日刊ミヤガワ

作家・表現教育者宮川俊彦によるニッポン唯一、論評専門マガジン。

1月17日 みかん

2009年01月17日 | Weblog
日刊ミヤガワ1843号 2008 1.17

「みかん」

みかんは小ぶりがいい。握ったら八割は手に埋もれるくらいがいい。大きいものも美味しくはなった。日本人のこの種の技術はたいしたものだ。密度も濃く、甘くなっている。しかし半分も食べると腹がくちくなる。小粒で甘さが凝縮しているのがいい。二口で食べられる。それを何個も食べた方が得をした気分になる。ひとつひとつの味も微妙に、どころか明らかに違っている。同じ幹で成ったものが連なって売られているわけもないからこれは当然のことだ。産地は同じでも異質の土壌と、こうなるまでの独自の先祖代々の歴史があるのだ。品種も何もよくは知らない。ただこの太陽色の可憐な柑橘が、書斎にチョコント鎮座していることがたまらず頬ずりをしたくなる。
冬は黄色い果物がいい。金柑もいい。差し入れを長く楽しんだ。リンゴはいいが没状況的になる。事務所の机の後ろに一つだけ置いてある。溶け込んでいて存在の主張が乏しい。寒冷地の果実はなんでこんなに物悲しく実際的なのだろう.いっそのこと真黄色い表皮のリンゴを作ったらいい。白い雪と凍てつく空間にぽっかりと自己を誇張する。冬は慌てる。
机の左右に置いてみた。形式的でよくない。シンメトリーとは単純な構図だ。右に置くと手が伸ばしやすい。右で取って向いて左手で掴んで食べて、左に皮を置くといい。そこに重ねていく。小山ができる。表皮を下にして白い部分がしどけなく剥き出しになって卓上の光を浴びている。ホッとした表情がそこには浮んでいる。すぐに捨てる気にはならない。親指と人差し指で潰せば液体は汗のように沁み出る。まだ瑞々しいのにゴミ箱に入れるのは酷というものだ。もつと乾燥空間で水分を吐き出して、カラカラになってから見るのが可哀想と思えるようになって、退場してもらったがいい。
小ぶりのみかんの顔はやはりまだ青さと少しばかりの小葉をつけている芽にある。横を押すとその都度表情が変わる。
熊が妊婦を襲って胎の子だけを食べて去るような、そんな気分にさせられる。足の浮腫みのように押したら暫くはそのままの形状を保っている。よく揉んでグルグルこすり回すと味が良くなるとか、甘みが増すとか云われていた。しかしこれを不器用なものがやると中身はぐちゃぐちゃになる。心を揉むようなもので加減が必要だ。節くれだった無骨者や雑駁な者にみかんは適さない。みかんの悲鳴が聞こえる。
エンヤのwild childを聞きながらのみかんがいい。マンゴーは合わない。リンゴはどんなに蜜が入って高価なものであっても津軽三味線の音色が合う。

どうでもいいことが気になり始めている。二冊目の対談の整理がなかなか出来ない。やろうとすると急ぎの仕事が入る。みかんの小山が左に積まれていく。
朝も夜もやり続けているのだが。ひと月は濃縮するんだろうなと思う。先週から「想の四要素」について講義でボチボチ話し始めている。想像力などと一言で安直に語ってはいけない。分類的に再確認しようとしている。場面化・読解力・思考・・という一連の回路を推進すればきっとそうなる。
それはまた主語に関わってくる。近代というのは畢竟主語の文化だと思う。
今度はそんな本も書きたくなった。
表皮の山はこの後の自身の姿に見えてきた。言葉は皮だったか。

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