日刊ミヤガワ 1581号 2008.4.30
「わかるけど」
渋谷の事件の延長か。死刑制度についての特集をテレビでやっていた。どうせ下らない頭の悪いコメンテイターがもっともらしく語るのだろうと冷やかし半分で眺めていたら、やっぱりそうだった。真っ当なことを語れる人々が消えた。今の視聴者には丁度いいのかもしれない。分かりやすさを希求した世代は結局は知識と情報だけだ。後は選択権でももらって喜んでいる。君程度でも意見を大事に聞いてくれる優しい社会だと、その本質は見抜ける知力は貧弱だ。
本当に自分の意見は尊重されると思い込んでいる。めでたい人の群れが闊歩している。
そんなことをいつまでもしているから、病んだりおかしくなる人が増える。おまけに心神喪失なら夫殺してバラバラにしても無罪を主張する。殺すときに責任能力も何も、「いっちゃってる」から殺したりも出来る。通常はできない。そんなことを取り立てて話題にしていくことがボクには疑問なのだ。
DVだったという。辛かったという。それはそうだろう。同情はする。しかし云い立てたらなんでも云えるのが今の夫婦だ。対妻対夫それぞれが心底落胆したり、話にならない場面を持っている。目に見えての暴力などまだ分かりやすい。蓄積し潜行し執拗で酷い仕打ちも多かれ少なかれ皆経験している。傷を騒ぎ立てたらいつまででも語っていられる。それだけ夫婦や家族が陥っている現況が行き詰まりなのだということだ。危機や生死などが振りかかって初めて見えることもある。それがなければのほほんとした日常で掻き立てられた感情と見せられる枯れ木に花の映像に、自分だけが不幸で取り残されて意味のない日々であるかのように錯覚する。それは哲学がなく、ただニーチェの云う蓄群的に生きているだけだから。生の生きる現実として夫婦親子家族で向き合っていないからだ。その必要すらきっと本質としては見出していない。みんなしているからしただけのことだろう。試しにその辺の若夫婦や家族に問うたらいい。「何のため?」と。きっと「えっ」と云う。そんなに考えてはいないのだ。
いい住まい、家具、ファッション、キャリア、それらしい暮らしをしていくアイテム、・・。何がそれらの根幹にあるかなど考えもしないのだ。その親たちもそれを考えさせる契機は与えなかった。社会も。学校も。
言い訳をして、自分を語り、相手を罵倒し、正当を主張する。そうすれば何割かの国民はそれに自分を重ねたり、面白半分に同情をして見せる。同類だからだ。それをまた持て囃すメディアがある。価値相対化は確かに文化としては必要だ。しかし正論を語ればいいというのは実際社会の言論効果としては逃避であることだって考えに入れなくてはならない。ましてや浅薄なままの持論など語ったとしても徒に蓄群に迎合し、助長していくだけだ。語る当人はともかく社会としてはなんらの利点もない。
死刑制度論議は、それ自体として成立しない。現況の国民意識とその動静を把握していくことが肝要だ。この浅薄で、頭が悪く、したいことをしていいという国民を創出しておいて、しかも精神医療と弁護の両輪を伸長させておいて、教育は低下させて、人格よりも倫理よりもコンプライアンスという傾向を生み出し、論理を大切だという風潮を醸し、・・。何が制度論だろうか。
どうもおかしい。国民がみんな自己判断力や思考力を少なくとも平均程度には持っているという前提で話が進んでいく。
そうではない。明らかに低下し、衰退して、愚かでおかしい人が増加しているということを前提にしなくてはならない。そしてそれはよくないことだと。自分はそれでいいのだという見解にはならないのだと、これが制度論の基点であるべきだ。
法は教育としての見地でボクは捉え切る。よって見せしめとしては死刑とか終身刑とかそういう固定で考えるべきではない。しかるべき社会奉仕活動をさせるとか、死刑にしても死ぬ気になって何事かをさせるとか、死に方を考えさせるとか。いずれにせよ、本当に対しての教育というだけでなく国民への見せ方が重要なのだ。死刑存続か廃止かなど論議のテーマとしては陳腐でまったく奥行きがない。
