測され見られたりして。
見ている者はきっと正視している。座しているに違いない。そして「ほー」などと眺めている。
感情移入の最たるものが宇宙意思なのかもしれない。再合成しているのだし。
世間には楽に生きていけない者もいるのだ。
その頃は今よりきつかったも知れないのに、春の息吹がたちこめる彩色の陽炎か。彩色の幻灯か。甦る。
生きるってのは哀しいことだな。去る場面の膨大さに胸が圧迫される。
エコが終わったら書き始めるかな。半年毎の人生の締切日を作ることにした。足許と手元を見詰めたいと思う。それが座すということなのだろう。