終身刑なら税金で食べさせることになるなどと発言する馬鹿もいる。悔悛を見せない者もいるとか。生き残ることはより重い罰だとか。そんなことを延々と話している。そして賛成だの反対だのと。よくもまあ、これだけ低水準の作家や文化人を集めたものだ。国民はこれが議論の本質かと思うだろう。
ここ数年でますますひどくなっている。
死刑はあっていい。それはもはや抑制効果なしとしてもあっていい。しかし適用は是々非々だ。そこに人の英知がある。制度はあるけれど、長年死刑にはしないというのも英知だ。一殺多生故の死刑も時には必要だ。弾力的に運用したらいいだけのこと。難解な論議とは思わない。現に世界でも公開処刑の国もあれば死刑廃止の国もある。そのこと自体が示していることを真摯に受け止めたらいい。
そんなことよりもメスを入れるべきは、今の事件現象の本質の解明にある。なぜそういうことになるのかを執拗に審議し論議していくことだ。それがまた抑止効果にも教育にもなる。
学校で授業にしてもいい。
おかしくなることを許容しない社会を作ること。社会治癒力を回復していくことだ。どこかでボクらは手がつけられない相手を遠巻きにして、放置することをしている。泣き叫ぶ者をいなしている。平手打ちすらしなくなった。「取り乱すな」と怒鳴り押さえつけることもしなくなった。
肯定し「分かるよ、分かるよ」と宥めるだけになっている。
ストーカー、付きまとい、無言電話、文章の送りつけ・・。ボクも幾度となく経験がある。厳しく接すれば逆上すらする。それなりにきちんと対応してきたが、難しい者もいた。
沈静化させる。浮薄に錘をつける。これを対個人ではなく社会政策としてすべき喫緊の課題のように思う。
残念だが、国民は劣化している。モデル、標準を示していかないと更に崩壊する。理想は理想として、時には後退してまた進んでいく勇気も必要なのだ。
映画「アナスターシャ」の最後に皇太后が語るセリフが心に甦る。「皆の者。芝居は終わった。家にお帰り」。
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「わかるけど」
渋谷の事件の延長か。死刑制度についての特集をテレビでやっていた。どうせ下らない頭の悪いコメンテイターがもっともらしく語るのだろうと冷やかし半分で眺めていたら、やっぱりそうだった。真っ当なことを語れる人々が消えた。今の視聴者には丁度いいのかもしれない。分かりやすさを希求した世代は結局は知識と情報だけだ。後は選択権でももらって喜んでいる。君程度でも意見を大事に聞いてくれる優しい社会だと、その本質は見抜ける知力は貧弱だ。
本当に自分の意見は尊重されると思い込んでいる。めでたい人の群れが闊歩している。
そんなことをいつまでもしているから、病んだりおかしくなる人が増える。おまけに心神喪失なら夫殺してバラバラにしても無罪を主張する。殺すときに責任能力も何も、「いっちゃってる」から殺したりも出来る。通常はできない。そんなことを取り立てて話題にしていくことがボクには疑問なのだ。
DVだったという。辛かったという。それはそうだろう。同情はする。しかし云い立てたらなんでも云えるのが今の夫婦だ。対妻対夫それぞれが心底落胆したり、話にならない場面を持っている。目に見えての暴力などまだ分かりやすい。蓄積し潜行し執拗で酷い仕打ちも多かれ少なかれ皆経験している。傷を騒ぎ立てたらいつまででも語っていられる。それだけ夫婦や家族が陥っている現況が行き詰まりなのだということだ。危機や生死などが振りかかって初めて見えることもある。それがなければのほほんとした日常で掻き立てられた感情と見せられる枯れ木に花の映像に、自分だけが不幸で取り残されて意味のない日々であるかのように錯覚する。それは哲学がなく、ただニーチェの云う蓄群的に生きているだけだから。生の生きる現実として夫婦親子家族で向き合っていないからだ。その必要すらきっと本質としては見出していない。みんなしているからしただけのことだろう。試しにその辺の若夫婦や家族に問うたらいい。「何のため?」と。きっと「えっ」と云う。そんなに考えてはいないのだ。
いい住まい、家具、ファッション、キャリア、それらしい暮らしをしていくアイテム、・・。何がそれらの根幹にあるかなど考えもしないのだ。その親たちもそれを考えさせる契機は与えなかった。社会も。学校も。
言い訳をして、自分を語り、相手を罵倒し、正当を主張する。そうすれば何割かの国民はそれに自分を重ねたり、面白半分に同情をして見せる。同類だからだ。それをまた持て囃すメディアがある。価値相対化は確かに文化としては必要だ。しかし正論を語ればいいというのは実際社会の言論効果としては逃避であることだって考えに入れなくてはならない。ましてや浅薄なままの持論など語ったとしても徒に蓄群に迎合し、助長していくだけだ。語る当人はともかく社会としてはなんらの利点もない。
死刑制度論議は、それ自体として成立しない。現況の国民意識とその動静を把握していくことが肝要だ。この浅薄で、頭が悪く、したいことをしていいという国民を創出しておいて、しかも精神医療と弁護の両輪を伸長させておいて、教育は低下させて、人格よりも倫理よりもコンプライアンスという傾向を生み出し、論理を大切だという風潮を醸し、・・。何が制度論だろうか。
どうもおかしい。国民がみんな自己判断力や思考力を少なくとも平均程度には持っているという前提で話が進んでいく。
そうではない。明らかに低下し、衰退して、愚かでおかしい人が増加しているということを前提にしなくてはならない。そしてそれはよくないことだと。自分はそれでいいのだという見解にはならないのだと、これが制度論の基点であるべきだ。
法は教育としての見地でボクは捉え切る。よって見せしめとしては死刑とか終身刑とかそういう固定で考えるべきではない。しかるべき社会奉仕活動をさせるとか、死刑にしても死ぬ気になって何事かをさせるとか、死に方を考えさせるとか。いずれにせよ、本当に対しての教育というだけでなく国民への見せ方が重要なのだ。死刑存続か廃止かなど論議のテーマとしては陳腐でまったく奥行きがない。
終身刑なら税金で食べさせることになるなどと発言する馬鹿もいる。悔悛を見せない者もいるとか。生き残ることはより重い罰だとか。そんなことを延々と話している。そして賛成だの反対だのと。よくもまあ、これだけ低水準の作家や文化人を集めたものだ。国民はこれが議論の本質かと思うだろう。
ここ数年でますますひどくなっている。
死刑はあっていい。それはもはや抑制効果なしとしてもあっていい。しかし適用は是々非々だ。そこに人の英知がある。制度はあるけれど、長年死刑にはしないというのも英知だ。一殺多生故の死刑も時には必要だ。弾力的に運用したらいいだけのこと。難解な論議とは思わない。現に世界でも公開処刑の国もあれば死刑廃止の国もある。そのこと自体が示していることを真摯に受け止めたらいい。
そんなことよりもメスを入れるべきは、今の事件現象の本質の解明にある。なぜそういうことになるのかを執拗に審議し論議していくことだ。それがまた抑止効果にも教育にもなる。
学校で授業にしてもいい。
おかしくなることを許容しない社会を作ること。社会治癒力を回復していくことだ。どこかでボクらは手がつけられない相手を遠巻きにして、放置することをしている。泣き叫ぶ者をいなしている。平手打ちすらしなくなった。「取り乱すな」と怒鳴り押さえつけることもしなくなった。
肯定し「分かるよ、分かるよ」と宥めるだけになっている。
ストーカー、付きまとい、無言電話、文章の送りつけ・・。ボクも幾度となく経験がある。厳しく接すれば逆上すらする。それなりにきちんと対応してきたが、難しい者もいた。
沈静化させる。浮薄に錘をつける。これを対個人ではなく社会政策としてすべき喫緊の課題のように思う。
残念だが、国民は劣化している。モデル、標準を示していかないと更に崩壊する。理想は理想として、時には後退してまた進んでいく勇気も必要なのだ。
映画「アナスターシャ」の最後に皇太后が語るセリフが心に甦る。「皆の者。芝居は終わった。家にお帰り」。
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